「お蔭さん」の時代。(原田武夫の”Future Predicts.” Vol. 85)
最近、とみに思い出している言葉が一つある。それは北の大地に暮らす我が敬愛すべきメンターから賜った一言だ。
「良いかい、ヒトとして一番重要なのは”お蔭さん”だ。すなわち何かをしてもらったらばちゃんとお礼を返す。何も金銭である必要はなく、大それたものである必要もないのだ。こちらがさせて頂いたことについて、全く何も返してこない、反応してこない、あるいはもっといえば「ありがとうございます」と言ってこない者はもはやヒトでもないのだから付き合ってはならない。なぜならば、そういった者に対して何をしても、そもそも”返報性の論理”を知らないわけだから、ヒトですらなく、時間の無駄にしかならないからだ。」
返報性の論理、とは何か。実はこの論理こそ、人類とサルとを分ける大きな差であることをまずは踏まえなければならない。サルは、餌をいくらやってもお礼を言うことはない。ましてや「お辞儀」をすることすらしないだろう。しかし人類、そして意識ある存在としてのヒトは違う。たくさん頂くと、どうしても「返したく」なるのだ。そしてこれこそが「贈与経済」、ひいては人類社会における経済活動の根源にあるのであって、そうしたセンスが本能的にないのであればもはやその存在は「ヒト」ですらないということなのである。そしてサルに対して「お礼を言う様に」と期待しても、結局は何にもならないように(もっとも「お礼」の真似事は猿回しによって仕込むことは出来るだろうが)、そんなことをしても全くもって徒労なのである。そのことを我がメンターは云ってくれたのである。
最近、このことをとみに思い出すのには理由がある。
国際関係についても同じなのである。例えば米国のトランプ大統領というのはある意味この点での「しつけ」がしっかりされているのであって、だからこそ「世界の警察」として米国が活動を展開してきた世界の至るところで、「お礼を言え!」とぶちまけ続けている。我々の側からすれば「何を言っているのか?」とついつい思えてしまうわけであるが、これもまた「お蔭さん」の論理からいえば、こちらこそ不義理ということになってくる。なぜならば「米国崇拝者」が多い割に、何かというと「米国が悪い」と言い出す者が多いのもまた我が国だからだ。その意味で我が国は現在、「サルの国家」と言われても仕方がないのかもしれない。
もっともこのことは隣国たちについても同じだと、最近感じている。例えば中国。面白いもので、中国という国は、そこを統べるトップクラスのリーダーになればなるほど、我が国に対して実のところ頭を垂れている。無論、表向きはそんなことを言わないのであるが、1:1になると率直に「中国の現代はほぼすべて日本から学んだものであり、また現在もなおそうである」と御礼を言ってくるのである。聞かされる側のこちらがついつい面映ゆくなってしまうくらいだ。
ところが、それがいわゆるトップのマネジャークラスとなると話が全く変わって来る。現在の中国の「繁栄ぶり」は全て、中国勢の才覚故であって、それとの比較においてで遅れているのが我が国だと公然と語ってはばからないのである。昨日も東京にて、上海を代表する経済学者の方(同時に投資家でもある)とお話する機会を得たが、何ともまぁ鼻息が荒いのである。「Silicon based economy」という考え方、すなわち人力ではなく、AI-agentが生産した付加価値で国民経済を換算するようにしないと、実のところ企業価値も的確に計算されないのであって、要するにマグニフィセント7の株価が上がっている中、伝統的な自動車産業等が低迷しているといった状況も説明出来ない、だからこそ、伝統的なGDPの議論から脱却すべきだというのが氏の論だ。これはこれでアカデミックに見ると至極全うな議論なのであるが、それでは我が国についてはどう考えますか?と聞くと、「日本はねぇ・・・」と冷笑するに止まるのである。そして聞くと、氏の親しい友人たちで上海でスタートアップを起こし、人によっては年率で10倍(!)の株価伸長を続けている御仁とその家族たち大勢は、「コロナ禍」以降、我が国の大勢暮らしているのだという。ところが、彼等はビジネス自体は上海で行っているのだとも聞いた。つまり、家族で滞在しているのに、カネは我が国に落とさず、あくまで上海で落とし、税金やらなにやらは全て中国で、しかし身の安全と快適な生活は我が国でfree lunchというわけなのである。お世話になっている我が国に対してはほぼカネを支払わない。この話を聞いた瞬間に、「中国の将来が見えた」と感じた。なぜならば「お陰さん」の無きところに未来はないからである。つまり、そこには偏在が明らかに生じており、やがてそれはルシャトリエの原理により、怒涛の如く元いた方向へと轟然と動き出すからである。
振り返って我が国についてであるが。最近、大学やインターンシップで関わっている学生たちと交わると、LINEを通じた彼・彼女らなりの「コミュニケーション術」の細かさに圧倒される時がある。友人、知人、そして好意を持った相手に対してメッセージを送るが、返事が全くない時にどうするか。ある男子学生はそんなシチュエーションでどうするかを筆者に尋ねられ、「自分は追いLINEはしないことにしている」と言っていた。要するに返事が一切無いのに「追撃」はしないというのである。何故なのかと聞いたらば、それでも拘っている自分が何とも情けなく想えるし、それ以上に余り深追いすると「ハラスメント」になるやもしれず、あるいは「ディスられる」かもしれないからである。また他の女子学生は「LINEは既読にしないで読む方法があるのです」と嬉しそうに説明してくれた。すなわちメッセージは事実上読めるが、相手に「読んだ」というサインすら送らず、放置出来る術があるというのである。
こうした若い方々の説明を聞いて、「あぁ、我が国の地盤沈下は、お陰さんが消え始めているところからだ」と嘆息を禁じ得なかった。ある程度、こちらからの意思を静かに、しかし少しだけ良い意味で「圧」になるように伝達しないと始まるべきものも始まらないのである。他方でそれを知っていて全く何らの反応、すなわち表立って「既読」にすることもなくスルーする、といったことが続けば、その実、自分自身の「ヒトがヒトであるが故に持っているセンス」が鈍くならざるを得ないのであって、やがてそれはご自身のある意味での凋落へとつながっていくことに、気付いていないのが実に嘆かわしくてならない。総じてこれは、本来ならば「親」が教え込むべき「躾」なのかもしれないと最近では強く想っている。そして「お陰さん」の論理を踏まえて行動出来るヒトこそ、実に美しく、輝いており、かつ何時の世においても「成功者」になるのである(とはいえ、難しいのは「返事が無くても既読表示をあえて許すだけで意思表示だ」という今時のルールだ。それが単に電気的なシグナルに過ぎないと認識しているのがdigital ageなのであると理解する、これこそが大学教員の端くれとしての持つべき心得だと、最近になってようやく学んだ次第ではある)。
確かに、溢れる情報に対して一つ一つ対処していては実に骨が折れるのが現代だ。しかしそれと、ヒトがヒトであるが故の「お蔭さん」の論理とは違うのである。大手を振ってグローバル社会について論じる前に、実はふとした身の回りにこそ、本当にわきまえることがあるべきだと思う、今日この頃なのである。
2026年6月6日 東京の寓居にて
株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト
原田 武夫記す