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7月の蝉、8月の鯨。(原田武夫の”Future Predicts.” Vol. 89)

このブログを書かねば、と思った時、ふと思いついたことがある。それは「7月の蝉の鳴き声を聞かなくなってどれくらいの月日が経っただろう」ということである。

そもそも7月は「盛夏」ではないので、蝉は鳴いていないのかもしれない。しかしそれは物の例えなのであって、「夏を夏としてとらえる」ということがこの20年くらい、無くなっているような気がする。いつの間にか始まった「デジタル化」「グローバル化」「金融資本主化」の中で私たちにとっての「季節」はほぼなくなった。かくいう筆者も、これらの最前線におり、かつ経営リーダーシップも務めているので、24時間365日、いついかなるところにいたとしてもほぼ同じことを繰り返す、を生業としている。その意味でこの20年ほどの間に一気に進んだこうした世界的なトレンドに「最適化(optimize)」しているという自負はあるわけだが、しかしだからこそ、ふと思ったのだ。「7月の蝉を聞かなくなったどれくらいの月日が経ったであろうか」と。

もっとも「季節」が筆者の生活の中で全く無くなったのかというとそうでもない。否、むしろ明確に「歳時記」を意識させてくれるカレンダーがある。幸いなことながら、筆者は2022年度より学習院(女子)大学において非常勤講師として教鞭をとるべき立場にある。4月、10月になると講義を聞きに新しい学生たちがやってくる。中には飛び切り優れている学生もいて、あるいは人懐っこい学生もいて、弊研究所において社会勉強をしたいとインターンを申し込んでくれたりする。学生によっては実に4年近くも働いてくれたりするわけで、ついついこちらとしては「季節」を忘れてしまう。

しかし、である。学生の目線から見ると全くそうではないのであって、弊研究所にどんと構えている筆者を筆頭とした大人たちは皆、「通過点」に過ぎないのである。当然、「惜別」の時がやってくるわけであるが、そのことをどうしても認められない自分がいることを覚えるのは、きっと経営リーダーシップを務めている筆者だけではないのではないかと思う(特にこれらインターンシップの担当として日夜奮闘してくれている我が部下もきっと同じ心境であろう)。つまり、「7月の蝉」はそうした惜別の瞬間に、突然我らの耳の近くで鳴き始めるのである。とはいえ、去る側の学生たちからすれば実にあっさりしたものであり、筆者を筆頭に研究所とは全くもって疎遠になるのが基本だ。それはそれで、つい先日までなかば同僚であるかの様に一緒にいてくれた彼等・彼女らがいなくなっってしまった(もっと正確に言えば「去られてしまった」)研究所にいる私たちの側からすれば「嘆き(grief)」にすら達するくらいのことがままある。しかし、そんなことは学生の皆さんにとってはお構いないのであって、ある日、突然、往々にして「卒業」「就職」と共にざっくりと縁を私たちから切ってしまう。

先日、「インテリジェンスの賢人」「異能の人」と呼ばれてきた御仁が、「会社を辞めた初老のサラリーマンたちこそ、孤独を紛らわすべく、立ち飲み屋に行くべきだ」という実に「一風変わった(笑)」持論を展開されているのを目にした。その時は「連載数が余りにも多いのでネタに困ったのか?」と思わず笑ってしまったが、結局はこれこそ、この「7月の蝉」問題と同じなのかもしれない。ヒトは誰しもが「自分本位」である。自分は絶対に老いないと思っている。しかしある時、「そうではないという冷厳な現実」を突きつけられるのである。その瞬間、えも言えぬ寂寥感に襲われてしまう。そこでもがき苦しむ、とりわけ初老の男性を描く文学作品が古今東西、何と多いことか!本格的な「加速する高齢化社会」を迎えた我が国においては、この「7月の蝉」問題こそ、本当は取り組まなければならない問題なのかもしれない。

私たちの目線からすれば、若年者は「同じ」なのである。ヒトは男性であれば15歳前後、女性であっても16,7歳くらいで「物心」がつき、以後、変わらないように思うのは筆者だけであろうか。そしてついつい若年者に対して「同じ目線」で話しかけ、動こうとするのであるが、ある時、こう言われてハッとするのである。

「あなたは・・・私よりも先に死んじゃいますからね。」

無論、たわいもない会話の中ではそんな話になるはずもなく、それなりにこの(時にまだあどけない表情をしている)若者は考え、悩んだ末にそう言ってくれているのかもしれない。しかし、こう言われた年長者はというと、その瞬間に耳元で「7月の蝉」が激しく鳴き出すことを覚えるのである。しかし、泣いたところで何も始まらない。あとはただ、旅立っていくこの若者をそっと、静かに見守るしかないのである。そう、それしかないのである。

7月が過ぎれば、8月は必ずやってくる。そして8月といえば鯨である。もっとも筆者の頭の中では2つの文芸作品が混濁してしまっているようだ。『8月の鯨』という映画がある。そして『52ヘルツのクジラたち』という小説がある。これらは全く違う作品なのであるが、どうしても筆者の頭の中では混ざってしまった仕方がない。

「クジラには2種類いる。中でもある種のクジラはお互いにしか分からない周波数(52ヘルツ)で「歌」を歌っており、遠くからでもお互いを認識し、寄り集うことが出来る」

確か、そんなストーリーだったと思う、後者は。そしてそのことがまた、暑さの中でふと、窓外を眺め、これまでを思い起こし、「そうだ、今は亡き親に会いにいこう」などと殊勝にも思ってしまう8月と、重なってしまう自分がいる。

ふと「命」の現実を巡る厳しさを、目の前を次々に過ぎ去っていく若者たちから「7月の蝉」たちの鳴き声の様に強烈に覚えさせられる最中だからこそ、「それでもなお」と「8月の鯨」にかけてみようと思う自分がいるのである。すなわち「52ヘルツの我が歌が聞こえるのであれば、必ずやまた、そう、いつか必ず、どこかでまた会うこともあるはず」と。シンクロニシティだけが為すその業の意味をこれら若者たちが知るのは、遠い遠い先のことであろうが、しかしだからこそ、そんな未来における彼・彼女らとの「再会」を楽しみにしてしまう自分がいるのである。そしてこれこそが、「生きる」ということ、であり、かつ「生きる力」の根源に横たわっていることなのかもしれない。

「老年期」を明らかに迎えた国家・ニッポンについてもも全くもって同じことだ。「7月の蝉」の激しい鳴き声を、次々に突き付けられる現実の中でようやく聞き始めた今だからこそ、「8月の鯨」を想うべきなのだと筆者は思っている。そう、今こそ「未来」を語るべきなのだ。去る側、ではなく、戻って来るかつての「若者」たちを迎え、その手で抱擁する側として。そう、こうしたスタンス、生き様こそが、他のどの国家よりも早く、経済成長し、繁栄をしてきた我が国に今こそ、グローバル社会全体から期待されていることの様に思えてならないのである。

明日=(5日)、筆者はスイス・ジュネーヴで開催される国連主催”Global Dialogue on AI Governance”に出席するため、本邦を後にする。しばしの間、「7月の蝉」を忘れ、「8月の鯨」を想う旅に浸りたいと思う。そしてその先には・・・いよいよ怒涛の月日が待っている。

2026年7月4日 東京・自宅にて

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト

原田 武夫記す

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