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わたしの原風景、日本の原風景

前回のコラムでは、安倍公房の戯曲『城塞』について取り上げました。

公房はエッセイ『一寸後は闇』で私小説を書かない理由のひとつとして、「現在が、現在のままで過去に送り込まれることはなく、消化された現在は、たちまち過去一般に還元される。」と述べています。

しかし作者による仕掛け、嘘が仕込まれて出来上がる作品の中に、作者の生き様は少なからず投影されているものです。実際、城塞の舞台となった満州の一家庭のイメージは、公房自身の満州での幼少期の原風景が色濃く反映されていることでしょう。

同時代に活躍した寺山修二の演劇、俳句も、青森での彼の幼少時代の原風景から湧き出たイメージ(例えば、イタコ・恐山和讃から、死者が蘇る暗闇の演劇、地獄めぐりの演劇の着想を得た。)が物語の中核をなしています。

私はいま、『原風景』ということばを使いましたが、この語の解釈について随分と前からもやもやしていました。

「あなたの原風景はどんなの?」と聞かれたら、私はまず、生家の庭と塀を思い出します。中学生の頃まで私が住んでいた家は、日本の家のつくりとしては珍しく、飾り門を通して表から庭全体が見渡せました。また、高さ2mのうち下半分は足をかけられるような石造りでしたので塀によじ登るのが容易でした。つまり本来の侵入者を防ぐという塀の用途は全く果たさないのですが、座るのに十分の厚さがあるという不思議な塀でした。母親の帰りを待つとき、あるいは友達を待つとき、塀に座って道路で待ち人が現れるのを待ったものでした。時には、危なっかしくも塀をまたぎながら追いかけっこや水鉄砲の打ち合いも楽しみました。

幼少時代に全く気付かなかった自分の家の塀の特異性に気づいたのは高校生だったでしょうか。

カナダの家庭にホームステイをする機会がありました。ひとは孤独のとき、感性が静かに研ぎ澄まされ、今まで気に留めなかったものに気づくことがあります。そのホームステイ先は駅から非常に遠い郊外にあり、バス亭からも住宅街をいくらか歩かねばなりませんでした。その道を間違えないで帰るのに注意が必要でしたので、帰り道の家々をよく観察したものでした。幸いだったのが、欧米の家は広い前庭があり、表からもその美しい庭を見渡せるということです。家々の色鮮やかな庭は通るものをあたたかい気持ちにさせてくれました。(そして塀より庭の特徴を頼りに家路につく方がより楽しい体験でしょう。)

帰るころにはすっかりホームステイ先までの遠い道々にも親しみを覚えていました。帰国後の家路で目に映った日本の家々が、塀が高く、庭も見えない、なんとも秘密めいたつくりに見えたことか!

“わたし”の原風景は名もない路地のお話しですが、皆さまの原風景はどのようなものでしょうか。こういう思い出話をするとき、パリや京都のように、教会あるいは寺院がそこら中に点在し、全ての通りに名前がついている都市の場合、話す方も聞く方もイメージが想起しやすく、羨ましいなぁと思います。

では“日本”の原風景とは何なのか。絵画だけでなく、俳句や文学など様々な形態で表現されてきた主題ですが、2011年の山種美術館の美術展「美しき日本の原風景―川合玉堂・奥田元宋・東山魁夷―」展というのが印象に残っていますので、ここではそのお話しを。

のどかな田植えの様子を描いた玉堂の《早乙女》(トップの写真です)、失われゆく京都の姿を描きとめた魁夷の京洛四季の連作の展示がありましたが、主催者がこの展覧会に原風景と名付けたのは、かつては存在した日本各地の故郷の姿や伝えていきたい日本の心の風景を忘れぬようにという願いをこめたからのようです。

会の趣旨を読みながら考えたのは、「原風景は懐かしさを伴う、人の心の奥にある原初の風景と定義するのであれば、今の子どもたちのどれほどがこの絵画に懐かしみを感じながら鑑賞するのであろうか?」ということでした。

魁夷らが提示する“日本の原風景”なるものは、都会人にとっては日常において不在の風景なのであり、自ら求めてやっと辿り着ける景観です。高度経済成長後の日本に生まれた私と“日本の原風景”を結びつけるのは、実際の景観より、童話や絵本、にほんむかしばなし、そして文学です。魁夷の雪景色を見て懐かしく感じるのは、『もちもちの木』の切り絵の雪景色が原体験なのか?住んだこともない長屋を懐かしく感じるのは、作家の自伝を何度も読むうちに自分の原体験と錯覚するようになったのか?というふうに。

都会のビル街に育った子どもにも、もちろん、ビルとビルの狭い路地といった、それぞれの原風景があります。では彼らは、伝統的な“日本の原風景”をどう感じるのだろうか。都会に育ち、日常で自然や田園風景に触れることのなかった三島由紀夫の原風景は古典文学に拠ったといいます。

2012年の調査では小学生のテレビ、ゲーム、パソコンの映像媒体との接触時間は、本(26分)の約7倍もありました。また、PCでYoutubeなどの動画を日常的に見る小学生は約4割であり、高学年になるほど接触時間は増えています。*1

これだけ映像媒体との接触時間が多いと、古典作品を通してかろうじて受け継がれてきた“日本の原風景”は、映像イメージだからこそ表現が容易になったSFや近未来的景観に近いうちにとってかわられてしまうのでしょうか・・・

 

*1

http://www.media-kankyo.jp/news/report/20120725_2573.html

 

【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

 

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