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「8月ショック」という悪夢(その1)~「ニクソン・ショック」の再来か~(IISIA研究員レポート Vol.114)

本年(2023年)6月1日、米連邦議会上院は政府の債務上限の適用を一時的に停止する法案を可決し、米政府の債務不履行(デフォルト)は直前で回避された。しかし、これは同時に「利上げ」に向けた環境が整ったことも意味している。

米連邦準備制度理事会(FRB)は6月14日~15日に開催した連邦公開市場委員会(FOMC)で11会合ぶりに利上げを見送り、政策金利を年5~5.25パーセントに据え置くことを決めたものの、同時に公表した会合参加者の政策金利見通しでは、0.25パーセントの幅で年末までにあと2回の利上げが示唆されている。

FOMCは6週間に一回、年8回開催される中で、今年(2023年)はあと4回開催される:

  • 第5回FOMC:7月26日〜7月27日
  • 第6回FOMC:9月20日〜9月21日
  • 第7回FOMC:11月1日〜11月2日
  • 第8回FOMC:12月13日〜12月14日

これらFOMCにおいて米国勢における金利引き上げが決断されることで、「金融危機」が再び醸成される可能性は依然として残っているのである。

とりわけ、8月は夏休み休暇をとる投資家が多く、市場参加者が減る傾向にあり、「夏枯れ相場」とも呼ばれる中で、これまでマーケットとそれを取り巻く国内外情勢においてもネガティヴなイヴェントが発生したという事例が少なくない。

主な「8月ショック」とも言えるイヴェントは以下のとおりである:

  • 1914年8月:サラエヴォ事件(6月28日)の勃発後、「7月危機」と呼ばれる欧州勢による外交交渉が決裂し、8月1日、ドイツ勢がロシア勢に宣戦布告。同時に普仏戦争の復讐に燃えていたフランス勢も総動員を開始
  • 1941年8月:チャーチル英首相とローズヴェルト米大統領が大西洋憲章を発表
  • 1945年8月:終戦の日
  • 1971年8月:ニクソン米大統領が金ドル兌換を停止(ニクソン・ショック)
  • 1974年8月:ウォーターゲート事件の責任をとってニクソン米大統領が辞任
  • 1982年8月:メキシコ債務危機の発生
  • 1990年8月:イラク軍がクウェート勢に侵攻し、湾岸戦争が勃発
  • 1991年8月:ソ連8月クーデターの勃発。守旧派がゴルバチョフ大統領を軟禁し一時政権を掌握するが、ボリス・エリツィン大統領の抵抗により失敗
  • 1998年8月:ロシア財政危機の勃発
  • 2007年8月:フランス勢の金融大手BNPパリバ傘下のファンドが、投資家からの解約を凍結すると発表(パリバ・ショック)
  • 2015年8月:中国人民銀行が突如、人民元を切り下げる(人民元ショック)
  • 2018年8月:米国人牧師の拘束を巡る外交問題をきっかけに、米国勢が対トルコ関税を引き上げる(トルコ・ショック)
  • 2019年8月:トランプ米政権が対中制裁を強化し、米中貿易摩擦が激化したことを背景として、米債券市場で「逆イールド」が発生
  • 2020年8月:安倍総理大臣の辞任報道により、日経平均株価が急落

(図表:湾岸戦争にてクウェート勢を飛行する米空軍のF-15・F-16戦闘機)

(出典:Wikipedia

以上のように、地政学リスクから金融リスクまで、これまで8月には様々なイヴェントが起こっていることがわかる。中でも、上記のイヴェントの中で、2度もその名前が出てきた人物がいる。リチャード・ニクソン米大統領である。「8月ショック」とでも言うべきイヴェントが起こるとすれば、そのトリガーとなるものを考える上で外せないのが、やはり「ニクソン・ショック」であろう。

「ニクソン・ショック」とは、ニクソン米大統領が発表した既存の世界秩序を変革する2つの大きな方針転換のことを指す。

1つ目のショックは、去る1971年7月15日に発表されたニクソン大統領の訪中宣言である。当時、米ソ冷戦下において、米国勢はヴェトナム戦争における「名誉ある撤退」を模索し始めていた。そうした中で中ソ対立が発生した。米国勢としては、ここにその解決の糸口を見出したのである。すなわち、中国敵視政策を改め米中接近を図ることで、東側の亀裂に食い込み、以て冷戦構造の再編成を企図したのである。

そして、同宣言前の7月9日には、ニクソン外交を取り仕切っていた国家安全保障問題担当大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーが北京入りして、周恩来首相と会談、両国関係の正常化を模索し、ニクソン大統領自身が中国勢を訪問するとの合意を取り付けたのである。もっとも、さらに裏の背景としては、キッシンジャーが交流の深かったロックフェラー家の3代目当主デイヴィッド・ロックフェラーがチェース・マンハッタン銀行の中国勢への進出を画策していたという事情もある(参考)。

(図表:北京で周恩来首相(右)と面会するデイヴィッド・ロックフェラー(左))

(出典:South China Morning Post

その後、ニクソンは予定通り、1972年2月21日に訪中し、米大統領として初めて中国首脳の毛沢東と握手をして、20年間にわたる中国敵視政策を転換させた。

こうした米中勢の動きに一番驚いたのは我が国であった。ニクソンの訪中宣言も日本政府(佐藤栄作内閣)に知らされたのは、そのわずか数十分前であった。また事前にこうした情報をキャッチできなかったことは政権批判へと転じ、佐藤内閣は1972年7月に退陣した。次いで総理に就任した田中角栄は、同年9月、日本外交の遅れを取り戻すがごとく、首相自ら訪中し、日中国交回復を急ぐこととなった。

(図表:歓迎夕食会に臨む田中角栄首相(左)と周恩来首相(右))

(出典:共同通信社

2つ目のショックとは、ニクソンの訪中宣言からわずか1か月後の1971年8月15日に発表された、金ドル兌換停止の宣言である。冷戦による軍事費の増大、さらに復興を成し遂げた西欧諸国勢や我が国の経済的台頭を背景に、1960年代には米国経済がその優位性を失い、もはや金によって裏打ちされた米ドルが世界経済を支えるというブレトン・ウッズ体制を維持することが不可能になったことが背景としてある。

「8月15日」は我が国にとっては忘れがたい敗戦の日であるが、この1971年の8月15日も、ある意味では「2度目の敗戦」ともいえる出来事であった。なぜならば、1949年にドッジ・ラインによって定められた1ドル360円という「超円安」の単一為替レートによって支えられていた我が国の輸出産業はこれにより大きく動揺し、高度経済成長の時代から低成長時代への突入を余儀なくされたためである。

では、我が国にとって「耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ」日である「8月15日」にこのような宣言を発出したのは偶然であるのか。ニクソン大統領のスピーチライターを務めたウィリアム・サファイアの著書“Before the Fall: An Inside View of the Pre-Watergate White House” には、ニクソン大統領とコナリー財務長官の間では金ドル兌換停止を含む政策変更の大筋が「60日も前から決まっていた」との記述もあるのだ(参考)。谷口智彦・元内閣官房参与はこのことについて「米日双方におけるこの集合的記憶を助けに借りようとする意図が、大統領の胸中、あったと考えることはできないだろうか」と述べている(参考)。

(図表:金ドル兌換の停止を発表するニクソン大統領)

(出典:バロンズ・ダイジェスト

実際、ニクソンの演説の一節には、第二次世界大戦における勝者はどちらであるのかを再確認させるような箇所も垣間見られる。たとえば、以下のようなものだ(参考):

At the end of World War II the economies of the major industrial nations of Europe and Asia were shattered. To help them get on their feet and to protect their freedom, the United States has provided over the past 25 years $143 billion in foreign aid. That was the right thing for us to do.

(第二次世界大戦の終結時、欧州勢とアジア勢の主要工業国の経済は粉々に打ち砕かれていた。彼らが立ち直るのを助け、自由を守るために、米国勢は過去25年間に1430億ドルの対外援助を行った。それは私たちにとって正しいことであった。)

Today, largely with our help, they have regained their vitality. They have become our strong competitors, and we welcome their success. But now that other nations are economically strong, the time has come for them to bear their fair share of the burden of defending freedom around the world. The time has come for exchange rates to be set straight and for the major nations to compete as equals. There is no longer any need for the United States to compete with one hand tied behind her back.

(今日、主に我々の援助によって、彼らは活力を取り戻している。彼らは我々の強力な競争相手となり、我々は彼らの成功を歓迎している。しかし、他の国々が経済的に強くなった今、世界中の自由を守るために、彼らが公平な負担を負うべきときが為替レートを正し、主要国が対等に競争する時が来たのだ。もはや米国勢が片手を縛って競争する必要はない。)

ニクソン・ショックが我が国を狙い撃ちにしていたということは、その日付もさることながら、その後の為替レートをみても一目瞭然である。

(図表:「ニクソン・ショック」により急激に進んだ円高)

(出典:Wikipedia

金ドル兌換停止は、我が国のみならず、世界の金融秩序にも衝撃を与えた。とりわけ、資本主義国では不況と「狂乱物価」ともいわれるインフレが同時に進むスタグフレーションが加速したため、ケインズ主義的な裁量的経済政策の転換を迫られ、市場重視のマネタリズムが台頭することとなった。まさに、レーガン、サッチャー政権を始めとした規制緩和重視の新自由主義への転換点であったのだ。

このように、「ニクソン・ショック」では、米中和解という国際政治の再編と金融秩序の転換という2つのショックが世界を襲ったことを踏まえると、「8月ショック」の展開可能性もより解像度を増すのではないか。

すなわち、現下の情勢に照らし合わせると、国際政治という意味では「米中衝突」から「米中和解」への転換、金融秩序という意味では、暗号資産(仮想通貨)を巡る規制の転換である。たとえば、人工知能(AI)の分野で先行しようと米国勢と中国勢の競争が激化しているが、「チャットGPT」を開発した米オープンAIのサム・アルトマン最高経営責任者(CEO)は「リスク軽減に向け米中研究者らが協力していく重要性」を強調している(参考)。生成系AIをめぐり米中勢で何らかの合意がもたらされるとしたら、それはかつて我が国を頭越しに飛び越え「米中和解」が成立した「ニクソン・ショック」のまさに形を変えた再来と言えよう。(つづく)

グローバル・インテリジェンス・グループ リサーチャー
原田 大靖 記す

*本コラム内にある見解は、弊研究所の一致した見解ではなく、執筆者個人の見解を示すものである。

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