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「円高ドル安誘導」を今回、彼らはどの様に仕掛けてくるのか?(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 36)

「原田くん、この書類、見ておいてくれないか?」

痩せぎすで長身、黒縁の眼鏡で今で言うイケメンなのだが、外務省では「専門職」職員であるため、かなり物静かな印象のTさんはその時、外務省に入省してからたかだか半年ちょっとしか経っていない筆者の自席までやって来て、その時そう言った。時は1993年。外務省経済局国際機関第2課(当時)のオフィスにおける話である。筆者のポジションは「入省1年目のキャリア外交官」の中でも一癖ある、あるいはある意味「曰くつき」の者たちが配属されてきたことで知られているポジションであり、事実、8年上の先輩が1年生であった時には現在の皇后陛下が一事務官として配属されていた。平成バブルの直後であり、外務省だけではなく、霞ヶ関全体、そして我が国全体の鼻息は今では想像できないくらい荒かった。そうした「ニッポン株式会社」の中枢の一つが間違いなく外務省の経済局だったのであり、その中でもG7サミットに対して知恵出しをすることで知られる経済開発協力機構(OECD)を所管する我が国際機関第2課は、時に全省庁を巻き込む案件を捌かなければならないだけに「武闘派」とでも呼ぶべき元気の良い課長以下のキャリアの職員たちが配属される一方、それに対して粛々と、実務的な観点から抜かりの無い仕事をするノンキャリア、すなわち「専門職」職員が連なるといったフォーメーションで構成されていた。Tさんは時の課長と同じスペイン語研修の「専門職」職員だ。在外研修の後、既に1回、メキシコにある日本大使館に勤務した経験を持ち、その後、この課に配属されたと聞いた。

そんなTさんが廻してきた書類。それは我が国政府として「メキシコによるOCED加盟を認めるべし」という決断を下すための決裁書であった。なぜ、そんな重要な決裁書をたかだか入省半年ちょっとの筆者のところに回付してきたのかというと、筆者は同課の中で「環境政策」を担当していたからだ。経済開発協力機構(OECD)について今やほとんど我が国で語られることがないものの、実はこの機構、大変重要な役割を担っていることをご存知であろうか?この機構は別名「先進国クラブ」と呼ばれている。すなわちそこでの加盟資格を認められたということは、要するに先進国であることを認められたことを意味してるのであり、それだけに国際社会の中で栄誉あることだとされていたのである。

それではこの「クラブ」への入会(加盟)を認められるにはどうすれば良いのかというと、とどのつまり、2つの協定の基準に叶っているのかどうか、すなわちこれらの協定に加盟できるかどうかに求められるとされていた。その内の一つが「OECD環境協定」である。大気汚染や水質汚濁等について問題がないのかが、加盟希望国の政府の提出する公式データに基づき、厳密に審査された。そしてこれが筆者の担当だったというわけなのである。

そしてもう一つの条件、それが「OCED投資協定」の基準を満たしているかどうかなのであった。これについて担当していたのは、私より6年上と、8年上の文字どおり「武闘派」のキャリアの先輩男性2人であった。8年上の先輩はというと、常に大蔵省、あるいは通商産業省(当時)との電話での協議(合議(あいぎ)、と霞ヶ関では呼ぶ)を日夜繰り返し、怒号を浴びせていた印象がある。対する6年上の先輩は、フランス帰りであり、サスペンダー姿のおしゃれな男性であった。当然「怒号」などは飛ばさない。ただしその代わり、時に8年上の先輩より明らかに粘着質な様子で小声の「合議」を長時間繰り広げていたことを今でも良く思い出す。とにもかくにもこれら2人が課長から命じられたイシューの一つが、「米国が突如言い出したメキシコのOECD加盟について捌くこと」なのであった。我が方は当時、これまた今とは考えられないくらい、対米関係をそれなりに客観的な形でとらえる視点を許す雰囲気を保っていた(それは自ら英国研修であり、フランス語を解する文化人としても知られていた当時の経済局長O氏の放つ威光に一部には依っていたのかもしれない。)。事実この時にも、「メキシコを先進国クラブに入れたい」と米国が言ってきたからといって、ただ唯々諾々と認めたわけではないのである。我が国際機関第2課は「それでは我が国からは韓国の加盟を求めるべきではないか」との対案を提示するべく奔走していた。中国、という声も無かったわけではないのであるが、さすがにそこまでの経済発展を中国は見せていなかったのである。韓国政府は我が方からのアプローチに応じてきたものの、「加盟準備のための書類」として我が方から極秘裏に渡したOECD関連文書について、在京韓国大使館に手渡したところ、数週間して確認すると、「あ、あれは失くしてしまった」ととぼけたことを言われた、と件の6年上の先輩がぼやいていたことを今でも懐かしく思い出す。

筆者は「環境政策」の担当官として精査をし、省内でも意見をまとめ、環境庁(当時)にも考えを聴いた上で決裁書に「諾」とするサインをし、Tさんに返却した。8年上の先輩からは「原田くん、そんなもの、結論が先にありきなんだから、まじめに見る必要なんてないんだよ」と嘲笑交じりになじられたが、Tさんは感謝してくれた。やがて時は1994年に移り、春となる。筆者は在外研修に出る前の集中研修を受けることとなり、折角なじんできた国際機関第2課を後にした。そして風の便りで、「メキシコが無事に経済開発協力機構に加盟した」ことを異国の地で耳にした。

しかし、である。・・・事態は実のところ、ここから急転したのだ。

1994年に入り、しばらくすると急激な「円高ドル安」が我が国を襲った。1993年には1ドル=125円だったドル円レートが、1994年に入っても変動し続け、遂には史上初となる「1ドル=100円越えの円高」を達成してしまったからである。

1995年になるとさらに事態は悪化の一途を辿った。春になると1ドル=79円までをマークするに至り、自社さきがけ政権であった我が国は大打撃を食らうに至る。時の大蔵大臣であった武村正義(「ムーミンパパ」と呼ばれた政治家)は米国ワシントンD.C.に急派され、カウンターパートのサマーズ財務長官(当時)に面会し、「何とかならないか」と直談判したのであった。これに対してサマーズは肩をすくませて、こう答えるのみであったという。

「我々米国政府にもどうしてこうなっているのか分からないのだ。手の打ちようがない。今は静観するしかない。」

後にビナイン・ネグレクト(beneign neglect 優雅な看過)と呼ばれることとなるこの米国政府の態度により、円高ドル安は放置され、「平成バブル」を通じて我が国にため込まれたはずの国富は根こそぎ米国へと奪いさられることとなったのである。それでも米国は「なぜこうなっているのか分からない」「手の打ちようがない」と繰り返すのみであり、我が国は程なくしてアジア通貨経済危機(1997年)にも巻き込まれ、続く1998年に「ロシア債務危機」と連なる中で一気にデフレ縮小化、後に「失われた30年」と揶揄されることになる事態へと転落していくこととなる。

「世の中に決して偶然など無い。私は賭けても良い」(F.D. ローズヴェルトの言葉)

11日にリリースした音声レポート「週刊・原田武夫」(永久保存版)で詳述したとおり、「あの時」同様、「今=トランプ政権時代」も関税策の次にドル安円高策へと舵を切る以上、海の向こうの彼らは確実に「そうなるためのシナリオ」を詳細に描き、かつ着実に執行しているに違いないのである。今回もまた、こうした「第3国における債務危機パターン」を用いるかどうかは分からない。つまり第3国における債務危機が発生する様に仕向け、いざ発生したならば、国際金融秩序を守るであるとして、段階的に政策金利の引き下げを実施。結果として米国における金利が引き下がるとドルの選好度が他の主要国通貨、就中、対円で下がるため、急激なドル安が生じるという「あのやり方」である。今回仮にそうならないとしても、そうした「オンリー・イェスタディ(ONLY YESTERDAY)」に発動した彼らの仕掛けを今、まとめて振り返っておくことは大いに意味があるであろう。なぜならば、彼らは必ずや、より巧妙かつ「自然な」手をもって我が国に堆積してきた「国富」を強奪しに来るに違いないからである。

駆け出しの外交官であった筆者があの分厚い「決裁書」を手にした時、まさかその後に1ドル=79円などという強烈な事態が、他ならぬメキシコ債務危機を理由に生じるなど夢にも思わなかった。実はあの時、OECD投資協定に自国が叶っているとメキシコ政府が提出した政府公式統計そのものが真っ赤なウソであり、それを知った投資家たちが一斉に債務償還を求めたことから、あの大パニックが生じたのである。米国は優れたインテリジェンス能力を持った国家である。「そうなること」を知らなかったはずもないのだ。しかしそれでも「優雅に看過した」のである。なぜならば、そうすることによって1ドル=79円までの円高ドル安を実現し、平成バブルで脇が甘くなりつつ、国富を大量に抱え込んでいた我が国をいよいよ屠り、その富を強奪することが出来たからだ。

「トランプ為替誘導策」が発動されることをも念頭に置きつつ、我が方の石破茂政権では霞ヶ関の中で対策チームが結成されたと聞いた。だからこそ今、後衛の位置にあえて立っている筆者は思うのである。「今、この瞬間に彼らは確実にそれとは分からない形で仕掛けてきているはずだ」と。いよいよ、始まったのだ。彼らにとっては史上最大のショータイムが、そして我々日本勢にとっては生き残りをかけた「決戦」が。そのことを今、はっきりと記しておくことにしたい。

2025年4月13日 東京の寓居にて

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役会長CEO/グローバルAIストラテジスト

原田 武夫記す

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