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ロマンティック・アイロニイとAI。(原田武夫の”Future Predicts.” Vol. 93)

最近、夏目漱石に「ハマって」いる。何故だかは分からない。しかしどうにもこうにも、「これからは漱石だ!」と思えてならないのである。

そして直近では『三四郎』を読んだ。高校生の時分に学校で読まされた記憶があるが、全くもって記憶に無い。タイトルだけが空虚に脳裏に残骸の様に残っているだけだ。しかしあえて今回、瀬戸内の旅路の途中で読んでみた。そして見つけた、のである。

「ロマンティック・アイロニイ(romantic irony)」

主人公である九州から状況してきたばかりの帝大生・三四郎ら曰く、こういうこと、だ。近代合理主義の中で人々は「何でもかんでも突き詰めて計算すれば答えが出て来る」と信じ込んでいる。しかしそんなことは全く無いのであって、特にかえって世で天才と言われている人たちはといえばボーっとしている瞬間を意図的に持つようにしているのだ、と。なぜならばそこで得られる「閃き」こそが天才たちにとっては不可欠なのであって、それによって人類の世というのは前に進む、すなわちイノヴェーションというものは進むのだ、と。

何時の頃からだろうか(恐らく1990年代半ば頃からだと思う)。我が国では世間でしばしば「うつ病」なる言葉が日常的になり始めた。最近成人したばかりの若い世代たちには全くもって想像だに出来ないかもしれないだろうが、それまでの我が国において「うつ病」なるものは、病名としては知られていたも、それほど広く語られてはいなかったのである。むろん「鬱々とした(メランコリック)」といった表現はあった。しかしそれは文学であり、芸術における表現であり、かつどちらかというと(驚くこと無かれ)ポジティヴな表現として用いられていたのである(それがある種の芸術的表現のタネになっているという意味で)。ところが、時代は突然変わった。何を言っても前に進まなくなる人々が続出し、とにかく動かなくなってしまったのである。その頃からだ、心療内科なるものが流行り始め、あたかも「風邪薬」もらうかの様に人々はその処方を受け、薬を服用し始めたのは。

なぜ「うつ病」になるのか。―――筆者は無論、医学の知見を持ち合わせるものではないので、全くもって私見に過ぎないわけであるが、一つだけはっきりとしちえることがあると想う。それはこのあたり、すなわち1990年代半ばくらいから世間を流れる「時」が妙に早くなり始めたということである。その背景にはデジタル化がある。世界とは0と1から成っているわけではない。その間にはグラデーションがあるわけであるが、それを完全に無視し、2進法で計算をしようとするからコンピュータによる演算はヒトの手で行う計算よりはるかに速い。しかしそれに端的に言うと、私たちヒトはついてこれていないのだ。意識・無意識の両面で壁にぶつかってしまう。特に意識的であれば良いのであるが、無意識でこれに遭遇すると厄介なのだ。心は明らかに閉ざされ、あたかも洞穴の中に閉じ込められたかの様になる。「心」は防衛反応として、極力省力化しようと動き始め、全くもって多くの物事に反応しなくなってしまう。厄介なのは、それが新しい環境、最新技術、あるいはそれらによって織りなされた「仕事」なのであって、それに最適化するのが自分のなすべきこと、と信じ込んでしまうことだ。経験値の乏しい若者たちはどうしても、そう信じ込んでしまうし、ましてや飽きっぽくない、従順な、ルールを守る(今となっては希少な、真面目な)若い世代であればあるほど、この罠にはまってしまうのである。つまり、自分では全く気付かないのであるが、「デジタルの罠」にはまり込んでしまい、徐々に「鬱の檻」に入り込んでしまうのである。

かつて筆者自身、こんなことをとある賢者から言われたことがある。

「あなたにとって今後の人生で最大のカギを握るのは”時間”だ。”時間”について真剣に取り組み、そして生きていきなさい。そうすれば世界は開かれるでしょう」

世情、揺れ動く様々な出来事を毎日毎日見、その行く末を考えることを「生業」としていると、どうしてもこの教えを忘れてしまう。いや、実際に忘れてしまっていた気がする。特に、自分が最も欲しいもの、そうなってもらいたい出来事が、とある逆向きの動きによってどうしても(少なくとも今は)動かないという現実に直面すると、どうしても焦ってしまう自分がいる。そうすると「時」は無情にも過ぎ去っていく。考え込み、またもがき苦しむのであるが、どうしても前に進まない。そう、どうにもこうにも進まないのである。そんな日々がこの7月は続いていた気がする。

そんな中で出会ったのである、「ロマンティック・アイロニイ」に。結局、デジタル=二進法の世界、そしてそのとどのつまりである過去データからのパターンマッチング装置に過ぎない(しかも「優秀な」)人工知能(AI)には「閉じられた系」でしかないのである。そこでの演算能力を競ったところで、生身の人間である己は絶対に負ける。そこで既に知っていること、「過去」を振り返ったところで、またそこで「最適化」を図ったところで、望ましい未来などに手が届くわけもないのである。

むしろ、そんな過去データの溢れかえった「閉じられた系」の世界はAIエージェントに任せておけば良いのである。そうではなくて、「ヒトがヒトであるが故に気づくこと・感じたこと」のままに動き、「心の赴くままに生きること」、そしてそれによって未来の未知の世界へと接続するという意味で「開かれた系」に専心することこそ、今やヒトがなすべきこと、なのである。「社会人になる」という意味で世間様に踏み込んでから早いもので35年弱が経つが、ようやく「このこと」に気づいた気がする。振り返ってみると長い月日がこれまでかかってきたわけだが、シュレーゲル曰く「ロマンティック・アイロニイ」がこれからの豊穣な未来を切り開いてくれるということであれば、何のことはない、今からその甘美な香りが楽しみでならないのである。

ヒトとは、生きていると必ずうまくいかないことがある。「そうあってほしい」「そうなってほしい」と望んでも、当座は叶わないことがしばしばある。しかしそんな時に「デジタルの檻」に自ら閉じこもってしまってはならないのである。むしろ「過去はAI」に任せ、他方で我らがヒトは「ロマンティック・アイロニイ」に耽ることそれに専心すれば良いのである。

この4月に我が教え子たちも続々と「世間様」の現場へと入っていった。中には「最も動いている最前線」へと投入された強者(つわもの)の教え子たちもいるわけであるが、さすがにその周囲でも、目先の喧騒が少し収まる気配を見せ、ふと我に返る頃を迎えつつあるのだと推察する。全力疾走をしてきたこれまで数か月を、そこで初めて振り返ることになるのではないか、と想う。そうした中だからこそ、しばしこのこと、について考えてもらいたいのである、彼等・彼女等に。

「ロマンティック・アイロニイ(romantic irony)」の効用について。

酷暑の中、今から先の未来に目線を向け、新たなる邂逅をイメージしながら、今はただ、そう想っている。そしてだからこそ、ヒトは生きる価値が、ある。

2026年8月2日 東京の寓居にて

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト

原田 武夫記す