「令和の伊藤巳代治」を目指す。(原田武夫の”Future Predicts.” Vol. 96)
最近、ウチの研究所の学生インターンの諸君と話していて、ふと気づいたことがある。筆者がこの研究所「IISIA」を設立登記して、早いもので19年の月日が経過した。無論、最初から考えていたことがそのまま全て実現された等ということはないのであって、正直言うと「走りながら考えてきた」というのが実際のところだ。しかしそこでの「想い」は確かにあったのであって、それは当然、弊研究所に寄り集ってくる諸君からすれば、当然それが知りたい、それを学びたいからウチの研究所に来るものだと想っていたのだが、どうやらそうではないことにここに来て気づいた次第である。
担当スタッフ曰く、「代表と会話が通じなくなると、インターンとしても仕事がやりにくくなるだろうから、何冊かこの本、代表の著作、読んでみたら」と勧めたところ、とある学生インターン氏にこともなげに言われたそうなのである。
「いや、関心ないです。自分」
職場における従業員の態度には2種類ある、と米国流の人財マネジメントでは言うそうだ。一つは物理的にそこに頻繁にいるかどうかというengagement。そしてもう一つは心底そこで行われていることに没頭しているかという意味でのcommitmentだ。そしてこの学生インターン氏について言うならば、engagementは高いが(ふと見ると、オフィスには頻繁に来てくれているようではあるのだ)、しかしcommitmentはほぼゼロということになる。「今風」と言えば、今風だが、こうした事態を目の当たりにして、弊研究所を代表するものとしてしばし物思いにふけった次第である。
というのも、そもそも弊研究所を興したのは2005年(任意団体として)なわけであるが、それに先立つ2004年秋頃から、筆者にはある強い想いがあったのである。それはこういうこと、だ:
「我が国にはインテリジェンス、そして金融資本主義についての啓蒙が決定的に足りない。特に若い世代においてそれは施されていないのであって、このままでは我が国において先人たちが築き上げてきた国富が全て奪われてしまう。何とかしなければならない。そのためにはまず認識を変える必要があるのであって、だからとにかくまずは教育、なのだ」
爾来、この意味での次世代教育を社会改良事業として徹底して行ってきたのが筆者であり、そして弊研究所なのである。いやもっと端的に言うならば、営利事業としての調査分析レポートの執筆とその配布、会員制サーヴィスは全てこの意味での「社会改良事業」を独自財源で行うために実施している。既に数百名の(当時の)学生たちに教えてきたわけであるが、現在は学生インターン事業という形でこれを一つには続けている。しかし、先ほどの学生インターン氏ではないが、どうやら彼・彼女等「今どき」の同胞たちの目には全くもって「???」であるらしい。事実、この様な弊研究所の成り立ちについて他の学生インターン氏・女史たちに対して先日話したらば、果たせるかな「ぽかん」とされた。正直、ここまで駆け抜けてきた自負心はあったのであるが、「結局、スタート地点から何も動いていなかったのでは?」という深い自省の念の襲われた次第である。
しかしその後、考えたのである。「こうであること」がなぜか、ということについて。そして思いついたのだ、その理由が。すなわち:
インテリジェンスにせよ、金融資本主義にせよ、2026年の「現代」の我が国においてはもはや”当たり前”になりつつあるのである。まず後者については、「NISA」を積み立てるのはもはや若い世代の方が普通に行いつつある。金融資本主義、さらにはそこで必須の「投資」という行為について、我が同胞が全くもって不案内という時代は過ぎ去りつつある。他方で前者についても、「国家安全保障局」が出来たと想ったらば、今度は「国家情報局」すら出来、さらには来年(2027年)末から我が国はかの悪名高き「ハニートラップ(!)」を含む非公然活動(covert action)まで諸外国で展開する部隊を公然と持つことを政府自らが掲げ始めているのである。つまり「インテリジェンス」についてはもはや議論ではなく、行動、実行の時代にまで至っているというわけなのである。これら二つを見ると、かつてよく言われた「普通の国」論がようやく我が国において日の目を見たことになるわけであり、それはそれで「良かったですね、本意ですね、お疲れさまでした」と言われてしまう事態の様に思えなくもないのである。
ここで筆者は、かつて講談社で上梓した著作にて主人公として掲げた伊藤巳代治を思い出している。伊藤巳代治は伊藤博文の右腕として活躍し、枢密院の長老となり、伯爵にまで上り詰めた人物であるが、不思議とその「伝記」が存在しなかった。あるのは中途半端な自叙伝だけであったので、あの時、筆者は一念発起し、それでは書いてみようと想いついた。しかし史料を収集し、関連論文を読み漁る中で思ったのである、この(本来ならば)「偉人」が何故に、その後、ほぼ忘れ去れているのか、その理由が分かった、と。
伊藤巳代治は「時流」に徹底して逆らう人であった。
例えば第一次世界大戦が終わり、我が国が「戦勝国」として新たな国際的な枠組みである国際連盟(League of Nations)への加盟をしようとした時、これに徹底して反対する論陣を張った。「そんなことをしたらば、国際協調の美名の下、我が国が独自外交を展開出来なくなる」というのである。
また、1930年代、満州問題で効率化した我が国が今度はこの「国際連盟からの脱退」を画策し始めたところ、再び伊藤巳代治は烈火の如く怒り狂った。曰く、「これは米欧が仕掛けてきた罠だ。ここで脱退したらばとんでもないことになるぞ、我が国は。」
さらに言うならば昭和恐慌が1920年代後半に発生した際、当時の我が国政府は台湾銀行、そして鈴木商店といった問題のある金融機関を救済しようと「勅令案」を可決させようと躍起になった。しかしこれを真正面からブロックしたのが伊藤巳代治なのであった。
さて・・・歴史という「審判の場」で、これらの明らかに「時流に徹底して逆らった」伊藤巳代治の言動はどう評価されるべきなのであろうか。「国際連盟」に入ることでおだてられた我が国は、その実、米欧からの封じ込めにあい、徐々に身動きが取れなくなってくる。そしてついには自らの意思で「国際連盟」脱退と決意し、その方向へ動くのであるが、結果として最後は原爆を投下されるところにまで辿り着いてしまう。他方で、昭和恐慌は確かに件の勅令案が否決されたことによって生じるわけであるが、そこで我が国は「世界に先駆けて」金融恐慌に突入したからこと、1929年の「ニューヨーク証券市場における株価大暴落」に始まる世界大恐慌ではむしろ逆にまだマシなマーケットとして認識され、1930年代前半には「円圏」すら構築し、経済的には一時隆盛を誇ることになるのである。―――つまり、偏屈者であったはずの伊藤巳代治こそ、「正しかった」のである。しかし、伊藤博文の右腕であったとはいってもやがては古老に過ぎなくなった伊藤巳代治の声はやがて中央政界のメインストリームでは「雑音」としかとらえられなくなり、他方でその有り余る能力を「資産形成」で存分に発揮した伊藤巳代治は正妻と、最後の愛人へとその形見を分けながら、失意のまま逝去することとなる。そしてこの最後の愛人へと渡された、得意満面の伊藤巳代治が「伯爵」となった時に描かせた貴重な巻物はやがて、件の講談社本を執筆してくれた御礼に、ということでこの「最後の愛人」の姪の方より弊研究所の寄贈され、現在に至っている。
アクティブなインテリジェンスの世界における我がメンターが最近、こうおっしゃったのである。「高市(総理)のインテリジェンスごっこは全くもって笑止だが。しかし、イスラエルのモサドが本当は何をやっているのか、また米CIAが本当は何をしているのか、我が国の要員たちが現場で目の当たりにしなければ、まぁ我が国が覚醒することはないのだろうね」この言葉を聞いた瞬間、我が国において降ってわいた様に語られている「インテリジェンス論」が米国由来のものではなく、我が国を奸計へと誘おうとするもっと狡猾な勢力の仕掛けた罠であることに気づいた次第である。無論、これらの議論に現状の「経済安保論」が連なることは言うまでもない。
しかし、「進むべき道はない、だが進まなければならない(ルイジ・ノーノ)」なのである。筆者は今、「AIと平和」というテーマの下、グローバルに行われている議論の最前線に最も力を入れており、その研究成果の一端を、近々、ヴァチカン勢と国連平和大学が共催でローマで行う学会において発表する予定である。いわゆるAI-enabled governance論の一環としてであるが、同様の議論をグローバル社会では今後より強く推し進めて行こうと考えており、11月末にはシンガポールで行われるヘルシンキ地経学会のアジア会合へもお誘いを受けている次第である。また、有難いことに最近では国内の学生諸君からは知らんふりをされる一方で、国外の学生諸君からは「教えてもらいたい」と声掛けを頂くことが多く、この9月からは豪クインズランド大学と正式の協定締結をした上で学部生1名を受け入れ、半年間にわたり英語で集中的な授業を展開し、もって開発主義国家として成功を収めた我が国が何故にAIの社会実装によって新しい道を辿ろうとしているのか、そして何故に現在、むしろAI-militarized governanceへと向かいつあるのか、しかしながらそれは早晩「破綻」し、人類未踏の全く新しいガヴァナンスと国家能力(state capacity)の再定義へと向かうのかについてじっくりと教え始めている。正式に単位が付与されるわけであるが、既に来年2月からは欧州のとある国より大学院生が学ぶことにもなっており、有難いことに弊研究所の社会改良事業とそこでの教授内容は(我が国の大学からはとんとお呼びがかからないが(学習院大学を除き))グローバル社会からは高い評価を「公的」に受け始めている。
だからこそ、思うのである。「令和の伊藤巳代治」でありたい、と。しかし同時にこうも思うのである。「令和のポスト伊藤巳代治」でもありたい、と。「気づいた者」は声を上げなければならないし、若き世代には特にそれが「違う」ということを教えるべきなのである。ただし、反対すれば物事は変わるほど世間は甘くないのである。そこには戦略が必要であり、仲間が必要なのである。そして「あるべき世界」を共に創り上げなければ、最終的にそれこそ自己満足に他ならないのである。例えば「平和が必要」と叫び、AIの濫用は認められないと叫ぶのは良いが、それだけでは何も始まらないのである。その意味で、最近はむしろ「兵器としてのドローンについての専門書」「軍事戦略論」「兵站論」「防衛装備ハンドブック」等を精読している。動かすためには、まず知らねばならないのであるから。
「令和の今だからこそ、伊藤巳代治は必要だ。」そう、筆者は今、伯爵の位を授けられ、得意満面に装束を羽織っている彼を描く掛け軸の前で、強く想っている。
2026年9月5日 東京の自宅にて
株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト
原田 武夫記す