映画的な演劇の成功~アラン・レネ監督を偲んで~
おはようございます、特別コラムニストのふらぬーるです。
本日は、演劇映画の傑作を遺したアラン・レネ監督を取り上げます。
彼は二年前の今日、三月一日に九一歳で亡くなられています。
初期には『ゲルニカ』や『ゴーガン』など絵画に関する映画、フランス政府の植民地政策を批判的に描いた『彫刻もまた死す』、そしてナチスによるアウシュヴィッツ強制収容所が舞台の『夜と霧』を制作していました。晩年は、小説や戯曲の映画化を数多く手がけ、作風もコメディやミュージカルなど喜劇に変わっていった、興味深い監督です。
彼の代表作品『二十四時間の情事(仏題: Hiroshima, mon amour, 1959, 脚本はマルグリット・デュラス)』はご存知の方も多いでしょうか。
フランスから広島へ映画のロケに訪れたフランス人女優と、現地で知り合い深い仲になった日本人男性、二人の会話と間に挟まれる戦争の映像、そして哀愁漂う音楽は、シンプルで美しく今見ても前衛的です。戦争を背景に辛い過去を持つ二人のセリフは痛烈に耳に残り、レネ監督が提示する忘却というテーマについて考えさせられる傑作でした。
しかし、彼の作品のDVDは現在でも渋谷のTSUTAYAでも数本しか置いていませんし、そもそも日本語字幕のつけられていないものがほとんどです。
ヌーヴェル・ヴァーグの中でもトリュフォーやゴダールは、雑誌でも頻繁に特集が組まれますが、左岸派(ドキュメンタリーが多い)のクリス・マルケル、アニエス・ヴァルダやアラン・レネはあまり注目を浴びていないのが実情のようです。今後、彼らの作品が本邦でも入手しやすくなればよいのですが。(マルケルの『Sans Soleil』、ヴァルダの『アニエスの浜辺』などもいかにもフランス的、そして前衛的で面白いので気になる方はぜひ手に取ってみてください。)
さて最近のレネの作品『6つの心(仏題:Cœurs, 2006)』は、パリに生きる孤独な6人の交差する人生を描いた人間ドラマで、元になったのはイギリスの劇作家アラン・エイクボーンの戯曲「Private Fears in Public Places」です。(アラン・エイクボーンは欧州で非常に高名な劇作家ですが、残念ながら日本で公に演出されたことはありません)
この映画、まさに演劇的といえばよいのでしょうか。登場人物は、題名通り6人のみ。舞台は、アパートや仕事場、行きつけのバーといったわずか数か所での密室劇です。
演劇は、観客を目の前に生身の俳優とスタッフが直接提示するものですから、もちろん空間(セット)に制限があります。対して映画は、空間、背景(自然、もの、大衆)の無限性があり、スクリーンではそれらが人間と同程度に物語る(人間がいなくても映画は可能)ことが可能になります。
レネ監督は、わざと映画に演劇の制限を課しながらも、映画の手法でしか実現しえない、カメラワークや背景の挿入を入れることで、見事に映画的な演劇を仕上げました。
演劇映画について、『カイエ・デュ・シネマ』の創刊者である、フランスの映画批評家アンドレ・バザン(1918-58)は、論考『映画とは何か』で、20世紀初頭からあったもののそれらは単なる撮影された演劇であり、『恐るべき子どもたち』(ジャン・コクトー,1948)や『ハムレット』(ローレンス・オリヴィエ,1948)の成功例を待ってやっと、どんな戯曲も映画化できるといえるようになったといいます。演劇と映画の対立を、存在感という範疇ではなく、演劇における心理学の問題として捉えられたからこそ演劇映画は発展できたのだとも。
映画は演劇におけるような、俳優との一体感を観客にもたらすことはできないけれども、巧みな演出によって、演劇のせりふを映画の背景にもってくることによって、せりふのもつ意味や効力を保たせることが出来きます。
逆に、ある種の古典的な戯曲を演劇的かつ自然に演出することは、もはや映画によってのみ可能なのかもしれません。
先日観劇した両国のシアターΧでのラシーヌの悲劇『フェードル』(劇団キンダースペース)はまさに、そんなことを考えてさせられる体験でした。
劇は、ところどころ現代人の恋模様が場面挿入されるものの、セリフや舞台装置などはオリジナルの『フェードル』に忠実なものです。俳優陣の熱意は十分に伝わってくる好演だったものの、あまりにも長々しく難しいせりふに役者はかなりの回数、かんでしまっていました。かまない場合も、何やら危なっかしく、観客のこちらが「あぁ、長いけどちゃんと言い終えられるかな、覚えているかな~」と失礼な心配をしてしまいました。ですがそんな心配をしてしまったら、もはや演劇のリアル性は感じられず、観客は舞台上と同化するどころではなくなります。
演劇のエネルギー源である俳優の身体的存在がセリフを消化できなかったという現象なのでしょう。フェードルのような古典劇を忠実に上演するには、セリフの文体や言葉づかいを身体にたたきこめる熟練した技術が俳優に求められます。それは不可能ならば、映像をもって人間の代わりにする試みである、演劇映画の勝算の方が高くなるのでしょう。
アラン・レネのような素晴らしい演劇映画の製作がますます盛んになってきていることを喜ぶと同時に、演劇界の人間の育成を応援したいと思うこの頃です。
【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.