「競合」の血気盛んなコンサルタント氏に物申す。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
ここに来て弊研究所のスタッフたちと共に、全国の企業様を訪問しているわけだが、その中で一つ、明らかに「これは変わったな」と強く感じる点がある。それはある種のそこはかとない危機感が閾値を超えたということである。そして弊研究所の提唱する「類推法」をカギとするリスク・マネジメントの提案を熱心に聞き、次々に採用し始めている。
弊研究所が「グローバル」と「組織戦略(human resource management, HRM)」を切り口に企業様に対して行っているのは広い意味でのリスク・マネジメントの普及である。正に文字どおり「備えあれば憂い無し」なのであって、これから起きることについて何らの予断を持つことなくイメージし、リーダーであればそのことを論理的にフォロワーに対して説明することでシェアし、組織の血肉としなければならない。そのためのお手伝いをしているのが弊研究所なのである。
そうした中、我がスタッフの一人が(ある意味とても勇気のいることだが)産業人財育成の「老舗」に対してここに来て訪問営業をかけたとの報告を受けた。弊研究所は形態としては営利法人(株式会社)である。それ自体は有限なマーケットの中で成果を奪い合う競合の一つに対して「道場破り」をするのは、ある意味自然な流れと言ってよい。
このスタッフからの報告によれば、その時、「競合」企業において対応してくれた複数名の人物たちの中でとりわけ血気盛んな向きからこんな言葉が出たのだという:
「ご説明は分かった。しかし貴研究所が産業人財育成、あるいは企業経営支援として行われている活動による目に見える成果が感じられない」
率直に言おう。私はこの報告を聞いて、「語るに落ちる」だなと痛感した。なぜならば我が国の産業人財育成においてもっとも軽視されてきたのが、弊研究所が重点的に行っているリスク・マネジメントとしての「心の準備(preparedness)」の涵養だったからだ。企業が営んでいることは総じて「事業戦略」「組織戦略」「財務戦略」に分かれるとされる。しかしそれらはいずれも、「思いどおりにならないこと、しかも突発的に脇腹を殴られるようなリスクが炸裂することでそうなること」が生じれば、元も子もないことなのである。つまりリスク・マネジメントとは企業という存在にとって全てに先立ち根源的なものであるというべきなのである。
他方でこれが厄介なのは「何も起きない」状態においては、「リスク・マネジメント」は無駄なのではないかという議論が必ず湧き上がってくる点にある。無論、企業は常に限られた資源しか持たず、明らかな無駄は許されない。そのため「今役に立っていないのならば資源をそれに割くべきではない」とどうしてもなってしまいがちなのである。
この傾向は我が国の企業においてとりわけ顕著である。「今起きていることの要因は何か」と問われると我が国のビジネス・パーソンはたちどころに様々な要因を列挙することが出来る。しかし「それではそれらが3時間後、3日後、3週間後、3か月後、そして3年後にはどうなっていますか」というとハタと立ち止まってしまうのが常なのだ。私たちニッポンのビジネス・パーソンの脳内には不思議と「時間軸」がないのである。体感的には、これはほぼ全員に当てはまることである。
おそらくこのことは我が国が共通の了解の多い、いわゆる「ハイコンテキスト社会」であることに依るのであろう。島国で共存共栄をしていくためには、共通の了解(と思っていること)についてはあえて口に出さず、物事には荒波を立てない方が良い。そしてその様にする中でつかみとった自らの「陣地」を今度は守ることにだけ専心すれば良いのである。そのため、そうした状態が変わることは全く前提にされないし、望まれないということになってくる。将来、その「陣地」が壊れる可能性があるなどと考えもしないし、また考えること自体が忌避すべきこととされるのだ。
その結果、「未来」に対して目は向けられないことになる。現在と比して「未来」には関心がないわけだから、“そのもの”としての「過去」にも関心がなくなる。「歴史」として語られるのはあくまでも現在そこにある「陣地」につながる都合のよい史実ばかりである。都合が悪く、ましてや現状の「陣地」が崩壊する可能性があることを示唆するような史実は完全に抹消されるのである。
その結果、我が国企業の現場レヴェルでは全くもってリスク・マネジメントは本当の意味において、行われてはいないのである。リスク・マネジメントを行うためには、まずもって予断を持つことなく、過去に起きた出来事の全てをありのまま知らなければならない。それと同時に今現在起きていることについても網羅的かつ効果的にリアルタイムで知らなければならないのである。その上で心の余裕を絶えず持ちつつ、未来を自由に想起するのである。以上が揃って始めて、「今後、わが社を襲う巨大なリスク」が見えて来、かつ「今後、我が国が得る巨大なチャンス」も見えて来るのである。
しばしば誤解されるのだがリスク・マネジメントとは「災難がやって来ることを騒ぎ立てること」ではない。そうではなくて、何もしなければ平衡を保っているはずの経済環境において何等かの作用が生じて状況が変わること、かつそれに対して今度は反作用が生じてあらためて状況が再び変わることを、あらかじめ察知し、それに対して攻守双方の観点から最適解を探し出すことを意味しているのだ。その意味で、(前述のとおり)リスク・マネジメントとは企業において行っていることの大前提であるというべきなのだ。これがなくては何も始まらない。
件の「競合」で我がスタッフに対応して下さった若き血気盛んなコンサルタント氏が、何故に「貴研究所の行っている産業人財育成の効果が見えない」と口に出してしまうのかといえば、これらコンサルタント氏はそうしたリスク・マネジメントを通じた環境分析の“後”に打つべき打ち手としての「フレームワーク」を丸暗記し、それを企業クライアントの個別具体的な状況に当てはめることを生業としているからだ。そのため、そこでは「すぐに成果=売り上げがあがること」が目標とされる。事実、それはそれできっと数字は上がってきているのであろう。
だが、残念ながらこれらコンサルタント氏らには見えていないことがあるのだ。それは「川下でいかに精巧な簗(やな)を構築し、待ち構えていたとしても、水源において水が枯渇し、あるいは上流において大雨となって濁流があふれてしまっては、一匹たりとも魚は獲れない」ということである。弊研究所が産業人財育成の現場で示しているような本当のリスク・マネジメントを抜きにしては、いかに聞こえがよく、また論理的そうに見える精緻なフレームワークを見せたとしても、全くもって無意味なのである。そして我がIISIAが企業様に対してご提供しているのは「まだ見ぬ世界においてリスクをあらかじめ極小化し、チャンスを強大化させる」ためのリスク・マネジメントなのだ。コンサルタント氏らがやっていることとは恐縮ながら「レヴェル」が違う。
つい最近、「経営コンサルタント」を名乗る虚妄の人士が世間を大いに騒がせたことがあった。同人にも無論、大いなる非があるわけだが、同時に「さわやかな見てくれ」や「その人がちょっと口にする耳障りの良いカタカナ単語」だけで“経営コンサルタント”を名乗らせ、まんまと騙されてしまった世間様の方にこそ大問題があるのではないか。私からすればリスク・マネジメントとは要するに民度の問題である。リーダーシップの問題である。しかしそうした本質論を知らず、また学ぶ気もないからこそ、似非ばかりが横行してしまう笑止な状態が続いてきたのだ。
だが、「遊びの時間」はまもなく終わる。木星にすらこの一両日“オーロラ”が観測されるほどの異常事態に陥っている状況下で本当のリスク・マネジメントを知らぬ企業組織はほどなくして生じる災禍の中で崩壊を余儀なくされるからだ。その意味で”その時“は近い。企業人としてのあなたは・・・”このこと“に果たして気づいているだろうか。
2016年7月3日 東京・仙石山にて
原田 武夫記す