長袖舞えど、会議は進まず
3月末のリリースに向けて絶賛プロジェクト炎上中です。
最近は開発現場全員が無理と判断した後に決定される、その無理なままの「締め切り」とは一体いかなる存在なのか?という哲学的思考に取り組んでいます。まぁ大人の事情というやつなのでしょう。
先日、こちらの数少ない友人であるエストニア人女性の誕生日パーティーにお呼ばれしてきました。(今回の写真は全く関係ないですが、2月24日のエストニア独立記念日のものです。エストニアのお誕生日みたいなものということで…)
若干急な誘いであったことと、当然ですが参加者中に知り合いが彼女しかいないので行く前はちょっと不安だったのですが、実際はチームで脱出ゲームをしたり、エストニアの90年代ミュージックを聞いたりとそれなりに楽しめました。
彼女とは現地の外国人が集まるイベントで知り合い(彼女自身はイタリアで数年仕事をしていたため、こうしたイベントで外国人と知り合うのが楽しいそうです)今回会場になった脱出ゲーム兼カフェ・バーのオーナーもそこで知り合ったアルメニア人です。そのイベントでは他にも現在進行系でヨーロッパを転々としているスペイン人エンジニアや、酒が回ると突然イタリア語で詩の朗読を始める繊細なイタリア人と、中々に面白い人たちに出会えました。
イベントは定期的に開かれており、私も今までに3回ほど参加しています。
こうしたいい結果に終わるイベントもありますし、酔っぱらいに絡まれて逃げるように帰るときもあります。ニューヨークではミートアップがとにかくたくさんあったのでちょこちょこ顔を出しましたが、やはり今でも連絡を取り合っている友人に出会えた日もあれば、なんだかつまらない気分でさっさと帰る日もありました。
当たりハズレはありますが、こうして多くの新しい人と交流ができ、非常にインスパイアされる楽しいひととき…
なんてことは私に限っては全くありません。
グラス片手に全く見知らぬ外国人同士が集まって歓談するという、とてつもないコミュニケーション難易度の高さを誇る苦行の地です。引きこもりがちなオタク属性では気力も体力が持ちません。
コミュニケーション能力、所謂「コミュ力」の定義には諸説あるかと思いますが、こうしたパーティーの場であちこちのグループをスマートかつ鮮やかに移動し、笑い語らい、そして去っていく。美しい蝶々のようなそれを私は本当にコミュ力があると定義したい。それに従うと私はせいぜい青虫が関の山であり、ポテンシャルがある分それさえ言い過ぎな感も否めません。
ニューヨークではインターン先企業の参加したセミナーや、その後のパーティーでも同じような経験をしました。その時は名刺の交換やビジネスチャンスを探すという目的がはっきりしている分、まだやりやすかったように思います。
およそ2,3人程度のグループが多く、ある程度の自己紹介と名刺交換が終わればさっと別れ、次の人に話しかけるというテンポが確立されていましたし、参加者同士で紹介し合うということもままありました。
エレベーターピッチという言葉が一時期随分流行りましたが、まさにあれと同じでスピード勝負の部分はあるものの、事前によく準備することが可能ですし、会話が一段落すれば別れればよいのでわかりやすいです。
一方ニューヨークのミートアップは数が多い分かなりジャンルが細分化されているので、これもある程度内容が事前につかめます。そもそも各々が興味のある分野に参加するため共通の話題に事欠きませんし、日本でも趣味を通じたオフ会を何度か経験している私にはそれほど苦ではありませんでした。
これらに比べてエストニアでのこうしたイベントは、常にその場に応じた臨機応変なコミュニケーション能力が高度に要求されるさながら小戦場です。
今現在この場にいるという意外にほぼ共通点もなく、これといって強い目的もない他人同士が緩やかに固まっている中に突然登場し、混み合うおしゃれなバーからドリンクを受取り、適当なグループに飛び込み会話を楽しむ。グループの緩やかな消滅に乗り遅れるとぽつねんとイベント会場の真ん中に取り残されることになるので、去り際の判断にも気を抜けません。毎回出かける前に胃がキリキリしてくる勢いです。
ならお前は何が楽しくてそんな場に行っているんだと思われそうですが、まぁぶっちゃけさほど楽しくないですしできるなら家でアニメでも見ていたいです。それでも時折こうやってその後に続く友人ができることもありますし、もしかしたらいつどこぞの王侯貴族に嫁入りしてこういったスキルが必要になるかもわかりませんし。
というのは冗談ですが、袖振り合うもなんとやら、実際今まで人のご縁に助けられてばかりですし、せっかくならば大いに袖はためかせて出歩いとくべきかなとも思うわけです。
散々書いてきましたが、これはあくまで私の場合であり、中には軽やかにこうした交流を楽しめる方も多くいらっしゃるでしょう。そういった方には是非今後とも華やかに活躍していただきたいです。
ただ、こちらでサマースクールに参加したときも似たようなオープニングセレモニーがあったのですが、1年生2年生といった若い学部学生がほとんどであるせいか、割合手持ち無沙汰になっている人も散見され、少し安心しました。欧米人のコミュ力すっごーい!ではなく、こういうのはある程度場慣れと一種の訓練なのだと思います。そもそもいつの時代も社交界で生き抜いていくのは大変な苦労だったではないですか。袖合わせるどころかマリー・アントワネットでさえ悔し涙に袖を濡らしかねない世界を、やんごとなきに程遠い私ごときが気軽に楽しもうなんて思うのが根本的に間違いなのです。
元々幕末や明治時代、ろくな情報も言語能力も持たず欧米に勢い渡った日本人留学生や外交官には尊敬の念しか抱いていませんでしたが、勉学や交渉の場のような踏ん張りどころだけではなく、一見華やかなパーティーでもこんな気の抜けない苦行(あくまで私の意見)にほおりこまれていたかと思うと、更に胸を衝く思いです。アジア人への偏見も今よりよほど多くあったでしょう。それに比べれば私の異文化交流パーティーごっこなんて気楽なものです。
と、毎回自分を奮い立たせています。歴史に学ぶことは多いのです。
余談ですが、そんな明治当時の欧州社交界、とくにフランス界隈において西園寺公望は大変、ご婦人方からも人気があったそうです。曰く話(フランス語を含め)も上手く身のこなしも大変優雅であったと。やっぱり、最低でも貴族に生まれ直さないとこの苦労は収まらないのかもしれません。
【プロフィール】
楼 まりあ
神戸・東京・マニラのオフショア開発を繋ぐブリッジSEとして、そして東欧での新拠点をリサーチするため現在エストニア現地企業で外部契約社員としてタリンで在宅勤務。大学時代、マニラオフィスのオープンスタッフとして1年間マニラに滞在。NYでインターン経験有。
東京大学経済学部卒。