私たちIISIAは何をやっているのか (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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私たちIISIAは何をやっているのか (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

先週連休中に掲載したこのコラムでは「ゴールデン・ウィーク明けからマーケットは激変になる」旨記した。そのことについていくつかのブログで転載がなされ、「確かにそのとおり」とのコメントを頂いていたようだ。その様にしてきっちりとここで発しているメッセージをとらえて下さっている読者の皆さんが我が国の全国津々浦々にいるということは、とても嬉しく、また心強いことだ。

実際、マーケット、そしてそれを取り巻く国内外情勢は「激変の時」を迎え始めた。なぜならば来る15日に向けてヘッジファンドたちが一斉にポジションを変え始めたからだ。ロング(買い)・ショート(売り)共に大幅なポジション調整に入っている。したがってマーケットが荒れるのは当然で、焦眉の課題はそうしたシーズナル(季節的な)調整のレヴェルではなく、「2015年5月15日」を越えてもなお、荒れ続けることになるのかに絞られてきている。

卑見を述べるならば、「今回はいつもと違う(This time is different.)」。我が国の伝統的な経済メディアなどを中心に「5月の相場は荒れますから・・・」といった楽観論が流布されているが、全くもって違うのである。なぜならばマーケットにおける需給バランスではなく、グローバル社会(global community)全体の構造を変える、そしてそのための一連の仕掛けを巡る意思決定がなされ、後はその執行を巡る最終的な判断が行われればそれで良いという段階にまで達したからだ。

したがって正に「ここ一番」というタイミングであるので、あらためて私たちの研究所「IISIA」が一体何をこれまで行って来、また何を目的として今後活動していくのかについてあらためて明らかにして行きたいと思う。そして最後に今後の「見通し」について簡単に触れることとする。

IISIAの基本的な認識=出発点、それは他でもない「私たち日本人こそ、それ以外全ての世界の各国・各勢力から狙われている」というものである。とはいっても、一部の感情的な「愛国主義的評論家」たちが述べているような感情論を述べたいわけではない。そうではなくて、国富の絶えざる地理的移動・循環という観点(=グローバル・マクロ(in- and outflow of capital))から見た場合、戦後の我が国は明らかに「富を獲得しすぎてしまい」、しかも「一度得た富を二度と国外に出さない(=hoard 退蔵)」という行動に出たため、米欧勢の統治エリートたちから睨まれてしまっているということなのである。

そう述べると今度は米欧勢の統治エリートについて「陰謀論(conspiracy theory)」を叫んで止まない(これまた)評論家たちが大勢いる。すなわち「世界を支配しようと奴らは企んでいる、日本が危ない」というわけだ。だがこうした認識も決定的に間違っている。なぜならば彼ら米欧勢の統治エリートが貫徹しようと考えていること、それは単に「ルシャトリエの原理(復元力の原則)」の維持だけだからだ。

「ルシャトリエの原理」とはこの世のあらゆる事物を貫く大原則である。簡単に言うと「作用は反作用を必ず伴う」ということであり、かつ「作用を施さない限り、万物は平衡を保って推移する」と言うことを意味している。これが世界統治の基本なのであり、米欧勢の統治エリートは単にこれを墨守しているに過ぎないのだ。

「それでは量的緩和(QE)は一体何なのか」というコメントが読者から出て来そうだ。確かにその局面だけをとらえれば量的緩和(極端な金融緩和)とはここでいう“作用”に他ならない。激烈な措置である以上、「米欧勢の統治エリートたちはそれに見合う激烈な“反作用”を起こそうとしているのか」という結論が導かれがちだ。

だが、もう一つ踏まえるべきことがある。それはここで対象としていることは自然(じねん 宇宙・地球・自然環境など全般)そのものだということだ。すなわち自然(じねん)が今後動いていくということになるならば、それに先立って対処することで何とか平衡を維持しなければ人類社会はそれ自体収縮をルシャトリエの原理に従って繰り返す自然(じねん)に翻弄されるだけになってしまう。特に何等かの理由で自然(じねん)が今後「収縮期」に向かうのだとすれば大変だ。なぜならばこれまで「拡大期」にあることを前提に営まれてきた人類の歴史、とりわけ米欧勢を中心とした文明がその根底より崩されかねないからである。

自然(じねん)が「収縮期」に入るということ、これについても精査が必要だ。端的にいうとその理由は気候変動(climate change)なわけだが、だからといって地球全体が一方的に熱くなる、あるいは寒くなるというわけでもないのだ。ある瞬間をとってみるならば、一部の地域が熱くなる(global warming)であるのに対し、「ルシャトリエの原理」にしたがって別の地域ではむしろ寒くなる(global cooling)が生じるからだ。問題は後者、すなわち「寒くなる地域」が米欧勢であった場合、それを中心としたこれまでの文明は大変なダメージを受けるという点にある。とりわけ従来の文明における「主役」であった米欧勢の統治エリートたちからすれば正に絶体絶命のピンチである。「何とかしなければ」と焦って動くのは当然だということになってくる。

climate_change_201505

(出典:「MOKU」)

そこで彼らが試みていることが3つあるのだ。第一に、米欧勢がこれまで維持してきた文明の拠点(ロンドン・シティ(City of London)、ニューヨーク、パリ等)が今後の寒冷化に伴う収縮期の中で受けるダメージを極力少なくすべく、通常であればあり得ないほどの景気拡大策をとるということである。米国勢を筆頭に始めた量的緩和策は正にこれである。これから「小さくなる」「縮む」というのであれば、その前に「大きくする」「拡大する」動きをしておけばその分ダメージは減るのだ。我が国の「異次元緩和」も、実のところ、安倍晋三政権による”発案“でも何でもないのであって、中央銀行らが国際協調の名の下行っている努力の一環に過ぎない。それが証拠に、我が国の日本銀行は「包括的量的緩和策」を2010年から実施しているのである。

第二に、それでもやはりこれまでの拠点が自然(じねん)の収縮(寒冷化)によって維持に値しないという事態に陥った場合に備え、「次の拠点」になる場所・地域を押さえてしまうということだ。量的緩和を続ける中でマネーが米欧勢の国内・域内マーケットからあふれ始め、最初はBRICs、そして次にエマージング・マーケット全体、さらには「包含性(inclusiveness)」の名の下に性的少数者(LGBT)や極貧層などにもチャンスを与える(マイクロ・ファイナンス)といった動きに米欧勢の統治エリートが出てきたのはそのためである。何せ地理的に見て、現在進行形である自然(じねん)の「収縮」の結果、地球上のいずれの国家・地域が最も有利な立場(ポール・ポジション)を獲得するかは誰も分からないからだ。どうやら北半球が大打撃を受けそうである以上、件の「ルシャトリエの原理」に従うと「南半球は大丈夫なのでは」ということになってくる。たとえば従来あれほどまでに「核開発」「人権侵害(アパルトヘイト)」などを理由に糾弾していたはずの南アフリカがやおら持ち上げられているのはここに理由がある。「南半球にはご縁をつくっておかなければ」というわけである。華僑・華人ネットワークのハイレヴェルがその拠点を中国からインドネシア・ジャカルタへと移し、あるいはアルゼンチンがなぜかロシアVS英国の争奪戦になっているのもそのせいだ。米欧勢の統治エリートは「いざ」という時にはそこへ移ろうとしているのである。北京に設立されはしても、実質的には明らかに金融拠点・上海をベースに動くことになるはずのアジアインフラ投資銀行(AIIB)もこうした文脈でとらえなければならない。

だがしかし、以上の2つの予防措置(preemptive measures)によってもなお、「収縮」は免れないということになってくると最後の手段を探す必要が出て来る。「収縮」とは簡単にいうと人口縮小とデフレ経済が加速度的に進行することを意味している。その中で最後の最後に生き残るのは「富」を人一倍獲得し、しかもそれを人知れず退蔵してきた勢力である。無論、その筆頭格が米欧勢の統治エリートたちなわけであるが、だがそれ以上に綿々とこのことだけに専心して行って来た別の勢力がいるとなると話は全く変わってくるのである。しかもこのことを「それ」として全面に出すことなく、いかなる国際会計基準を課しても絶対に表面化しない「簿外資産(hidden asset)」の形で管理しているとなると非常に厄介だ。

米欧勢の統治エリートがその意味で最も疑念を抱いているのが華僑・華人ネットワークのハイレヴェルである。それもそのはず「中国4000年の歴史」であり、簿外資産を築き上げるというのであればもっともこれを早くから行うことが出来たのは彼らであったはずだからだ。「米中対立」あるいは「中国の台頭」といった月並みな議論は実はこうした基本認識の上にたっての動きであることを確認しておきたい(そうしなければ物事の本質は全く見えてこない)。

もっともこれで米欧勢の統治エリートたちの詮索が終わったわけでは全くないのだ。彼らが華僑・華人ネットワークのハイレヴェルをこの意味で攻めるとなれば、当然、後者も激烈に反応し、あるいは予防措置を講じて来るはずだ。そこで前者は尖兵としてユダヤ勢=アシュケナージ勢をもって対峙させるということになるわけだが、それでもなお決着がつかないということになってくると、最後は相互に共倒れになる危険性が出て来る。

そこで(米欧勢の統治エリートらからすると)最も危惧すべきは「第3の男」が現れることは本当にありえないのかという点なのだ。しかもそれまでは全くもって一連のゲームに対して無関心を装い、「昼行燈」とまで揶揄され、愚かなふりをしてきた勢力である。―――そう、それが我が国の本当の「権力の中心」である天皇家に他ならない。

GHQという名で我が国に進駐した米国はだからこそ、徹底してそこにある「簿外資産」探しを行った。ありとあらゆる勢力からこれを出させ、正確に数値をはかった後、今度は自らが最終的に決裁権限を持つ形で再分配した。単に奪うだけではルサンチマンを買うだけであり、かつ経済効率も悪いからだ。かといって我が国の側に戻すだけであればまた何に使い始めるか全く分からないのである。そこで米国勢は御得意の「見える化」をこの簿外資産管理システムについて図ったというわけなのだ。

その一方で、GHQは徹底した「日本人白痴化計画」を執行した。もっともこれは世上言われているような市井のレヴェルのものではない。そうではなくて、上述の意味での「簿外資産」を増やすためのエリート人財が二度と育成されないよう、我が国の教育システムを徹底して破壊したのである。そこでのカギは「外国語学習」と「グローバル・マクロの体得」であった。我が国を事実上の閉鎖経済に追い込み、そこに富を分けてやりつつ、その国境を超えない限りにおいての小さなゲームの中で勤勉な日本人たちを互いに争わせたのである。その結果、平成バブル頃を境にしていよいよこの意味でのエリート人財は我が国において再生産されることがなくなった。「外国事情通」あるいは「グローバル・リーダー」を自称する者たちがいるが、彼らは結局、この意味での米欧勢の統治エリートたちがつくった対日監視システムの代理人か、あるいはその代理人を育成するための教育者でしかない。

その一方で文部科学省は一定の条件つきであれど、月額30万円程度の「給料」を与えつつ、国費留学を学生たちに推奨している。しかしそうした低レヴェルの留学プログラムでは何ら意味を持たないのである。いや、もっと最初にすべきなのはかつての旧制帝大・高校においてそうであったように、まずは我が国国内における徹底した「グローバル・マクロとをそれを廻して来た米欧勢が中心である従来の文明史の学習」なのである。それを行わないで単に「外に行って来い」とカネを渡すことほど愚かなことはない。

さて、非常に長くなって恐縮であったが、要するにここにIISIAが為し遂げたいことがあるのだ。

戦後、我が国が追求してきたビジネス・モデルは以前詳細に書いたとおり、(1)一方では米国に追随し、自由貿易を”喧伝”する中、極端な円安を用いて輸出攻勢をかけ、国外より莫大な富を獲得する、(2)次に法律によって規制をかけ、その対象としての「業界」をつくって補助金を与えることで「公定価格」をあらゆる物品・サーヴィスについて設ける一方、実勢価格で取引するアウトローの存在を容認し、両者の価格差を(1)によって裨益する大企業のサラリーマンたちからの租税徴収で補いながら、関係者の中で「利権」として分配する、というものだった。別名「構造」である。我が国に諸外国からいったん入ったマネーが二度と出て行かなかったのは何のことはない、この「利権構造」の中で半永久的に循環していたからである。

米欧勢の統治エリートからすると実に噴飯ものなわけであるが、他方で私たち日本人にとっては非常に居心地の良いものであった。なぜならば何も考えずとも、一つには「マニフェスト・デスティニー(manifest destiny)」を掲げ、自由貿易の全世界的な拡大を図る米国についていきさえすれば良く、しかもその米国が絶大な防衛力をもって守って来れ、他方では(その意味においては)「国内随一のレヴェルで優秀な」官僚たちが次々に利権構造をつくってくれ、それに従ってさえいれば莫大な富にあずかることができたからだ。我が国においてイノヴェーション(刷新)が止まってしまったのは当然のことである。なぜならば苦労して全く新しい付加価値をつくる必要はなく、常に「二番手」を甘んじているふりさえしていれば、最も儲けることが出来、国民全体としてもハッピーだったからである。私たち日本人が「枠組み(フレームワーク)」を提示されるとそれに盲従してしまうのはここに理由がある。そして「枠組み(フレームワーク)」を新たに提示しようとする同胞(日本人)がいると徹底して排除しようとするのもそのせいだ。

だが、これまで延々と述べてきたとおり、そうした「美しい時代」は終わったのである。狙いを最後の最後につけられているのは我が国なのであって、そのことに我が国の本当の「権力の中心」は気付いているのであるが、哀しいかな、「それ以下のレヴェルの国民」は一切このことに気付くことが出来ていないのである。繰り返していうが、狙われているのはギリシアでも、中国でも、はたまた北朝鮮・韓国でもないのだ。他ならぬ我が国だ。このことを述べることがない言論人や政財官リーダーたちはよほどグローバルな現実を知らないか、あるいは「知らせしめないこと」を役割としている第五列の連中なので、相手にされない方が良い。

そしてこのまま行くと最後の最後に我が国だけが残ることになり、米欧勢の統治エリートたちからこう真正面より聞かれることになる。―――「日本は何がしたいのか。1回だけ機会を与えるので意見を述べてみよ」その時、果たして一体何人の日本人が自らの見解を、己と全世界のために陳述し、賛同を得ることが出来るだろうか。

読者の皆さんも先刻同感であるとおり、この点について余りにも心もとないのが我が国の現状なのだだからこそ、今月(2015年5月)20日をもって最新刊を上梓することにした。もはや時局について云々することは私・原田武夫の仕事ではないと考えている。それはもう、従前刊行した拙著にあるとおりであり、「その先」にこそ、私たちIISIAがなすべき仕事があると考えているからだ。現在リテール(個人)そして法人のそれぞれに向けて展開している全ての事業はその目的をとらえると、ここに収斂して来る。時代精神(Zeitgeist)が一度だけ示すことになる「質問時間」に、モノを言うことが出来る日本人が果たして出て来るかである。そのための内発的な自覚を促し、他律的ではなく「突き上げる自走」へと一人でも多くの有意な日本人を導いていくこと。そしてそれを通じて米欧勢の統治エリートが築き上げてきたものとは「全く違う」システムを構築し、国際社会全体が平穏かつ幸福に満ちた状況でのソフト・ランディングを図ること。これが私たちIISIAのミッションに他ならない。

「今」と「直近のこれから」は正にこうした流れに向けた1コマに過ぎない。「次」に向けた最終的な意思決定は実のところこの7・8日までに行われているはずだが、まずもってそれを受けたクライマックスは14・15日頃に訪れる見通しだ。しかしそこで収まることはなく、6月5日前後を次の山場として動きに再びなってくる。

「最終決戦」の時はすぐそこまで来ている。「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica)」の実現に向け、読者各々が草莽の士となって奮起されることを重ねて期待してやまない。

2015年5月10日 東京・国立にて

原田 武夫記す

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