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見えないものを見る (連載「美と心の旅」・その1)

みなさん、はじめまして。フラヌールです。早速ですがこのコラムでは「美と心の旅」と題して、私が普段、大学で学んでいる医学から見た「心の世界」をベースにしながら、何気ない形で日々の生活の中で出会った美について語っていきたいと思います。他のコラムニストの皆さんが書かれている文章はどちらかというと政治経済のお話。しかもこのコラムをお読みになられている読者の皆さんの多くは経営者であると思います。ちょっと軽い話題と軽いタッチになりますが、忙しい日常の中で浴びる心のシャワーだと思って、気楽に読んで頂ければと思います。

今回は私の生まれ故郷である奈良にある興福寺の中に聳える南円堂について書いてみたいと思います。

皆さんは「奈良」というと何を思い出すでしょうか。―――私と同じようにそこで生まれ育った方でなければきっと「春日大社」とか「東大寺の大仏」とか、はたまた「鹿と御煎餅」とかを思い出すのではないかと思います。それでは「奈良といって想い出す“色”は何ですか」と聞かれたらばどうでしょうか。きっと考えてしまいますよね?「何となくくすんだイメージ」「京都がところどころ極彩色なのに対して、奈良は古ぼけた木のイメージ」といったところでしょうか。

先日、大学の中で面白い同級生と出会いました。「俺は京都よりも断然、奈良だな。何回も一人で行っているよ。」というのです。私がその奈良出身だと聞くと、がぜん身を乗り出して話をしてきたのが印象的でした。「どうして奈良なの?」と聞くと、どうもあのくすんだ感じが良いというのです。私は、特に深い理由があるわけではないのですが、「この人、なんか大人だなぁ。自分自身の感覚を大切にしてるのだな。」と感じました。というのも、私より二回り以上先輩の素敵な大人の方々に奈良好きはかなりいると思われます。しかし、奈良好きの同年代に出会ったのは初めてでした。

別に生まれ故郷だから奈良贔屓というわけでは決してないのですが、京都が好きというのはとても分かりやすいわけです。歴史の授業でしばしば習う有名な神社仏閣が次から次に街の中では出てきますし、その派手な美しさは多くの国内外の旅行者を惹きつけるのも納得です。

一方、奈良といえば・・・決まって同年代の友人が報告してくるのは、鹿と大仏を見てきたということくらいです。京都に行ったついでに寄っとく感が否めません。修学旅行であわただしくお決まりのコースを終えたら慌ただしくバスで去っていき。記憶に残るのは大方、地味な街・奈良ということだけのようです。本格的な都として日本で歴史の中に最初に登場する街であり、国宝・重要文化財は東京・京都に次いで全国3位の県として、あぁ悲しや・・・ だから、情熱的に「奈良の良さ」を語る同級生に感激を覚えました。そして私はふと、幼い頃のことを思い出していました。―――奈良といえば、その場に住んでいる人たちの目線で見ると何といっても興福寺です。東大寺も春日大社も、そして正倉院も良いのですが、奈良の街のど真ん中に位置しているのはこの興福寺の大伽藍なわけです。というわけで、奈良駅に来た際にちょこっと参拝していこうかとなると興福寺に立ち寄ったものでした。そんな興福寺の中でも特に思い出深いなのは「南円堂」です。興福寺といえば、国宝の五重塔が真っ先に思い浮かぶ人が多いと思います。重要文化財である「南円堂」は、皆さんにとって余り馴染みの無い御堂かもしれませんが、西国三十三所観音霊場の第九番札所として知られる八角円堂です。弘仁4年(813年)に藤原冬嗣が父・内麻呂の冥福を祈って建立したことで知られています。藤原内麻呂・冬嗣は興福寺を氏寺として反映させた藤原家の中でも、摂関家北家として栄華を極めた父子です。南円堂の建立も、今の言葉で言うと正に「バブリー」そのものだったようであり、地神を鎮めるため和同開珎など大量の銭を撒きながら行われたといいます。今では考えられないことですが、どうやらこの建立プロジェクトには弘法大師・空海が深く関わっていたとのこと。私たちが普段うかがい知ることが出来ない真言密教の世界からいうと、それがきっと最も正しいやり方であったのかもしれません。

また、南円堂には一言観音と呼ばれる観音様がおり、その名の通り一言だけ願いを叶えてくれると伝えられています。受験シーズンになると、受験生の母親でいっぱいに。私の母親も御多分漏れず通ってくれたそうです、なんと有難や。

さて。奈良県の多くの小学校の美術の時間では近くのお寺で写生会というのが約半年に一度は行われます。静かな寺院でゆっくり写生とは、今考えてみると何と贅沢な教育でしょうか!そうした子供時代に私は知らず知らずに寺院と仏像の美と心の世界に引き込まれていったのかもしれません。そして私が最も好きな仏像が興福寺南円堂の「不空羂索観音菩薩坐像」です。“ふくうけんさくかんのんぼさつざぞう”と呼びます。現在私たちが目にすることが出来るのは平安時代末期に興福寺から懇願され、この南円堂の復興を任された康慶(あの「運慶」の父)の手によるものです。史料に残されているオリジナルのものとぴったりと合うものを康慶は創り上げたことでも知られています。

康慶が再建し、天平の輝きを取り戻させたこの金色の菩薩坐像はそのまばゆい輝きもさることながら、両目と額にある目の3つの眼で一心に祈る衆生を暖かく見守られています。そして手に持った羂索で、迷える衆生の望みを丹念に拾われていくのです。その慈悲深い姿を写実主義で再建したのが康慶でした。もちろん私は子供心にそうした「難しいこと」は全く分かりませんでした。それでも拝まずにはいられないなんともいえない静かな微笑みを前に、おぼろげながら何かこう“暖かく包み込んでくれるもの”を感じたことは確かでした。

「見えないものを見る」―――これが奈良で私たちが修養することの出来る全てなのかもしれません。かつてはこの南円堂に置かれていた法相六祖像も同じなのですが、一般に康慶・運慶を中心とした平安時代末期から鎌倉時代で全盛を迎える「慶派」は写実主義的であったと言われます。たとえ歴史上の人物であっても、あえて今そこで見てきたように彫ることによってリアリティを出し、見る者に意味を伝えているというわけです。その意味で「見えるものをそのまま伝える」というのがそのやり方であったかのように思えてしまいます。

しかし、本当にそうでしょうか。明治維新の後、多くの仏像の修復を依頼された岡倉天心は「現状維持修理法」をとったといいます。つまり現状をあえて維持しながら、最低限の修理だけするというやり方を採用したのです。ですから、空海が駆け巡った弘仁の頃、あるいは康慶がそれに想いを馳せながら復興を図った時の輝きは、この「不空羂索観音菩薩」についても完全な形で取り戻されているわけではありません。

しかし奈良の本質、南円堂で感じるもの、そしてその中に鎮座されている「不空羂索観音菩薩」が教えてくれるものは、もっと深いところにあるように思うのです。それはあえて3つの眼を掲げながらも、「見えないもの」を見るということ、すなわち己の心の中をもう一つの眼でしかと見るということなのです。そしてそこでまざまざと見えてきたものを通じて私たちは己の醜い姿を知り、それを悔い改め、善きもの・安寧なものを求めて更なる高みを目指し始めるのではないでしょうか。

 

「不空羂索観音菩薩」は毎年10月17日のたった1日だけ、一般に公開されます。奈良で生まれ育った人たちも心待ちにしている大切なその日に、皆さんも時間を作って拝観されてはどうでしょうか。

 

添付画像元:興福寺HP(http://www.kohfukuji.com/property/cultural/105.html)

資料:南円堂特別開扉:http://www.kohfukuji.com/event/festival/11.html

 

【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

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