2016年4月末を持って「次」へと移る世界。 (連載「パックス・ジャポニカ」への道) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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2016年4月末を持って「次」へと移る世界。 (連載「パックス・ジャポニカ」への道)

このコラムを通じてはあえて書いて来なかったが、私の研究所が出している調査分析レポートでは繰り返し述べてきていることが一つある。華僑・華人ネットワークのハイレヴェルから2月半ばの段階で伝えられた言葉だ。

「全ては2016年4月末をもって変わる。それまで心して待つように。そこから全てが始まる。これまでの尽力に心から感謝する」

しばしば私が聞かれることが一つある。「結局のところ、何を分析しているのですか」という問いである。

この問いに対する答えは、簡単であり、同時に難しい。すなわちある種の”センス“を持ち合わせている方々にとっては言わずもがななのであるけれども、哀しいことにそれを持ち合わせない方にとっては皆目見当がつかないことなのである。

それではその”センス”とは何かというと、時代の流れの”節目“が一体どこで生じ、その先はどうなるのかというものに対する”センス“なのである。ここでいう時代とは、西洋では「時代精神(Zeitgeist)」と呼ばれてきたものであり、あるいは東洋では「龍」と言われてきたものであると申し上げれば御理解頂けるのではないかと思う。そして大きく目の前を動き続ける”これ“には明らかに節目があり、その節目に誘われるようにして私たちは成長・成功し、あるいはそれに躓くかの様に失敗・淘汰されていくのである。このことが直観的に分かる方とそうでない方が明らかにいる。だからこそ、私は”センス“とここで言っている。

西洋諸科学はご承知のとおり「再現性」を柱として構築されている。しかしそもそも西洋諸科学が行って来たこととは、あるいは“神”と呼ばれてきたこの「時代精神=龍」そのものをとらえ、出来れば己のものにしたいという強烈な欲望に基づく行動に他ならないのである。そして「龍」が頭から始まり、尻尾で終わるという形態をしているようにその動き・流れは一回性でしかないのにもかかわらず、それが誰の目の前でも繰り返されるという意味での「再現性」に直結していると考えることは余りにも矛盾しているのである。

それでもなお西洋諸科学の研究者たちがなぜ「再現性」に拘るのかといえば、先ほど述べた“センス”を残念ながら持ち合わせないからなのである。要するに嫉妬からそう主張しているに過ぎないのであって、“センス”を持ち合わせている方々は邂逅の瞬間から分かり合えるのとは大違いなのである。

この様にいうと「神がかり」という声が聞こえそうだ。正直申し上げるならば、今から14年前までの私もそうだった。当時の私が書いた論文や書籍を読んで頂ければお分かり頂けるとおり、私にとって絶対的であったのは人類に普遍に宿っているはずの「理性」なのであって、それが徐々に世界において顕現(reveal)していく過程こそが世界史なのだと信じてやまなかったのである。あるいはドイツ留学中に貪り読んだヘーゲルの史観が脳裏に刻み込まれすぎていたのかもしれない。

しかし人生とは実に不思議なもので14年前に起きた「ある出来事」から私の人生は決定的に変わったのである。それは余りにも根元的なものであり、同時に決定的なものであったことを今でもよく思い出す。

時は正に「構造改革・規制緩和」真っ盛りの時代であった。「ぶっ壊す」をキャッチフレーズに縦横無尽に動き回る小泉純一郎総理大臣(当時)の余りにも突然の登場に面食らいながらも、その勢いが止まらないと見極めるや否や、我が国の社会全体がその流れの盲従し始めたのである。その一方で、私の立場は当時、「官僚」「外務官僚」なのであった。「改革勢力」からすれば”守旧派“の権化ということになる。職場にはバッシングの矢が役所の外から次々に飛んで来、嫌気がさした者たちは民間に転職してはカネの亡者を目指し始め、あるいはそうしたやる気が起きない者たちは省内で隠遁を決め込み始めた。

私はといえば、よくよく考えるとこうした「改革勢力」に与することも、あるいは最も簡単に出来るポジショニングだったのかもしれない。省内においては公金横領をした同僚たちを徹底追及する「査察」の役割も担っていたし、汚らしい過去との訣別を叫んで、国会議員の議席の一つや二つなど、得ようと思えば得ることが出来たのだと思う。現に外務省を辞めようと決意した私の下には与野党の領袖から「今度の国政選挙に出ないか」という具体的なお話を頂いた(その一人は現在、内閣総理大臣になっている)。

だが、私はどうしても違和感を拭えなかったのである。世界史において余りにも根元的な部分を担っている人脈との邂逅が、結局、14年前から隠すことの出来なくなった「違和感」の根源であったわけであるが、そのレヴェル感からするとたかだか「議員バッジ」をつけることにそのタイミングで邁進することなど、無意味に思えて仕方が無かったのである。実際、その後、「選良」であるはずの議員諸兄が余りにも下らないスキャンダルで次々に失脚していくのを見ると、そこでの直観は正しかったのだと思うわけだ。少なくとも、あの“出会い”によって気付かされた私が進むべき道では確かに無かった、と。

それでは己のやるべきこと、進むべき道のりがはっきりと分かっていたのかというとこれまたひどく心もとなかったことも事実なのである。だが、繰り返しになるが14年前に起きたある出来事によって刻印された、世界史そのものを担う人々のレヴェル感というか、深さというか、包括性というか、そういったものからするとまだまだ己は卑小であって、為すべき修業は多々あると直感的に思ったわけなのだ。私が外務省を自主退職した後、一体何をしてきたのかといえば、こうした意味での「直感」だけを頼りに真っ直ぐに突き進んで来たに過ぎない。

そうした過程で、徐々に己の(ある意味、世間的に見ると「無謀」な)突進に“意味”を与えてくれる方々が一人、そしてまた一人と現れたのである。様々なレヴェルまで入れると正に無尽蔵といった数になるが、あえてこの場で決定的な“意味”に気付かせて下さった方々を指折り数えるのならば4名ということになる。そしてそれらの方々のいずれもが、私が為すべきことが世界史において根元的な潮流、すなわち件の「時代精神=龍」と直結していることを気付かせてくれ、だからこそ前進しなければならないし、具体的に何を成すべきかを1つ1つ、私が前進するという意思を持つ限りにおいては示して頂き続けているというわけなのである。

その間、私は実に様々なことを問わず語りで学んできた。―――世界、いや森羅万象は根底においてたった一つの原理で動き続けているということ。そのことを自覚し、それと符合して動く者たちののみ未来は切り開かれるということ。そうした者たちは決して己を喧伝することなく、「よく隠れし者、よく生きたり(Bene qui latuit ,vene vixit)」なのであって、その言葉は必ず、そう”必ず“、必要な人物に必要なタイミングで届くようになっているということ。そうした原理で動いている世界の基層は普段、表に出ることはなく、正に「昼行燈」とでもいうべき生活を送っていること。しかし一たび「時代精神=龍」の節目がおとずれるとなると、一気に動き始め、他が圧倒され、呆然とする中、瞬く間に次の「構造」としての「担い手」を決めてしまうということ。そしてその「担い手」足り得るためには、一体何を己に課して為し続けなければならないのかということ。さらには、そうした「担い手」であることの証として根元的な勢力から分け与えられる”お金“と、それ以外の普通に流布されいてる”お金“の二種類が通貨にはあるということ―――。

これらのことについて気付かせて下さった方々とは別に、無数の人物がこれまで私の人生の道のりにおいてクロス・オーバーしてきたことも今、あらためて思い出す。そしてある種の方々は正にこうした「意味」に肉迫しており、次の“担い手”であらんともがき続けていた。だが、どうしても彼・彼女らはそうはならないのである。なぜならば根本において彼・彼女らを動かしているものが我執だからだが。そして実に不思議なもので、そうした我執がその心の中に根付いている限りにおいて、件の「時代精神=龍」は彼・彼女らの前に本当の意味で姿を現すことはないのである。そしてそれを体現している根底的な勢力もまた、直接姿を目の前に現さないのだ。その代りに出て来るのは、それらからすれば余りにもレヴェルの低い事共、者たちばかりなのである。そしてそれはなぜなのかといえば理由はただ一つなのであって、「我執」が故なのである。残念だが、致し方が無い。これだけは、ご自身が気付かない限り、何も変わらないのである。いや、永遠に変わらないような気もする。

「時代精神=龍」の節目がほんの少しだけ見え、その時、世の中を今後、根底的に担っていく人たちの連なりがわずかばかり姿を現す瞬間。それがこの2016年4月末という「瞬間」なのである。そして「時代精神=龍」はそこで新たにコネクトされる者たちを祝福するかのように、その証としての富を彼・彼女らに分配する。そのことはやがて我執にとらわれた、しかし表向きは金融資本主義の最前線にい続けている者たちの知るところとなり、拡散し始め、大きな渦となって世界史を動かし始める。そのことが誰の目にも明らかになるのは、このままの目算だと二年後といったところであろうか。

「人を見るのではない。天だけを見つめよ」

未来は予測できないと堂々と述べる者たちがいるがそれは決定的に間違っている。未来は考えるものではなく、件の”センス“をもって感じるものなのであり、かつそれは窮極において他者との交わりという意味での「社会」とは無関係なのであって、己が果たすべき役割は何なのかという点について「時代精神=龍」との普段の会話によってだけ、紡ぎ出されるべきものなのだ。そしてその限りにおいて、未来は必ず現実になる。なぜならば”センス“をもって感じるのが自分ならば、それに誘われてひたすら真っ直ぐに突き進むのも自分だからだ。至極簡単なことだ。他に何も要らない。

残すところ1週間で終わる今月(2016年4月)。そこで未来への扉は一体誰の目の前で、いきなり開かれることになるのか。次の時代の本当の「担い手」は誰であり、「時代精神=龍」は彼・彼女らに何を与えることになるのか。目を凝らして観詰めていただきたい。

2016年4月24日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

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