裸婦像に描かれた久遠の女性(連載「美と心の旅」・その4)
フラヌールです。特別コラムニストとして連載「美と心の旅」の第四回をお届けさせていただきます。
先日、山種美術館で現在開催中の『村上華岳-京都画壇の画家たち-』展に行ってきました。
『裸婦図』が重要文化財として華岳の作品としては二点目に指定された記念となる特別展です。
『裸婦図』と聞くと思い出すのは、あらゆる時代で裸婦像を描くうえで基準となったティツィーノの『ウルビーノのヴィーナス』(1538年ウフィツィ美術館所蔵)です。
しかしこの絵のヴィーナスは、そのモデルとして高級娼婦や本作の依頼主の妻という説があげられるように、ヴィーナスという神聖な主題を掲げながらもそこに我々が見るのは、俗世に存在する女性の肉感的でリアリティ溢れる美しい裸体ではないでしょうか。現実の中にも神話と同価値の美が存在することを訴えかけるような官能的なこの絵をはじめ、マネやルノワールに至る裸婦像には、欧州の女性美の根底にあるエロスを感じます。
ティツィーノの『ウルビーノのヴィーナス』(1538年ウフィツィ美術館所蔵)
一方、日本において裸体画で最も有名なのは洋画家黒田清輝でしょう。欧州で絵画を学んだ黒田は、裸婦像を1895年の内国勧業博覧会に出品しました。初めて裸婦像を見た当時の日本人は、笑うか、『肝心なものが見えていない』と怒るかの反応が大半だったといいます。黒田の裸婦像出品を巡る混乱が、同時代を生きたフランス人ジョルジュ・ヴィゴーの風刺画からも伝わってきます。
ジョルジュ・ビゴー『日本におけるショッキング』1895年
日本画で二十世紀以前に描かれた『裸婦図』というものはさらに珍しく、私は今まで見る機会がありませんでした。
そんな初めての日本画『裸婦図』体験の機会を、今回の村上華岳展で得ました。淡泊な日本画の筆致と、削ぎ落とされた色彩、そして何よりその表情は『裸婦図』というより『観音菩薩像』と呼びたくなる絵です。エロスが主題の深層にあったこれまでの女性像とは一線を画した、非常に日本的かつ神仏的な要素を感じさせます。
黒田のような洋画家だけでなく、華岳と同じく京都画壇の同世代の日本画家たちも挙ってパリへ遊学した中で病弱だった華岳は生涯日本を出ることはありませんでした。しかし読書家で勉強熱心だった華岳は、レオナルド、ジョットー、アンジェリコのような西洋美術にも注目していました。あくまで日本画の伝統を継承しながらも、女性のポーズや装飾品、構図からは彼らの影響も感じられます。また、神秘的であるがゆえに性別を超えた美、あるいは中性的ともいえる美を感じるのは、モナリザに通じるものがあります。華岳が求めた「久遠の女性」という時間を超越した霊感的な存在を目の前にし、拝まずにはいられない気持ちになりました。
村上華岳『裸婦図』(1920年 山種根美術館所蔵)
私が初めて華岳の絵を見たのは東京国立近代美術館でした。『日高河清姫図』です。何とも陰鬱で薄気味悪い絵だなぁと当時感じたのを思い出します。どんよりした夜中、生気のない女が体をくねらせながら何かから逃げるように急ぐ姿から、切迫した焦燥感が伝わってきます。紀伊国牟婁郡の伝説上の狂女清姫をモデルにしており、道成寺の僧に一目ぼれした清姫は、僧に約束を破られ逃げられて、怒りと悲しさに震えながら、執念深く僧を追っていく様子が描かれています。この後、日高川に飛び込んだ清姫は大蛇となり、僧を追い続けます。そのような背景を知り得ずとも、絵画という幻想的空間においてこの絵を描いた画家は相当暗い精神の持ち主だったに違いないと当時確信しました。
日高河清姫図(1919年)(東京国立近代美術館所蔵、重要文化財)
さて華岳はどのようなひとだったのでしょうか。生涯に多くの観音菩薩像、釈迦像といった宗教絵画を描いた華岳は敬虔な仏教徒でした。彼の書いた『画論』からはその精神性を巡る苦悩の経過が記されています。
「芸術と宗教とは同じものであらねばならぬ」*1という彼の切実な願望は、『裸婦像』において十分果たされていると私は思います。彼の描いた久遠の女性はまさしく、宗教的主題に美しく調和しています。
一方で、「ドラクロアのように、生々しき、人間の苦患も描きたい。」*1と、彼の心をとらえた暗いものへの志向は、『日高河清姫図』で、醜いまでの人間のむき出しの本能を表すかのような清姫の姿に見て取ることができるでしょう。
しかし実際は、「芸術活動は、自らの思想や心情を不本意にも捻じ曲げざるを得ない妄執の道である」という懐疑が、芸術活動と宗教的生活の間で彼を悩まし続けたようです。
芸術とはなんでせう、私はしりません。私にはこの頃またすっかり解らなくなってしまひました。しかし私にとって画家であることなどはどうでもいゝのです。(中略)画家であるよりも或は宗教家であるよりも前に、何よりも前に私は人間でありたいと思います。
私にとって画家であることなどはどうでもいゝのです。(中略)
人間が生きてゐる目的は何にあるか私は未だはっきり言ふことは出来ませんが一番大切なことは世界の本体を掴み宇宙の真諦に達することにあると信じます。(村上華岳『画論』)
人間華岳としての、深い苦悩、葛藤を知った時、初めて出会ったとき背筋がゾッとするような気味悪さを覚えたあの清姫の絵に、華岳が提示した「人間とは何か」という華岳からの問いかけを受け取ります。『裸婦図』で、絹本に描かれた視覚の対象としての美を超えた、描かれた魂の美、つまり見えざる本質的な美を感じます。
村上華岳展は12月23日まで山種美術館にて開催中です。華岳の求めた「久遠の女性」を一目見たい方は是非足をお運びになってくださいね。
*1 華岳『画論』
【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.