痛みを芸術へ~メキシコの女性画家、フリーダカーロの生家を訪れて~ - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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痛みを芸術へ~メキシコの女性画家、フリーダカーロの生家を訪れて~

特別コラムニストのふらぬーるです。

GWは如何お過ごしでしたでしょうか。

私は、大学のカリキュラムの都合で四月半ばも季節外れの休暇があったのでここ一カ月ほどほとんど都内におらず、移動の日々でした。

先月はというと、二週間ほどメキシコ・キューバを一人旅してきました。

大学二年生の時に友人と南米を一カ月間バックパッカー旅行して以来、久しぶりのラテンアメリカです。前回はスペイン語が出来る友人と一緒でしたが、今回は女一人旅。心配されつつも、(ちょっとしたトラブルはあったものの、それは旅につきものとして?)一人だからこそ可能だった体験もできた刺激的な旅となりました。

今回のコラムでは、メキシコが生んだ女性画家、フリーダ・カーロを取り上げます。

この眉毛のつながった自画像に見覚えがある方もいらっしゃるかもしれません。

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私も旅行前は、コミカルな絵を描くメキシコ人画家がいるというくらいの認識でした。実際のフリーダの写真を見て、立派な眉毛と口ひげは決して誇張ではなく、本当に生やしていたのかと驚きました。

20160510上田様2

意志の強さが滲み出ている不思議な魅力を持った女性ですが、彼女の絵画はなぜこんなにも痛烈にグロテスクな部分までえぐり出してくるのだろうかというのが、彼女の生涯について知らなかった当初の感想でした。

しかし、成田からメキシコシティ行きの機内で、フリーダ・カーロの痛みに満ちた壮絶な人生を知り、彼女の生家、そして彼女の夫であり、1910年のメキシコ革命後のメキシコ壁画運動の中心人物ディエゴ・リベラの作品が掲げられているメキシコ自治大学をぜひ訪れたくなったのです。

 

閑静な住宅地に突如として現れる青い家が、フリーダの亡き後ディエゴが美術館として開放したフリーダの生家です。

メキシコは原色の街。住宅もピンク、イエロー、グリーンと鮮やかな色ばかりですが、その中でも一際目立つ綺麗な青色でした。

20160510上田様3

フリーダ・カーロは、ユダヤ系ドイツ人の父とインディオの血を引くメキシコ人の母から1907年に生まれ、この青い家で育ちました。

6歳の時から小児麻痺で右足に障害を抱えたフリーダの人生は、その後もずっと痛みとの戦いでした。

メキシコ最難関の国立予科高等学校へ進学した彼女ですが、共に学生運動をし、恋に落ちた男子とバスに乗っているときに、交通事故に合います。17か所を骨折する瀕死の重傷で、脊椎や骨盤は変形し、以後死ぬまでに28個ものコルセットをつけることになります。(下はフリーダが実際に着用していたコルセットの一部。)

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それでも、両親に励まされ自画像を描き続けます。

その後、国立宮殿などで壁画を手掛けていたディエゴ・リベラとその制作現場に通っていたフリーダは互いに惹かれ合い、フリーダ22歳、ディエゴ42歳の時に結婚します。やがて妊娠するフリーダですが、事故で変形した骨盤は耐えられず流産してしまいます。この時の身体的、心的苦しみを描いたのが下の絵『ヘンリー・フォード病院』です。

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その後数回にわたり妊娠するものの、全て流産してしまったフリーダの母性への憧れ、そしてそれを可能にしない身体への絶望が痛いほど伝わってきます。生家のアトリエには、人体解剖図や女性器、胎児の模型なども遺されていました。

ディエゴとの結婚生活も波乱に満ちたものでした。ディエゴは派手な女性関係を繰り返しますが、なんとフリーダの妹とも関係を持ってしまいます。傷ついたフリーダがこのときの心象を描いたのが『二人のフリーダ』です。右が結婚まもないときのフリーダ、左が二人の不信に傷つき血を滴らせているフリーダです。身に降りかかる数々の苦難を絵画に消化し、素晴らしい作品を作り上げたフリーダですが、決して弱音や怒りを周囲に露わにすることはなかったといいます。

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浮気を繰り返すディエゴに反目するかのように、フリーダも彫刻家イサム・ノグチや匿っていたトロツキーなどと浮世を流しており、大きなハンディキャップを抱えながらも常に積極的でおしゃれで魅力的な女性でした。

彼女は画家としてだけでなく、非常にファッショナブルだった人物として有名です。フリーダはいつもメキシコの美しい伝統衣装やアクセサリーで着飾り、特に母親の出身であるオアハカ州の衣装を好んで着ていました。事故やその後の病気によりアンバランスとなった身体に合う特注の靴、洋服を身に着けていました。生きるためになくてはならないコルセットはもはや自分の身体の一部であり、ペイントや刺繍などを施しています。彼女のファッションはメキシコへのオマージュでもあり、彼女の存在を主張するものでもありました。

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遺品は大切に保管され、美術館でその一部を見ることが出来ます。最後の展示では、フリーダのコルセットやファッションからインスピレーションを得た川久保玲(コムデギャルソンのデザイナー)やジャンポールゴルチエのドレスが飾られていました。

壊疽に侵され片足を切断した後、肺塞栓症で43歳という若さで亡くなったフリーダ・カーロ。こんなに苦痛に耐えた彼女が最後に描いた絵は『VIVA DA VIDA』(人生万歳!)と記されたスイカの絵でした。苦痛をテーマに描き続けた画家が最後に描いたこの明るい絵を見ると、フリーダが喝を入れてくれるようで、強い自分になれる気がします。

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【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

 

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