コンプライアンスと「野良犬」
最近、とみに想うことがある。私たち日本人の「コンプライアンス病」についてだ。外務省を自らの意思で飛び出し、娑婆=ビジネスの世界に出てから早いもので10年が経つ。そこでほぼ毎日の様に見聞きしてきたのがこの言葉「コンプライアンス」だ。日本語に訳すならば“法令順守”である。
あらゆる局面において、ビジネスパーソンたちは我が国において「コンプライアンス」「コンプライアンス」と口にする。そして「法律を守っているから私たちは素晴らしいのです」と暗に言ってみたり、「コンプライアンスを守るのは実に大変だ」と当局による検査・調査への協力こそが己の日々の仕事であると嘆いてみたりするのである。
私はこうした我が国における現状に触れるたびに滑稽でたまらない。なぜならばかつて霞が関(=中央官庁)の一隅に席を置いていた立場からすれば、法令とは「既に在るもの」ではなく「創るもの」だからである。ましてや私の古巣・外務省の場合、事実上、その存立の根拠である「外務省設置法」とそれの更に根拠となる憲法条項だけをベースに仕事が行われている。最近は外務省も日米間での秘密情報交換のため、「コンプライアンス」がひどくうるさく言われるようになったらしいが、しかし基本は同じである。さもなければ外国交際など出来るわけがないのである。
ここで“法”というものの基本に立ち返って考えてみる必要がある、と私は強く想う。元来、私たちは皆、「自由」なのである。これが全ての出発点だ。しかし独りでは出来ないことがどうしてもあるので「国家」を創った。そうした役割の典型が私たち自身の「自由」を侵害されないように番犬役を務めさせるということであり、その際に番犬出動となる基準として創ったのが法秩序だというわけなのだ。要するにただそれだけのことである。つまり出発点は「私たちは皆、自由に生きて良い」ということなのだ。
しかし面白いもので「好きにやって良いよ」と言われて、水を得た魚の様に動くことが出来る人と、立ち止まりフリーズしてしまう人がいる。要するに私が繰り返し述べているとおり、脳内の「枠組み(フレームワーク)」を絶えず乗り越えられるか否かという問題なのだが、第二次世界大戦における敗戦直後が正にそうだったのだと思う。財界ではその頃、前者のタイプを「ノラ」、すなわち野良犬と呼んでいたそうだ。
「ノラ」は生きていくために自分でエサを取らなければならないことを身に染みて知っている。身を守らなければ誰かにやられることも知っている。したがって非常に大胆に、だが同時に繊細なやり方をもって対処していくのである。24時間、鼻をクンクンさせている。なぜならばその様にしていないと次にエサを得られるのが何時なのか分からないからである。彼・彼女らにとって法令とは「使うもの」であり、「使われるもの」ではない。決して逆ではない。
ところがこの「ノラ」が生き抜き、やがてそれなりに大きな犬小屋を手に入れると、その中で暮らす手下や子供たちの様子が変わって来る。「エサを探すこと」ではなく、「犬小屋を守ること」こそが仕事だと思い始めるのである。いや、それは「思う」などというレヴェルではないのかもしれない。「犬小屋を守ること」こそが天命だとまで信じ込み始めてしまうのである。
初代「ノラ」が生きている間は未だ良い。「ノラ」が亡くなると事態はもっとひどくなる。犬小屋を守るために残された手下や子供たちは何をするのかというと、結局「何もしなくなる」。あれやこれやとやり始めると要するに「犬も歩けば棒に当たる」だからだ。ありとあらゆるところに張り巡らされた法令ばかりが目につき、完全にフリーズしてしまう。「この犬小屋を守るのが目的なのだから、法令上目につく立場になるのであればそれは避けるべきであり、むしろ何もしない方が絶対に得」という訳の分からない、本末転倒な議論を展開し始めるのだ。結果、突如として吹き荒れる雨風に耐えることが出来ず、大事な犬小屋は崩壊。亡き「ノラ」の手下と子供たちは離散、露頭に迷うことになる―――。
繰り返し言いたい。現代の我が国における「コンプライアンス病」は異常すぎる。これが海の向こうからはめられた”ノラ殺し”のための罠だということに早く気づくべきだ。戦後日本を各界で創り上げてきたリーダーたちは皆「ノラ」であり、彼・彼女らにとってルール・法令は「既に在るもの」ではなく「創るもの」「都合が悪ければ変えてしまうべきもの」だったのだ。ところが今や「法令が先にありき」になってしまい、「コンプライアンスさえやっておけば仕事になる」とまで思い込む輩まで出てきてしまっている始末なのである。だがそうであるならば企業を、経済を、そして日本と世界を前へ前へと進める付加価値は一体誰が創り出すというのか。付加価値とは要するに「枠組みの外」にあって新しく、かつ効能があるからこそ、“付加(added)”価値なのである。そこでは既存の枠組みとは乗り越えるべきものなのである。その中で安住し、それを守っていることが絶対善であり、仕事であるなどというものでは全くないのである。
法令も同じことだ。近代以前の「法」は現代から見れば余りにも滑稽だが、それでも当時は社会を縛り付ける「枠組み」だったのである。これらが順次乗り越えられることによって人類は進歩してきたのである。それなのにそれを絶対視し、墨守するなど、全くもって無意味だとしか言いようがない。
誤解無きように書くが、私は何も現行法令が全て無意味だと言いたいのではない。そうではなくてその「合法性」と「合法性」の隙間の中に見え隠れする「適法性」の中にこそ、かつて「ノラ」が見出し、実らせた付加価値の鉱脈があると言いたいのである。そこから新しいルールがほと走り出ることになる。そしてそこにこそ、我が国が再生する本当のチャンスがある。「コンプライアンスの罠に縛られることなく、自ら“ノラ”になること」――――読者諸兄にも、事ここに及んだ”今“だからこそ、このことを強くお勧めしておきたい。
2015年8月29日 大阪にて
原田 武夫記す