3Dプリンター市場の未来~我が国は再び市場を席巻できるか~ (IISIA研究員レポート Vol.110)
去る5月19日の東京株式市場で日経平均株価が7日続伸し、終値は3万0808円35銭と「平成バブル」崩壊後の高値を更新し、33年ぶりの高水準となった(参考)。
こうした流れは、まさにこれまで弊研究所が展開してきた分析ライン、すなわち他国勢のマーケットが急激なインフレの加速とそれに伴う金利の引き上げにより“凋落”していく中で、唯一「深刻なデフレ展開」からスタートし、利上げの余地が残された我が国が“よりマシなマーケット(safe haven)”として選ばれることで「日本バブル」が始動するという分析に対して、日経平均株価を用いた景況感の高揚という“演出”により現実が追随したと言える展開である。
しかしこれは同時に「終わりの始まり」でもある。すなわち、いくらグローバル・マネーが我が国に殺到したとしても、我が国に魅力的な投資先がなければ悪性インフレを胚胎することとなり、早晩、金利の引き上げとそれによる国債価格の暴落により、結果として「日本デフォルト」に行き着くという不可逆的な流れが始まったことも意味するのである。
(図表:一時3万0900円台を付け、バブル経済崩壊後の最高値を更新した日経平均株価)
(出典:佐賀新聞)
そうした中で求められるのは新たな投資先である。それも暗号資産(仮想通貨)や不動産といった金融マーケット内への投資ではなく、基幹技術の育成といった未来への投資ではなかろうか。
そうした中、本稿では基幹技術の「宝庫」とも言えるプリンター(複合機)に注目したい。プリンターはまさしく印刷、光学、機械という基幹技術の集積であり、これらのシステム全体をバランスよく機能させることができるのは我が国の技術だけであると言っても過言ではない。まさに我が国にとって貴重な資金源の一つとなっているのだ。
かつて「平成バブル」前夜の1980年代、我が国ではコンピュータの普及に伴い、プリンター市場が爆発的に成長した。バブル景気に沸き立つ消費者は、当時はまだ高額であったプリンターをこぞって購入し、我が国のプリンター市場はエプソン、キャノン、ブラザーといったメーカーがリードする中で大きなシェアを獲得することとなった。さらに、我が国のプリンター・メーカーが構築するメンテナンス・サーヴィス網は世界最高水準のクオリティと速度を誇っている。まさに我が国企業がプリンター市場を席巻していたのである。
たとえば、印刷の手法について、かつてはプリンターヘッドに搭載されたピンを紙に叩きつけ、インクリボンのインクを転写する「ドット・インパクト・プリンター」が主流であり、我が国のセイコーエプソンが世界的にも高いシェアを占めていた。その後、キャノンや米ヒューレット・パッカード(HP)が市場投入した「レーザー・プリンター」は、パソコンなどを使って簡単に印刷ができる「デスクトップ・パブリッシング(DTP)」という新たな市場を創出した。
(図表:商品化第1号となったエプソンのインクジェット・プリンター)
(出典:EPSON)
「ドット・インパクト」はプリンターヘッドが心臓部となるが、「レーザー・プリンター」はレーザーという機械(メカ)そのものも重要であるが、その他にもトナーに色を与える染料、トナーを溶かす溶剤、トナーを紙に定着させる樹脂というように、化学(ケミカル)分野も重要となってくる。また、これら機械と化学を電気系統が正確につなぎ、プリンターは完成するのである。
米国特許分類(United States Patent Classification:USPC)においては、機械、化学、電気の3つが大きな特許分類とされるが、プリンターはまさにこれらすべてをカヴァーしていると言えるのだ。昨年(2022年)7月に中国勢が我が国を含めた外国オフィス機器メーカーに対し、複合機などの設計や製造の全工程を中国内で行うよう定める新たな規制を導入する方針であるとの情報が報じらたが、中国勢の意図としては、まさに基幹技術の「宝庫」たるプリンターの技術移転を強制的に行おうとしている、と言うことができよう(参考)。
さてその後、1990年代に入ると、「レーザー・プリンター」の価格も下がり、主流となった他、デジタル・カメラやスキャナーの普及もあり、プリンター市場は成熟化し始めた。さらに2000年代に入ると、「インクジェット・プリンター」が開発され、より安価な価格で購入できるようになった。今では「レーザー・プリンター」はオフィス用プリンターとして、「インクジェット・プリンター」は家庭用プリンターとしてそれぞれ普及している。
そうした中、去る2010年代に入ると、「3Dプリンター」の開発が大々的に始まった。もっとも「3Dプリンター」開発の起源は、「レーザー・プリンター」が普及し始めた1980年代にまでさかのぼることができる。去る1983年に米国勢のエンジニアであるチャック・ハルが光造形法を発明し、史上初の3Dプリント部品を作り上げた、とされている(参考)。
(図表:3Dプリンターの「生みの親」チャック・ハル)
(出典:3D Systems)
その後、1986年にハルは光造形法装置(SLA)の米国特許を取得し、世界で最初の3Dプリンティング企業として「3Dシステムズ」社を設立した。1987年には世界初の3Dプリンター機「SLA-1光造形法(SLA)プリンター」を発売している。
(図表:世界初の3Dプリンター「SLA-1光造形法(SLA)プリンター」)
(出典:3D Systems)
また、1988年には、米「ストラタシス」社という米国勢でもう一つの3Dプリンター・メーカーが、熱溶解積層法(FDM法)で特許を取得し、3Dプリンターの開発はよりいっそう加速した。
そうした経緯がある中で、2010年代に他国勢のメーカーが3Dプリンター市場に参入したころには、すでに米国勢の2社が先行し、ほぼ寡占状態になっている、という状況にあったのだ。
なぜ、2010年代に他のメーカーが同市場に参入できたのであろうか。それは、米国勢の2社による特許が去る2007年と2009年にそれぞれ切れたためである。まさに3Dプリンター時代の幕開けとも言える瞬間であり、3Dプリンター市場はまさに「戦国時代」とも言える状況に突入していった。
では、「3Dプリンター戦国時代」を我が国は勝ち抜くことができるのであろうか。この点、3Dプリンターといっても、やはりカギとなるのは基幹技術とその融合にあるという点はプリンターと同じであるとも言える。3Dプリンターの性能でカギを握る構造は主に以下のような点が挙げられる:
- プリントヘッド:材料を溶かして、ビルド・プラットフォームに堆積させる。プリントヘッドの精度と速度は、3Dプリンター全体の性能に大きな影響を与える
- ビルド・プラットフォーム:材料が堆積する表面である。平坦度と温度がカギとなる
- 材料:熱可塑性樹脂、金属、セラミックなど、用途によって多様な材料(素材)を使用して立体物が作成される
- ソフトウェア:3Dモデルを立体物に変換するためにソフトウェアが使用される。ソフトウェアの精度と使いやすさがカギとなる
とくに、材料(素材)という分野においては、我が国はその開発と製造で世界トップクラスの技術を持つことで有名であり、その強みは3Dプリンターの製造においても確実に発揮されると言えよう。とくに、素材を改良することで、3Dプリンターに「時間によって変化する」という概念を取り入れた4Dプリンターという可能性もでてくる。
しかし、やはり3Dプリンターの基幹技術となるのは、チャック・ハルが去る1986年に特許を取得した光造形装置である。もっともこの分野においても我が国には強みがある。3Dプリンター研究の淵源は、米国勢にあると先に述べたが、実はチャック・ハルが光造形技術の特許を取得するよりも6年も前の1980年に我が国でも同様の技術が開発されていたのである。名古屋市工業試験所の小玉秀男博士が積層造形として光造形の技術として「立体図形作成装置」を開発しているのである(参考)。
小玉博士は1980年にこの特許を出願し、学会での発表や米国勢の物理学会誌にも投稿も行ったが、研究所内でも、また我が国の産業界も同装置に関心を示さなかった。小玉博士はその後、研究者から弁理士へと職をシフトしているが、当時の我が国に技術・法律・経営を三位一体で戦略的に活用する「知財戦略」があれば、あるいは3Dプリンター市場も我が国がその黎明期から席巻していたのかもしれない。
3Dプリンターには、「ものづくり」分野のみならず、医療、建築、教育、エンターテインメント、さらには軍事と様々な分野での応用が期待される。こうした基幹技術へのマネーの流入、すなわち未来への投資こそが、我が国をして悪性インフレを回避せしめ、諸国勢が“凋落”する中で、我が国のみが人類史の課題とも言えるグランド・チャレンジを解決するプロセスを世界に波及させるという意味での“Pax Japonica”を実現するためのカギとなろう。
グローバル・インテリジェンス・グループ リサーチャー
原田 大靖 記す
*本コラム内にある見解は、弊研究所の一致した見解ではなく、執筆者個人の見解を示すものである。
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