これから起きる本当のこと。(後編) (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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これから起きる本当のこと。(後編) (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

 

 

 

前回のこのコラムではこれから早ければ2018年、遅くとも2020年までの間に我が国、そしてグローバル社会全体がどの様な形で激変の時を迎え、かつその結果、如何なる形で我が国を中心とした秩序再編、すなわち「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica)の形成」が行われるのかを描いた。今回はそうした中で私たち日本人が如何に生き抜くべきかについて書いてみたいと思う。

細かな論点に入る前にあらためて確認しておかなければならない2つ大原則がある。それは「復元力の原則(ルシャトリエの原理)」と「自責と他責」だ。まず前者であるが、「上げは下げのため」「下げは上げのため」なのであって、これがマーケットのみならず、森羅万象から宇宙に至るまで全てを律している大原則なのである。そうである以上、統べる者からすれば「上げる」、統べられる者からすれば「上がる」ためにはまず「下げる」「下がる」がなければならないのであって、しかも我が国自身の立場を根本的に変更するほどまでの動きであるというならば、これからの近未来に起きることの本質は強烈な「下げ」、しかも我が国自身が崩壊寸前にまで至る「下げ」であることを覚悟しておく必要があるのだ。

他方、その様に言うと一方では絶望の余り虚無的な行動に出たり、他方ではそもそもそうした出来事が起きるなどあり得ないといってあえて近未来を無視する動きに出たりする向きが必ず出て来る。しかしこれらは共に根本的な意味で間違っているのだ。なぜならば私たちの本質が想念、すなわち「想うこと」にあり、そのことは我が国の古神道が最も把握し、しかも日常生活における”躾(しつけ)“にまでそのエッセンスをブレイクダウンしているのだけれども、そのことはまた米欧勢も近現代に至ってようやく気付き始めているからだ。紙幅の都合上、ここでは詳細を書く余裕が無いが、「現象学(phenomenology)」あるいは「社会構成主義(social constructionism)」といった考え方がその典型である。要するに「この世は何のことはない、私たちが想うからこそ存在するのであって、想わなければ何も始まらず、ましてや未来が築かれることもない」というわけなのだ。

この様に書くと、今度は「想った現実は何でも生じるのであろう」とばかりに曰く“引き寄せの法則”などと言って妄想を振りまく人たちが大勢いる。これもまた全くもって間違いなのである。なぜならばそうすることは“想う”ことの本質を全くもってとらえていないからである。私たちは普段、”想い“を司る「脳」が司令を出し、身体を動かしていると考えている。だがこれは根本において間違っている。なぜならば身体における感覚(kinesthetic)こそが本質なのであって、それによって私たちの気分や考え、そして”想い“は根本において変わって来るからだ。それでは身体感覚を研ぎ澄ますためには何をすれば良いのかというと私たちを取り囲んでいる外部環境そのものである自然(じねん)との合一を図るライフスタイルへの回帰を図らなければならないのである。これまた紙幅の都合上、ここでは詳論をあえて避けたいが、一つには「時間の整理」、そしてもう一つは「身土不二」とも呼ばれる「空間の整理」ということになってくる。何気ない日常生活を全て律することによってエントロピー増大の法則にこれまでは身をゆだねていた己を正すことのだ。要するにこれが 前述の”躾(しつけ“であり、我が国古来の生活習慣ということになってくる。「日本的なるもの」というと日の丸、君が代をいきなり取り出す向きがいるが、これは国家神道が人造物であるのと同時に根本において自然(じねん)とは相いれないものである。私たち日本人の「在り方」そのものに日本的なるものの本質が宿っている。その意味で「安倍晋三総理大臣が云々」などといって国家論をぶつ必要は本来ないのである。仮にその様な現実があるのだとすれば、結果においてそうなることを望むという意味で”想っている“私たちが先行して存在しているのである。

全てが己の“想い”によって生じるのであるから、何かが起きたらばそれを他人の責任にしようとすることは余りにも非本質的であることも容易に理解されよう。全てはそうなることを望む=想っている私たち自身に原因があるのである。すなわち物事の連鎖という意味での縁(えにし)を辿るならば、全て私たち自身に行き着くのである。それ以上でも、それ以下でもないことを頭の中にきっちりと叩き込んでおく必要がある。

さて、以上を踏まえた上でこれから何を為すべきか。より具体的に書いていくことにしたい。まずは結論から申し上げると次の3つということになる:

―デフレ縮小化への対応として「金融の大幅な縮小」が起きることを前提に「債権債務関係」さらにはその前提としての「ヒトとヒトとの間の信頼関係への回帰」が起きることを前提に動く必要がある

―デフレ縮小化の大前提においては太陽活動の異変に始まる気候変動の激化があるわけであるが、これによる災禍を逃れるべく「よりマシな土地」を巡る取り合いが激しくなる。つまり「陣取り合戦」が盛大に行われることになるわけであり、その時、加速する「デジタル化」への対応を図るべくバランスのとれた身心を可能にすると言う意味での窮極の「アナログ」への回帰を可能にしてくれる土地を誰よりも早く確保しておく必要がある

―以上2つを大前提に既に動き始めているのが米国勢に代表されるユダヤ勢=セファラディ勢(+アシュケナージ勢)であり、かつ国家としての中国勢という仮面を被った華僑・華人ネットワークのハイレヴェルなのである。私たち日本勢はこれらの巨大な勢力が激突するにあたって同じレヴェルでゲームに入るべきではない。そうではなくてこれら二大勢力の双方を跨ぐ形で結果として形成されつつある構造と言う意味での「グローバル利権」の本質と己を結びつけることにより、やがて共倒れになるこれら双方が己の下に流れ込んで来る様、導線を作れば良いのである。結果、「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica)」が実現していくことになる

以下、詳しく述べていきたい。―――目先騒がれているインフレの全面展開の可能性は、元をただせば自然(じねん)の変容によってデフレ縮小化を余儀なくされることへのささやかな抵抗として米欧勢が量的緩和(quantitative easing, QE)を行い、極端なインフレ誘導を行って来た点にある。その結果、莫大な量のマネー(通貨)がグローバル社会にまかれており、それが結果として我が国における資産バブル展開をも引き起こしているのである。だがこれらはやがて一方では止まらぬインフレの全面展開、すなわちハイパーインフレーションとなり、他方では突発的なものから始まり、やがては持続的な現象としての金利の急上昇を引き起こすことになる。いずれにせよ、「通貨」そして「有価証券」は単なる紙切れへと近づいていくのである。早ければその片鱗とも言うべき突発的な事態は今年中(2015年内)に発生することになる。それは人為的なもの(米国勢による政策金利引き上げ等)でもあり得るし、あるいは天変地異(首都直下型大地震等)でもあり得る。

しかしこの様に述べるからといって「金融」そのものが無くなるわけでは全くないのであって、この点を誤解してはならない。単にその元来在った姿へと立ち戻るだけなのである。そしてそれは端的に言うならば「債権債務関係」への回帰なのであって、より分かりやすく言うならば根拠なき投機(speculation)によってなぜか資産価値そのものが少なくとも観念的には増えているかのように見えるようになるのを本質とする「投資」「株式(equity)」ではなく、真に付加価値が実体として創造されることに厳密な意味で紐づけられている「融資」「債務(debt)」なのである。当然そこでは金利(interest)が設定されることになるが、基本的には固定金利(fixed)が支払われることになる。

この様な仕組みへの転換は、これから我が国、そしてグローバル社会全体を次々に襲うことになる様々なリスクの盛大な”炸裂“を通じて生じていく。なぜならばそれらのリスク”炸裂“の連続は結果として上述のとおりハイパーインフレーション、あるいはその一歩手前といった事態をもたらす中、総じて金利は急騰し始めるからである。企業から見ると資金調達が著しく困難となるため株価は大幅に下落するが、債権者からすれば当該債権がデフォルト(支払不能)にならない限りにおいて、金利上昇の恩恵を享受することになる。そのため「投資」から「融資」へと世界は大きくシフトしていくというわけなのだ。

だがこれら二つの間には大きな違いがある。それは「投資」が窮極において実体の分からない有価証券をターゲットに投機目的で行われるものであるのに対し、「融資」は借りた側がきっちりと返すのか否か、信頼性の厳密なチェックが必要だからである。もっといえばそこでチェックされる信頼性は一歩一歩(step by step)で確認されるべきものであり、その意味で時間のかかるものである。これもまた金融資本主義の次の「資本主義」が大きく減速したものになる根本的な要因となってくる。

いずれにせよ「株式」の時代は終わり、「債権債務関係」の時代が到来するのである。「上げは下げのため」であることを考えると、前者もまだ崩壊までの間、「強烈な上げ」を享受する余地はあるというのが卑見である。だが遅かれ早かれ、後者へと一気に転換していく。何せ現在、華僑・華人ネットワークのハイレヴェルが試み続けているのがブレトンウッズ体制を構築するにあたり、自らがこの体制の土台に対して出した(=融資した)資金の引き出しなのであるから、そうなのである。古来、華僑・華人ネットワークのハイレヴェルは「債権債務関係」を本質とする世界統治を行って来たことをここで想起しておく必要がある(いわゆる「朝貢貿易」も実はそこに本質がある)。

次に、デフレ縮小化がなぜ起きるのかと言うと、これまでの拙稿の繰り返しになるが以下のような流れが不可逆的に生じているからだ:

―太陽活動の異変

―気候変動の激化(=「北極圏の温暖化」「北半球における寒冷化」)

―人体における免疫力の大幅な低下

―グローバル経済全体としてのデフレ縮小化

すなわち事の本質を辿っていくと、気候変動の激化に行き着くのである。これが今後生き抜くためのカギである。なぜならばそうした自然(じねん)の側における激変が起きてもそこに暮らす人々が耐えられる、あるいはかえって活力を得ていくような土地が必ず地球上には存在するからである。ただし量においてそれが世界人口との比率において果たして足りるのかは定かではなく、ましてや「従来と同じ土地」が必ず良いという保証も全くもってないのである。その結果、グローバル社会全体においていわば“陣取り合戦”が盛大に始まることになるのだ。これが件の「債権債務関係」への転換と連動して進行することになる。

それではどの様な土地が選ばれるのかというと、そこでの要諦はたった一つである。米欧勢は今後ますます、デフレ縮小化への当座の対応としての「デジタル化」をグローバル社会全体において進めていく。デジタル化とは要するに二進法へと全てを還元させることによって、極限まで素早く作業を進めることに他ならない。「時間の整理」を窮極まで推し進めることによって単位時間あたりの生産性を上げようというのである。これは戦術としては大いにあり得るものではある。

だが「戦略」としては誤っているのである。なぜならば私たちの指は10本あり、これを使って数を数えるのが通常であることからも分かるとおり、「二進法」への還元とそれを大前提としたシステムへの適応にはそもそも私たち自身が限界を感じるからである。その結果、耐えられない向きから順番に脱落し始め、あるいはその予備軍として生産性を引き下げる側にまわることから、リーダーシップの側はこれを何とか食い止めようと今度は生身の人体以外のものに頼り始めてすらいるのだ。これが人工知能(AI)がもてはやされる最大の要因なのである。それによりますます「耐えられない人間の数」は増え続け、失業もまた増えていくのである。雇用を創出し、こうした失業者の群れを吸収させるべく、起業(entrepreneurship)が盛んに推奨されるのもそのせいである。だが所詮は「焼石に水」なであることは言うまでもない。

よしんば「デジタル化」に対応出来たとしても、この余りにも自然(じねん)の摂理に反した人工的なシステムへの適応を余儀なくされる我らが人体は大いに疲弊するのである。とりわけ自律神経が大いに乱れることによって安寧な精神状態を保てなくなってきたりもする。だからこそ、その様にすさまじい勢いでアンバランスになっていく自律神経を「整える」ことの出来る土地、そこに住むだけで何かしら気分が良くなる土地を本能的に求めて、人々は彷徨い始めるというわけなのだ。

「何となく気持ちが良い」と言う意味でのアナログ的な感性こそがそこでの唯一の頼りになってくる。そしてそれが何であるのかは、土地そのものの含有成分にこそカギがあるのであり、その意味での自然(じねん)に合致した形で衣食住を整えていくことにより、私たちは高速度回転する「デジタル化」によって追い詰められた身体、とりわけその自律神経のバランスを取り戻すことが出来るのである。実はこれこそが我が国古来の教えの本質なのであり、かつ母から子へと伝えられてきた“躾(しつけ)”という意味での生活習慣の本質でもあるのだが、これが全くもって忘れられてしまっている点に我が国の、そして日本民族の悲劇がある。明治維新以降の「近代化」の中で徹底的に社会の隅へと追いやられてしまったこうした“躾(しつけ)”と、それを通じた元来の身体感覚、「ここにいると気持ちが良い」という極めてアナログ的な感性に基づく生活の再構築が、果たして何時のタイミングから国民運動として始まるのか、あるいは始まらないのかに、この国の将来がかかっている。世情いわれる「地方創成」もこうしたコンテキストにおいてこそ、意味があるというわけなのだ。

さて、以上の2つの最新トレンドをどこの誰よりも早く察知し、動き始めて久しいのが一方ではユダヤ勢=セファラディ勢(+アシュケナージ勢)であり、他方では華僑・華人ネットワークのハイレヴェルなのである。そしてその間における「陣取り合戦」が如何に激しいものであるのかは、米中勢のつばぜり合いが表向き、日増しに激しくなっていくことからも明らかなのである。何せ陣取り合戦は限られた資源(=土地)の奪い合いなのである。「自由と民主主義、そして市場経済の維持・拡大」にせよ、「一帯一路政策」にせよ、そこでのスローガンはある意味どうでも良いのである。双方が行っているのは生き残りをかけた”陣取り合戦“であり、それ以上でもそれ以下でもないのである。

それではこうした二つの巨大勢力が真正面からぶつかり合うのを目の当たりにする私たち日本勢は一体どうすれば良いのであろうか。―――そこでの大原則は、どちらか一方の側の味方になるのは愚の骨頂だということなのだ。なぜならば正面衝突を繰り返すこれら二つの勢力、さらにはこれらが表向き「現象」として見ることのできる国家としての米国勢と中国勢の間で行き来しているのがそれ自体は見ることが出来ない「潜象」としてのグローバル・マネー、あるいは”富“だからである。「現象」になった瞬間に「潜象」は既に動き始めている。つまり米国勢が富めばそれに投資をするというのでは遅いのである。なぜならばここにきて大騒ぎになっている「シェール革命」同様、目に見える現象になるということはその分だけ崩壊も間もなくであることを意味しており、その実、富は逆の方向へと動き始めているからだ。

したがって「米国勢と中国勢の両方」へとコミットしているスキームへと私たち日本勢は自らをつなげていくべきなのである。通貨のレヴェルでいうならば米ドルと人民元のシーソーゲームの「軸の部分」に立ってこそ、富は維持出来ることになるからだ。どちらか一方への「賭け」へと誘う向きが依然として後を絶たないが、こうした甘言は全くもって的外れなのである。どちからだけに賭けていたのでは、結果として全てを失うことになりかねない。他方で己の原点そのものを放棄するのも根本的に誤っている。なぜならば米国勢と中国勢の双方を「客観的に評価するため」には第3の視点が必要であり、それが我が国=日本勢であり、かつ通貨でいえば「日本円」に他ならないからだ。つまり資産ポートフォリオで言うならば「米ドル・人民元・日本円(及び簿外資産のレヴェルにおいてそれを支えている金(ゴールド))」の三位一体を整えるべしということになってくる。実を言うと、ユダヤ勢=セファラディ勢(+アシュケナージ勢)は言うに及ばず、特に華僑・華人ネットワークのハイレヴェルはこの意味での資産ポートフォリオ・システムをこの5年ほどの間に整えてきているのである。そして今、彼・彼女らの目は実をいうと最後の仕上げとしての「日本勢の巻き込み」へと向いているのである。だが正直言って、私たち日本勢の側が表向きのリーダーシップから始まり全ての階層において全くもって心の準備が出来ていないのである。つまり以上の原理原則、そして「これから起きる本当のこと」についての認識が余りにも欠けているが故に、彼・彼女らは一体、日本勢のどこの誰と話しをつければ思いあぐねているというのが実態なのだ。

ここに生き残るための大きなカギが潜んでいる。米国勢と中国勢の間の争いは所詮、決着がつかない。なぜならばこれら二つは相互に「入れ子構造」になっているからだ。全くもって国家レヴェルでは互角であり、振り子だけがその間で大きく振れていくだけである。しかしそうであるが故に安寧の場を求めて、米国勢にせよ、中国勢にせよ、表向きは不動の様に見えて、その実、上述の意味での「最高の陣地」を多数抱えている我が国へと吸い寄せられていくことになるのである。そして既に始まっているその大流の先鞭をつける形で彼・彼女らを助け、時間をかけてこれまで失われてきた「信頼関係」を構築する中において「債権債務関係主軸のシステムへの転換」に主体的に関わっていくこと。これこそが、私たち日本勢が今、なすべき本当のこと、なのである。

その意味で未来への切符は何のことはない、私たち日本勢一人一人が持っているのである。あとはそのことを知って、“想い”、動き始めるかだけである。そこで動き始めた順番に従って全く新しい世界秩序(new world order)における序列は再構築されていくことになる。そう、新しいゲームは既に読者の皆さんの目の前で始まっているのだ。

2015年9月27日 松山・道後温泉にて

原田 武夫記す

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