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解くアメリカ、解かれる日本。(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 38)

24日(米東部時間)、日米財務相協議(第1回目)が米ワシントンD.C.において終わった。先般「関税」協議が日米間では行われたばかりであるが、次は今回の財務大臣間における協議に続ける形で来月(5月)1日早々に第2回目の「関税」協議が実施されるのだという。日米間の時差を考えると、こちらが一方的に米東海岸に行かねばならない形になっている今回の協議は物理的・体力的にも我が方関係者の各位にとってはかなりきついものであるに違いない。まずはご一同の体調が維持されることを心から祈念しておきたいと思う。

なぜこんなことを言うのかというと、これまで対外公表されているこれら協議の結果に関する文書テキストを読む限り、明らかに日米間で企図していることが異なることに気が付くからである。そしてこの決定的な違い、差異こそが、米国の一言一句に我が国が翻弄され、それだけ我が方関係者が心労を重ねる結果につながって来てしまっている。だからこそ、この「違い・差異」をまずは協議に先立って我が方の側において正さない限りは、無限ループになりかねないのである。つまり我が方が米側との関係で「満額回答」を出した、だからこそ協議はまとまったと思っても、すぐさま米側は「次なる宿題」を課して来る、だからこそ我が方は無限の譲歩を強いられるということになりかねないのだ。

前回のこのコラムで筆者はかつて2006年に拙著『騙すアメリカ 騙される日本』(ちくま新書)を刊行したことがある旨を紹介した。この本のタイトルをもじる形で今、我が国が対米関係に関し陥っている状況を一言で言うならばこう表現することが出来るであろう。―――「解くアメリカ、解かれる日本」だ。

つまり、こういうこと、だ。米国がトランプ大統領というbig mouthを用いながら表現したいこと。それは「今は”解きの時”である」ということに他ならないのである。”解きの時”とはグローバル社会の全てにおいてありとあらゆる既存の構造、枠組みが崩されるタイミングのことを言う。このタイミングにあっては、何かに固執するということがあってはならない。なぜならば固執すればするほど、今度はその構造、枠組みだけではなく、固執している私たち自身が解かれることになるからだ。すなわちこの時、解かれるとは最悪の場合、「ヒトとしての命が潰えること」「死」を意味する。

なぜならば米国、さらにはその背後において実質的な欧州の「国体」勢力が念頭に置いているのは窮極のところ、私たちが暮らしている(というか、そこにしか存在し得ない)「地球」そのもののリズムなのであって、さらにいえばその「地球」と時空間の存在する場としての「宇宙」、そしてもっと広げるならばそれをも包摂する時空間を問わない「全体(All)」との関係において間断なく刻まれているリズムとの関係で、”解き”と”結び”はこれまで繰り返されてきたのである。そして俯瞰する立場から見れば見るほど、私たち人類社会もこのリズムに抗うことは決して許されず、むしろこれに同化し、同期することによって最適な状況の中で暮らすことが出来ることに気づくのだ。古来、神権政治(theocracy)の時代においてはこれを核として統べることが当然視されていたのであって、現在も「国体」すなわちroyal famliesたちが存続している諸国においても多かれ少なかれ、そうした制度が残存していることは読者もご存知のとおりなのである。

したがって問題はこの”解き”の時にあって”解かれる”ことを良しとせず、あえて旧来のものに固執し、変わることを拒むならばどうなるのかと言う点に絞られてくるのである。現世に戻って語るならば、我が国の石破茂政権による対米交渉姿勢は一言で言うとこの「固執」、すなわち「解かれることに対する拒否」で一貫していると言うことが出来よう。確かに一見すると「譲歩に次ぐ譲歩」を当初から重ねているように見えなくもない。しかしその背後にある発想とは、「所詮、カネで解決できるレベルの問題に過ぎない」という甘い発想なのであり、逆に言うならば表面的にはともかく、最終的に自分自身は一切変わる気が 無い、これまで戦後築き上げられてきた既得利権構造を核とした我が国の社会経済政治システムを決して変えまいという頑迷固陋な決意がそこには秘められているのである。

もっとも、この様に「解かれること」に対する拒否、いや、もっというならばそれに対する「恐怖」はどこから来ているのかというならば、我が国の「国体」が今を遡ること80年程前に行ったある重要な「選択」に遡ることが出来るのである。すなわち、こうした俯瞰する構図を常に念頭に置きつつ統べる階層(「国体」)の下に、それを踏まえて現世を仕切る役割を担う政治的リーダーシップ(「元老」ら)が存在し、さらにその下に民主主義によって選ばれるリーダーシップ(狭義の「政体」)がおり、全てが統べられていくという戦前の我が国における枠組みを変更し、「国体」と狭義の「政体」の間に位置する存在を全て米国(もっといえばその大統領)に任せるという仕組みへと転換することがそこでは決されたのであった。これを「日米同盟」と以後呼ぶようになり、それと共に我が国では「国体」の行う俯瞰した視座に基づく判断を、狭義の「政体」へとかみ砕いて降ろす存在が国内にはいなくなってしまったのである。

いや、いなくなったというのは少々語弊がある。なぜならば昭和天皇の御世においては政治・経済・社会・文化のあらゆる分野において「このこと」が暗黙の了解とされ、実際にそれで統べることが我が国においては当然視されていたからである(沖縄返還を実現した佐藤栄作総理大臣(当時)が昭和天皇に対し、頻繁に「内奏」を行っていたことはその一例としてよく知られている事実である)。だが、そうした時代も1989年をもって終わりを告げ、いよいよ我が国ではこの意味での真のリーダーシップが消失してしまったのである。もっというならば、こうした真のリーダーを育てるために存立してきた高等教育機関(東京大学を筆頭とした)は徐々にこの意味での「本当の役割」を失うに至り、完全に方向性を喪失、今や巨額の赤字を抱え、もはやリーダーシップ教育どころではなくなっているのが実態だというわけなのである(大学法人がまたぞろ危機の時代を迎えたことは、ここに来て連日報道される「入学募集停止」「学部廃止」といった報道からも明らかである。)。

かつて2005年の春に自らの意思で外務省を出奔した時、米国を取り仕切るAmerican Sephardic Elitesの一人から、こうメッセージを頂いた。

「Takeo、あなたの問題意識は痛いほどよく分かる。しかし一番問題なのは、あなたの同胞である日本人自身だから。それを突き動かそうとすることは本当に大変だと想う。しかしどうしてもやりたいならばやってみなさい。その様子を私たちはじっと見守ることにする。」

第1回目の「関税」協議の際には「格下であるにもかかわらずトランプ米大統領はご面会下さった」とはしゃいでいた赤沢亮正・経済再生担当大臣の会見に比べ、今回の第1回目財務相協議後の記者会見において加藤勝信財務大臣がいつになく眉間にしわを寄せ、厳しい表情で対応していたのは大変気になった。懸命なる我が方財務大臣、そしてそれをサポートする財務官僚氏らは恐らくは上記の「無限ループに陥る危険性」に早くも勘づき始めているのではないかと想う。そしてその認識は残念ながら的確なのであるが、本丸である永田町においてその感覚がシェアされることはなく、ましてや我が国社会全体においてだからこそ「次へ向かうべし」という議論が大々的になされることもなく、ただひたすら、我が国は「奪われ続け」やがて「自壊」の寸前にまで追いつめられるのだろう、と筆者は思っている。

「守るのではない。自らのセンスで考え、その手で新たに創り上げるのだ。」

このあたり前なことに、私たち日本人が果たして気づく日が早々到来するのか否か。グローバル社会全体が今、注視している。知らぬは、他ならぬ私たち日本人だけだ。

2025年4月26日 熱海の寓居にて

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役会長CEO/グローバルAIストラテジスト

原田 武夫記す