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「普通の国」と時代精神(Zeitgeist)(連載「パックス・ジャポニカへの道」)

「我が国を普通の国にする」―――そう宣言して二度目の総理大臣の座へと駆け上がった男が統べる世になって早いもので2年余りが経過した。人為的に創られた「選挙の禊」などという仕切りを無視して、冷静に考えながらその後に起きたこと列挙するとこうなる:

●私たち日本人全員が世界中どこにいっても「イスラム・テロ」の標的になることが確定した

●株価はある程度上がったがそれによって個人が裨益しているとはおよそ感じられず、むしろ社会階層の二極化が露骨になり始めた

●「言論統制」が厳しくなった。インターネット上を越えてマスメディアで語っている面々を見ると、可哀想にある一つのコードに従って発言していることがよく分かる

●総理大臣自身は世界中を飛び回っているが、そのことによってグローバル・マクロの大流の中で我が国が主導権をとるに至ったのかというと全くそうではなく、完全に受け身である

決定的なのが「普通の国」にすると言いながら、我が国を根底から変える本質的なイノベーションは一切顧慮されていないということである。確かに能力あるベンチャーに「夢」を持たせることはする。しかし最終的には我が国における「構造」そのものである製造業の大企業が明らかに優先され続けている。その陰で能力あるベンチャーはそのイノベーションをこれら大企業に譲り渡すか(延長線上でその実現がなされるかは分からない)、あるいは海外に飛び出すのかのいずれかを迫られることになるのだ。

もっともここで、戦前は「天下の御用新聞」でありながら、戦後はGHQという名で入ってきた米国に対して服従し、「革新の声を届ける新聞」となった某大手新聞メディア(これもまた「大手」、すなわち大企業である)よろしく、時の政権批判をしたいわけでは毛頭ない。そのレベルで議論をしているのでは全くもって埒が明かないのである。なぜならば今起きていることは結局のところ、あの「1945年8月15日」という敗戦の日から我が国に課せられた重い重い枠組みを前提にしているからだ。支持にせよ、批判にせよ、その対立軸の中にはまってしまっては事の真相を完全に見誤ってしまう。本当に大事なことはそこにはない。

件の「男」と私は去る1月2日、30分ほど膝を突き合わせて話す機会を得た。「男」との出会いはこれで4度目となるが、その際、彼が満面の笑みで口にした言葉が忘れられない。

「今、自分たちはこれまでとは違うことをやっている」

「男」は普段、世間において保守政治家と呼ばれている。だが「変えること」が革新の本質であるとするならばこの「男」ほど“革新的”な政治家はいないのである。何せ「特定秘密」などという情報の権力をもってまでして全てを変えてしまおうというのであるから。

それでもなお「男」のことを保守政治家であると言い切る向きはきっとこう反論するに違いない。

「そもそもGHQによって見るも哀れに改造されてしまったのが現在の我が国なのだ。元来の”美しい国“へ戻すことをしているわけだから、むしろ復古主義、だからこそ保守なのではないか」

だがこう語ることは事の本質を完全に見誤っている。なぜならば我が国の「本当の権力の中心」はかくも低いレベルで我が国を統べてきているわけではないからだ。それでは一体どの“レベル”で統治は行われているのか。―――このことについて知るのがこれからについて考え、気付き、私たち自身が一歩先へと踏み出す大きな端緒となってくる。

「男」を筆頭に我が国の総理大臣など、その座にいるのは長くても7、8年に過ぎない。だが我が国の「本当の権力の中心」はもっと遥かに長いスパンで我が国を統べて来ているのである。そしてその際、もっとも意識しているのは時代精神(Zeitgeist)である。そしてそれは何かが極端にぶれた時、ひょっこり表舞台へと顔を覗かせる。大事なのはそれからなのであって、そのぶれた方向とはむしろ「逆の方向」へと次にぶれ始めるのである。無論それは簡単に成るものではない。一つの時代を成すほどのレベルで時が流れる中、一つそしてまた一つとその向きへ進んでいくのである。

その意味でいうと今考えるべきはここでいう「時代精神」の行方と、件の「男」が語る「普通の国」にいう”普通さ“が果たして合致するかという点に絞られて来るのだ。もっというならば我が国の「本当の権力の中心」が体現する時代精神をあえてこの「普通の国」なるものが遮ろうとしているのであれば、本当の前線(フロント)は中近東といったどこか遠くではなく、我が国の国内にこそあるということになってくる。

なぜならば私が最新著「甦る上杉愼吉」の中で記したとおり、二重王権制において最後に争うのは「大王」と「王」だからである。「大王」は悠久の時の流れの中で時代精神を体現しているが、「王」は時の権力の象徴である。言い方を変えれば二つの異なる「時」であるカイロスとクロノスがそこでは激突している。私の目から見ると、ここでいう「王」であるにもかかわらず260年余りにもわたって我が国を統べる権限を委譲された徳川幕府ほど、ここでいう「カイロス」を意識した政権はなかった。それが証拠に彼らは「大日本史」を編纂し、「大王」のやり方を徹底して研究した。また全国に散らばる神社・仏閣を整備し、そのシステムを理解しようとした。そして最後は時代精神に基づき「大王」自身が動かざるをえなくなったため、道を譲った。「明治維新」である。

私がここで言いたいのは何も件の「男」の“意識”のレベルの議論ではない。むしろ彼が決して発することはなく、また”意識“のレベルでは彼自身気付いてすらいない”無意識“のレベルの話である。そしてその意味での方向づけがこのままいくと「時代精神」と真正面から激突していくことは明らかである以上、それを民主主義という手続き上は選んだことになっている私たち日本人自身もそれ相応の覚悟をしなければならない。なぜならば私たち日本人は「男」を総理大臣という”王“に選んでしまったという意味で共犯者だからだ。かなりの犠牲が出ることを覚悟しておかなければならない。

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「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」(万葉集巻一第二歌・天皇登香具山望國之時御製歌)

これこそが最終的に我が国が成る姿である。人々が少ない権益を巡って餓鬼のように争うのでも、互いに阿修羅のように怒り狂うわけでもない。淡々と日々の営みが続く世界である。しかし、一体それ以上に何があるというのであろうか。そして件の「男」がいう「普通の国」と何とかけ離れたイメージであろうか。

「男」が語り続ける言葉で勝負している以上、同じ土俵で対峙していてはならない。“意識”には“無意識”、そして“判断”には“思念”で応じなければ駄目だ。かつて私たち日本人は原子爆弾を2度も投下され、阪神・淡路と東日本の2度の大震災にも見舞われてきたが、しかしそれでも堅い「思念」をもって進んで来たではないか。それが結局のところ、「時代精神」と接合され、「大王」へと連なってきたのである。言い方を変えるならばそれこそが我が国の「普通」なのである。それ以上でも、それ以下でもない。

事ここに及んだからこそ、やり方を変えなければならぬ。

「男」に体現される明らかに我が国固有の在り方とは逆行する誤った方向性を突き崩すのは我が国のデフォルト(国家債務不履行)でしかない。もはやそれは必然であり、我が国の「本当の権力の中心」はそのことを覚悟していらっしゃるはずだ。なぜならばそのことによってのみ、我が国は本当の意味で「うまし国」へと、そしてカイロスの国へと立ち戻ることが出来、その姿に驚嘆した世界全体がひれ伏す中、“意識”という力ではなく“無意識”という思念によって「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica)」が実現されるに至るのである。

かつて文豪・漱石は修善寺の大患で作風を大きく変えた。「覚醒」したからである。その昔「紀元節」と時代精神の中で打刻された瞬間に己が身心で体感した激しい変動を元に、私も以上のことを書き記しておくこととしたい。そして静かに、そう静かに、正しいことをやるのみ、である。

2015年2月15日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

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