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カイロス化する世界とその帰結。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

混沌としているように見える我が国、そして世界だが、これから進むべき方向は実のところ決まっている。「戦争」「インフレーション」そして「イノヴェーション」だ。我が国では不思議と語られることはないのだけれども、私が我が国からのメンバーとして属しているグローバル・ビジネス・リーダーの集まりであるB20といったグローバルの現場ではこれが「常識」となっている。まずはこのことを踏まえておく必要がある。

この中で2番目の「インフレーション」への誘導が失敗したのは誰の目にも明らかだ。この選択肢がまずもって選ばれた理由は簡単である。端的に言えば、政府の財務当局と緊密に連携しつつ、究極においては「民間銀行」である中央銀行のリーダーシップ(総裁)が決定すればそれで済むからである。そこには何らの民主主義的な手続きを踏む必要がなく、最も楽なのだ。しかもインフレーションの誘導も度を越すと当該国の国債や通貨が紙屑になってしまう「ハイパーインフレーション」になるのが目に見えている。国からすれば自分がこれまで積み重ねてきた借金を全て棒引きに、しかも“不可抗力”を装ってそう出来るのがハイパーインフレーションなわけであるから、これをしないでどうするかということになってくる。

仮にそれを目標にするということになるのであれば、インフレーションには誘導するが本格的に国民全体に対してマネーを供給し、本気でビジネスをフル回転してもらうべきではない。だからこそ「平成バブル」の頃にはそのための措置として存在していた「サラ金のATM」やら「相互銀行の夜間窓口」などといったものは今、存在していないのである。いわば“ゆでガエル”なわけであり、一時の資産バブルに酔いしれる中、哀れな国民たちはそのままハイパーインフレーションという塗炭の苦しみの中に放り込まれることになっていく。

だが、これには「やや時間がかかってしまう」という難点がある。下手をするとこうしたカラクリに気付いてしまう向きも現れるのだ(このコラムが正にそうであるけれども)。そこで為政者たちはより直接的で、かつ劇的な選択肢を目指し始める。これが「戦争」であり、それによる強烈な需要喚起なのだ。近現代に発生した戦争は須らく、そう、全部が全部、このことを理由にして実のところ発生している。

ところがこの「戦争」という選択肢も実のところもはや万能ではないのである。太陽活動の異変に端を発する気候変動の激化、そしてそれが人体の免疫力を著しく低下させ、ひいては経済活動の低迷とデフレ縮小化を招くという展開の中で、これを何とか食い止めるべく米欧の統治エリートたちが何時の頃からから語り始めたのが「包含性(inclusiveness)」という概念だ。つまり「あらゆる人々にチャンスを与え、そのことをもって全体を低迷から救おう」というのである。そのため、中間搾取(middleman)たちは徹底的に排除されることになった。このことを目的とした窮極のツールが導入されたのである。インターネットである。

具体的にはソーシャル・メディアが普及するように仕向けられた。その結果、私たち一人ひとりには力が与えられ(empowerment)、やる気があれば今すぐにでもそれなりの収益を上げるビジネスを行うことが出来るようになったのである。そして同時に、ソーシャル・メディアの普及は一人一人の政治的な発言権をも強化した。もはやマスメディアがこぞって隠蔽しようとしてもそれが不可能であることは、2020年東京夏季五輪の「エンブレム問題」を徹底追及し、利権構造の打破に成功したのが名もないネットの住人たちであったことに如実に示されている。

こうした「集合知の勝利」が高らかに謳われるようになればなるほど、実のところ物事は動かなくなっていくのである。最近、私は戦後日本を駆け抜けた大女優・若尾文子が1950年代から1960年代にかけて続々と出演した映画作品をよく見るようにしているのだが、そこで描かれている群像を見て実に驚愕を覚えざるを得ないのだ。「政治家」「資本家」というリーダーシップがそこでは明確に中心に据えられ、「女性」「若者」といった者たちは徹底して押しつぶされ、その声が無視されているのである。映画作品の中だからという読者は言うかもしれないが、世相を反映していなければ売れないのがエンターテイメントなのである。「かつての日本」、いや「かつての世界」ではそれが当たり前だったと考えても決して間違いではあるまい。

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そうした強引かつ独占的なリーダーシップがなぜ可能だったのかといえば、端的にいうと「包含性(inclusiveness)」などというマイノリティ絶対擁護のイデオロギーが存在していなかったからなのだ。無論、そこにはソーシャル・メディアなど無かった。だからこそ第2次世界大戦という凄惨な経験をした直後であるにもかかわらず、ヴェトナム戦争や中東における大戦争などが可能であったのである。人々は「勧善懲悪」のマルクス主義のドグマに対し、「Yesか、Noか」だけを迫られ、それで政治選択を行っていた。だからこそ、「戦争」か「反戦」か、その二つだけで物事が進んでおり、最後は「資本の論理」によって大戦争が遂行され、空前絶後の需要を喚起し、景気回復を図ることが出来たというわけなのである。

ところが今はそうは出来ないということは、先般の我が国における「安保法制」を巡る大規模なデモ騒動からも明らかである。「大したことはない、左翼の残党やら非・日本人団体による策動だろう、たかがしれている」と思うことなかれ。今回の出来事が学生など若者たちの間で大きなインパクトを呼んでいることは確かな事実なのだ。私の周りでも、これまで「学生運動って何ですか?なぜ起きたのですか?」などといっていた学生が、ここにきて「私はノンポリですから・・・」などという往年のテクニカル・タームを使い始めている。無論そうした私の個人的な印象を越えて、例えば日米同盟の深層にあって本当の意味でのインテリジェンスを担っている御仁も私の目の前でこう語っていたほどなのである。

「今回の安保法制を巡るデモで目についたのは、論理的に憲法論を語ることで支持を得ようとする若者たちの姿だ。寝た子を起こしてしまった感が強い」

状況が全世界的に同じなのは「アラブの春」を思い起こせば同じことである。米欧の統治エリートもデフレ縮小化を食い止めるためには「包含性(inclusiveness)」を掲げ、その実現のためのツールとしてのインターネット、とりわけソーシャル・メディアを広めるしかない。しかしそうなればなるほど、かつての様な「幻想の共同体」としての国民国家が映し出す”愛国心“という映画を見に来る者など誰もいないのである。なぜならば現実(reality)をリアルタイムで映し出す動画サイト(youtube等)を見ていた方が知的に満足出来るからだ。

無論、私はこう述べているからといって「戦争が起きることはあり得ない」と言いたいのではないのだ。いや、むしろこれからそれは激烈な形で“演出”されるに違いないのである。しかもかなり強引な形で、だ。それに対して当然のことながら、私たちは大いなる疑問符をつけ、轟然と立ち上がることになる。ソーシャル・メディアでは「反戦論」が大いに語られることになるが、それでも「為政者たち」は強引に戦争へと地歩を固め始めることになる。局地戦が始まる中、「すわ、本格開戦」というところで“福音の主”がやおら語り始めるはずだ。―――「この戦争は核戦争になり、人類を破滅に導くことになる。ここで踏み止まることが出来るか否か。それがイコール、そもそもhomo sapiensであるかどうかの証明になる」

ヴァチカン勢が発するそうした福音を聴いた米欧の統治エリートたち、そしてその「敵手」とされたイスラム教徒のリーダーたちは一斉に武器を降ろすことになる。正にギリギリのタイミングにおいて、である。そしてそれまでの愚行を口々に悔い改め始めるのだ。「愛に包まれた新世界秩序(The New World Order)」の始まりである。

しかし、である。グローバル経済のデフレ縮小化に歯止めはかからないのだ。しかも「戦争」という窮極の手段を放棄してしまった以上、需要と供給のサイクルによって時には強引な形で時の針を進めるという意味での時間(クロノス)はもはやそこには存在しない。そうではなく「今」という時間しかないという意味での時間(カイロス)が世界中に漂い始めるのである。要するに世界中が“まったり”してしまう。

そうなるとそこで普遍的となりかけるデフレの蔓延という事態を解決するために残された手は一つしかない。「イノヴェーション」である。しかも徹底したイノヴェーションであり、人類社会を根底から覆すようなそれが至高善として追求されるに至るのである。

それではそこで追求される至高善としてのイノヴェーションとはどの位のレヴェルのものであるのか。米国勢が推し進めているイノヴェーション発掘のための有力なプログラムの一つの冊子が私の手許にある。それをめくるとこんなことが、そこでのイノヴェーション懸賞のターゲットとして掲げられているのだ:

―同性愛者における「出産」

 同性愛のペアのそれぞれから遺伝子を採取し、これを卵子へと移植。「養子」ではなく、正真正銘の子供を創り出すイノヴェーション

―気象管理

 人類にとって有害な天候が生じないようにし、むしろ好ましい天候を誘導していくためのイノヴェーション

―完全なる嘘発見器

 刑事手続が極限まで正確な真実を反映したものとするため、最新の脳科学やデジタル技術を用いた嘘発見器を開発するイノヴェーション

まだまだあるがこの辺でやめておこう。名だたる米系企業が続々と賞金の提供を掲げているこのプログラムを見る限り、「イノヴェーション」という選択肢をとったら最後、人類はもはや人類であることを止めてしまうほどの激変にさらされることになるのである。曖昧さは一切許されず、電子的に操作された孵卵器の中で培養され、生まれることを許されるだけである。そして完全にコントロールされた世界で生きることこそが「人生」であり、それ以外の選択肢は一切与えられない。それこそが、現在進行中であるデフレ縮小化を食い止めるため、米欧の統治エリートたちが率先して最後は選択することになる「イノヴェーション」という道筋がもたらす近未来なのである。

「何か、そう決定的な何かが根本において違う」

そう直感を覚えるのは私だけだろうか。造作によって自然(じねん)を操作することの窮極だけが「イノヴェーション」なのだろうか。それとも、これまでの礼(=整えること)を知らずにひたすら造作してきたことによって乱れきった自然(じねん)を逆に整えるための技術としての「イノヴェーション」こそ、望むべきものではないのか。

今起きている本当のこと。それはインフレ誘導でも、戦争への道でもない。「イノヴェーション」を舞台にした二つの全く異なる方向性の激突なのである。私たち日本勢は、そのことを胸に刻みこなければならない。なぜならば後者の意味での「イノヴェーション」の担い手になるのが、私たち自身なのであるから。

2015年10月11日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

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