我、志布志で何と見えしか (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
先月(4月)24から26日、鹿児島の霧島から志布志、そして宮崎まで駆け足で巡ってきた。目的はただ一つ、我が国の「始源」を現地で探るためである。ここに来ての急激な円高・ドル安にも示されているとおり、明らかに従来の世界システムはその根底から変容し始めている。それではこれからどうなるのかを考えるにあたってカギとなるのは何かと考えた時に気付くのは、我が国と華僑・華人ネットワークとの「結節点」の再浮上なのではないかというのが卑見なのである。誤解無きようあえて申し上げるが、これは我が国と「中華人民共和国」とうい意味での中国との関係性強化を意味しているのではない。そうではなくて、東アジアにおいて元来的な人的ネットワークが実は維持されてきていること、そしてさらにはそれが改めて浮上してくることをどの様に示すことが出来るのかが、私の現下の最大の関心事項なのである。
そう考えた時、私の脳裏に浮かんだのが「ヒルコ」であった。言わずと知れたアマテラスの兄弟姉妹の一人であり、日本書記に記された神の一人である。イザナギ・イザナミによって大変可愛がられたが生まれながらの歩行障害を負っており、だから海に流されたことになっている。これ自体大変驚きな記述なのであるが、紀記研究家である戸矢学によればむしろこれは我が国からの出航ではなく、我が国への「渡来」の可能性を示唆しているのだという。つまり「ヒルコ」は大陸と我が国をブリッジする存在なのではないかというのである。そして我が国最南端の「ヒルコ神社」は鹿児島・隼人にあるのである。鹿児島神宮からほど近いうっそうとした山林の中にある「蛭児神社」を今回の旅程においてもまずは目途とした。
しかし「そうした旅に出ようと考えている」旨を先達に述べたところ、こうご指南を受けたのである。
「そうしたことに関心があるならばむしろ志布志の夏井海岸まで行ってごらんなさい。神武東征の際に最初に停泊したのは夏井だという碑があります。それ以外にも郷土史料が現地にはあるので、それを見れば我が国の”始源“についての様々な発見を得ることになるでしょう」
現代歴史学において「神武東征」、すなわち皇統において最初の天皇となった「神武天皇」による我が国西半分の征服プロセスは架空の出来事であるとなっている。しかもそれに続く八代の天皇はいずれも「史料がないため不存在」ということにされており、「第10代崇神天皇からは存在が確認出来る」という風に学校では教わるのである。とりわけ戦前期の教育を「天皇ファシズム」というレッテルで総括しようとする戦後教育においてこの傾向は特徴的であり、現在の平和台公園にある「八紘一宇」のシンボルと共にその麓の宮崎神宮で祀られている神武天皇は「不存在かつ危険思想の権化」とされ、忌避されてきたのだ。
だが、私は高校日本史の世界でさらりと語られるに過ぎないこれらの記述が前からどうしても気になって仕方が無かったのである。しかも事ここに及ぶと、我が国の本当の”権力の中心“がいよいよ激変の時を迎える現状において、その原点を把握せずして何も前に進むことは出来ないのである。そこで私は想ったのである、「これは”何でも見てやろう“の精神を発揮すべきところである」と。そして迷わず、季節外れではあるが鹿児島・志布志にある夏井海岸へと向かったのであった。
「神武東征」、すなわち後に神武天皇として即位することになる“神日本磐余彥天皇”が父祖の地から出立し、東へとその版図を拡大していく様子について、日本書記は次のように記している(註:句点は便宜的に付けたもの):
“神日本磐余彥天皇、諱彥火火出見、彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。母曰玉依姬、海童之少女也。天皇生而明達、意礭如也、年十五立爲太子。長而娶日向國吾田邑吾平津媛、爲妃、生手硏耳命。
及年卌五歲、謂諸兄及子等曰「昔我天神、高皇産靈尊・大日孁尊、舉此豐葦原瑞穗國而授我天祖彥火瓊々杵尊。於是火瓊々杵尊、闢天關披雲路、驅仙蹕以戻止。是時、運屬鴻荒、時鍾草昧、故蒙以養正、治此西偏。皇祖皇考、乃神乃聖、積慶重暉、多歷年所。自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。厥飛降者、謂是饒速日歟。何不就而都之乎。」諸皇子對曰「理實灼然、我亦恆以爲念。宜早行之。」是年也、太歲甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特賜名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。
十有一月丙戌朔甲午、天皇至筑紫國岡水門。“
下線部を読めばたちどころに分かるとおり、実は神武天皇がどこから出発したのかについては日本書記において一切記述が無いのである。
これに対して皇室の私家版の史書と長きにわたってさられてきた古事記においてはどうかというと次のような下りがある(註:同じく句点は便宜的に付けたもの):
“神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於筑紫之岡田宮一年坐。”
要するに「一向は日向の国を出発した」というわけである。日本書記に比べるとやや詳しいが、それでも一体、日向のどこから出発したのかはこれでもわからないのである。それに古代における「正史」であった日本書記において一切記述が無いのであるから、元来はこの「日向から出発した」ということが真実であるのかも、誰も確証を持つことが出来ないのが実態なのだ。
話を今回の志布志行に戻す。―――件の先達からは「志布志ではダグリ岬にある国民宿舎に泊まること。夏井海岸の脇であるから、調査の目的にもかなうであろう」とのことであった。そこでダグリ岬の先端に位置する国民宿舎「ボルベリアダグリ」に宿泊した。土地柄とは全くもって不釣り合いな巨大な施設が遠くからも大変目につく。当日は生憎の雨続きであったが、岬の先端に位置する「ボルベリアダグリ」の窓外から吹いてくる風は明らかに“南国の風”であった。我が研究所の本拠地である東京との「気」の違いを堪能しつつ、まずは夏井海岸へと向かう。
すると確かにその入り口にあたる場所に「石碑」は存在していたのである。「かなり古くなっている」とネット上でかつての来訪者たちが書き込んでいたが、確かにそのとおりであった。「神武東征の折、最初の立ち寄ったのがこの夏井海岸であった」ということを指し示すのがこの石碑である。まずは“始源の地”の一つに降り立ったとの満足感にしばしひたった。
だが、それだけでは当然、完全には満足できないのである。なぜならばそもそも「現代日本史」において完全に否定されている神武の、しかもよく知られた史料では曖昧模糊とした「東征の出発点」についての実踏調査なのである。これでは全くもって不十分なのであって、現地において誰か有権解釈が出来る人物に、しかるべき史料に基づき、説明を求める必要がある。すなわち「神武は確かに存在したのであり、そのことを示す史料がある」とそれなりに見せてもらう必要があるというわけだ。
「誰に相談すれば良いのか」
夏井海岸でたたずみながらスマホ検索をしている時、とあるサイトにある記述が目についたのである。「東串良町教育委員会」だ。その瞬間、私の脳裏には稲妻が走ったのである。「そうだ、郷土史について最も詳しいのは地方自治体の教育委員会であるはず。それではここに照会すれば“神武東征”に関する史料としかるべき説明を得ることができるはず」
迷わず私はそこに記されていた「東串良町役場教育員会社会教育課」に連絡をとり、即日来訪することにした。すると電話口でも丁寧に応対してくれた担当の女性職員が応対してくれたのである。全くもって“天佑”であった。
そこで得た資料には次のような記載がある(「神武天皇伝説 東串良郷土誌 p875 第一節 神武天皇にまつわる伝説より」より引用):
「神武天皇は鵜茅草葺不合尊の第四皇子で高山町野崎傍畝の辺りで御誕生になり、高山・宮下の辺りで御成長なされ、長じて吾平津姫を妃とされ、後柏原の港より御東遷なされたと言い伝えられている。
当時柏原と唐仁との間の田地一帯は海であり、港原田地、中ノ島などは入り江であった。今の唐仁、新川西一帯を含めて昔は柏原といっていた由である。
御東遷に必要な舟、資材は国見山脈の木材をとられ諸準備を唐仁の田畑(入府とも皇神山ともいう)で整えられ、我等の祖先の人々がつき従い皇紀二千年前3月10日唐仁また入府より御船出され、祖先の方々が色々と力を尽くして輝かしい偉業を立てて忠誠を捧げたと言い伝えられている。
大和地方御平定後は当時の文化は東漸し大和地方に移って行ったと思われるが、今も奈良付記には当地と同名の部落『川西、柏原、古市』など多くの同名の地名がある。
思うにわが郷土は神武天皇に関しての由緒伝説など数多くある。旧暦3月10日はご出航つ日和見された日であるといい、古来他部落より早く正直より凧つくりと凧揚げをしたり、また早馬があったり、団子を作ったりする風習がある。昔から今に至るまで旧4月3日(しんぐわさにちという)は天皇御崩御の日であると各家庭必ず仕事を休んでだんごや煮しめ、餅を作って先祖へ供え神に献ずる習慣が残っている。また国見、黒園、甫与志の三岳に登山する習わしもあり、吾平山上陵に参拝する人たちも多かった。
柏原松原に鎮座の戸柱神社は神武天皇が御東遷の際途中の航海安全を祈って東仁の田畑に御創建され、それを今より千余年前、今の地に移されたと伝えられている。また川東役所にある産能屋敷は神武天皇御東遷に際し、御準備のため御駐躩(かく)あらせられたところであると言い伝えられている。
県は紀元2600年(註:1940年)を記念して神武天皇聖蹟調査会を組織され、昭和15年11月9日神武天皇聖跡地として県知事が指定、柏原海岸松林内、戸柱神社の東のほうに『神武天皇御発航伝説地』また山王屋敷に『神武天皇御駐躩』伝説地の記念碑を建立した」
ちなみに今回、東串良町役場からはここでいう鹿児島県による調査報告書の写しも頂いた。その際に受けた説明によると当初、この柏原の戸柱神社脇は「聖蹟」としては調査対象外であったが、その後の紆余曲折を経て、最終的に「聖蹟」に指定されたとのことであった。
いずれにせよこの手の古代史を巡る状況は余りにも曖昧模糊として確言することが出来ない一方で、“火の無いところに煙は立たない”こともまた事実なのである。しかも今回の実踏に際しては現地紙「南日本新聞」の支局長である知己との久々の再会を遂げることが出来たが、同人曰く、「志布志はなぜか古代発掘調査がほとんど行われていない全国でも稀有な土地」とのことであった。要するに大規模かつ最新の発掘技術を持って総ざらいがなされているわけではないのである。そうである以上、伝説を伝説であると片づけ、「神武不存在説」に加担するのは余りに安易すぎると言わざるを得ないのだ。
この様にして志布志の地でフィールドワークに励む中、私はある一冊の本を傍らにおいていた。落合莞爾「天皇とワンワールド」(成甲書房)である。氏が旺盛に刊行されている書籍はそのいずれもが興味深いが同時に「検証不可能性」に覆われている。さらに言うと我が国の本当の“権力の中心”が運用している簿外資産の実態について、その担い手の個人名まで知っている私から言わせると、氏は明らかに認識を欠いていらっしゃる。しかしそうではあってもこの本にある次のような記述にはどうしても目を引かれてしまうのである:
「旧石器時代から日本列島に住んでいた原住民は大別して二種類です。一つは縄文海民で、もうひとつはアイヌ・沖縄人です。日本列島にウバイド系海人が到来した紀元前1400年頃の日本列島は新石器時代の後期で、いわゆる縄文時代です。
縄文海人族は、
―旧石器時代から日本列島にいた安曇族、
―縄文後期に渡来したウバイド海民の『イシヤ』すなわちタチバナ族、
―イシヤを日本に運んできた水軍の『ヘイあるいはサカイ』すなわち族種平家
―敦賀の気比神宮を奉祀する北陸海人族で、コシ(古志)と称したようです」(同第79~80頁)
「ウバイド海洋文明は日本列島で著しく発展しましたが、私見は、その理由をもっぱら『海民タチバナ族』に求めるのではなく、シュタインとオズベルの説を借りて、『タチバナ族のもたらしたウバイド精神文明波に列島在来の縄文海民(安曇族)が共振共鳴してウバイド文明化した』と見るべきものと考えます。
ウバイド文明の本質は精神・思想・情報で、これを支えたのは、本来ウバイド人が素質として有した幾何・波動系シャーマニズムです。その情報伝達は、①文字、②文章による直線論理、③デジタル数字などによらず、④音響(言霊)と、⑤類推と相似感覚により抽象化したアナログなエンブレム(形象)を主な手段としたようです」(同第80~81頁参照)
「日本列島では、北九州の安曇王権が大陸波の到来を早くも予知し、騎馬族の来襲に備えて基地の縦深化を図ります。これがいわゆる『神武東遷』で、安曇王権の族長イワレ彦が主力を率いて瀬戸内海を東進し、先住の諸部族を討伐して奈良盆地に入り、ヤマト王権を建てます」(同第161~162頁参照)
「そもそも人類社会の本質は分業ですから、社会を構成する根本的要素は『職掌』です。分業社会は、全体の秩序を維持するために統治専門家を必要とし、統治を専門的職掌とする族種ないし階層が生まれます。これを『政体勢力』と呼び、ときに『政体』と略します。社会統治を目的とする政体の本質は『権力』で、これを具体的に行使するために、軍や警察などの『暴力装置』を設けます。
ところが、人間が揮う権力は人間行動の根源を規定する物質的欲望と結びつき、常に腐敗堕落する傾向を避けられないことから、政体は統治のための存在でありながら、それ自体が統治の阻害要因となって自ら崩壊するリスクを孕んでいます。
ゆえに人類社会は、政体が本質的に有する右の危険性をあらかじめ防止するため、『社会の健全性維持を図る』職掌を必要とすることになり、これを担う族種が生まれます。本稿はこれを『国體勢力』といい、ときに『国體』と略します。
統治機構を運営する政体は政治制度の上に成り立ち、政治制度は必ず特定の経済制度と結びついた制度利権を発生させています。技術進歩や人口移動による生産関係の変化に促されて、経済機構が改変を迫られると、これに応じて統治機構の形を変えるのが政治改革です。
政治改革は、従来の制度利権を破壊して新たな制度利権を発生させますから、程度の差こそあれ、これは『革命』です。
飽和に達した社会が、さらに維持されていくのは、革命が飽和した社会を不飽和に導くことで、次の段階に移行するからです。政体が自ら政治改革を実行して不飽和を実現できれば一番よいはずですが、それが不可能なのは、政体そのものが制度利権と固く結びついているからです。
これを解消できる存在は、政体外部の強力な勢力しかありません。すなわち国體勢力です。・・・(中略)・・・国體が積極的に活動する目的は『政体の改変』ですから、これによって自らの既成利権を破壊される政体は、利権防衛のために、暴力装置を用いて国體を攻撃します。
国體はこれを避けるために、常に隠密性を必要とし、そのために普段から国體の存在そのものを隠しておくのです。
つまり国體は、本質的に秘密勢力なのです」(同第163~165頁参照)
「北九州に残った安曇族の留守政権は欠史八代の九州分国となり、これを『九州王権』と呼びますが、後に筑紫率から大宰府となり、長崎と並ぶ日本列島の西玄関になるのは、ここがワンワールド海洋波の西の極点だからです」(同第189頁参照)
「東アジアに突厥帝国が成立した前二世紀ころ、日本列島にも騎馬民の襲来が予想されるようになります。
騎馬族の政治文化の本質は略奪と貢納支配ですから、日本列島では、海人族が被略奪対象、倭人の稲作農民が被支配対象となります。これを日本社会が躱すことができた経緯が日本古代史の主題であり、ワンワールドと日本との関係なのです。
騎馬人の渡来に対応するため、欠史八代海人王朝の大王(天皇)が打った手は、なんと騎馬民王族を迎えて大王(天皇)とするという“鬼手”だったのです。
具体的には、九州王権が準備したミマキイリヒコ・イニエを開化の第一皇子とし、皇位をこれに譲り、皇統を『騎馬人男系と海人女系の対婚制』とすることを定めたのです。すなわち、対婚制による陸海両族の共同統治を国體の根本としたのです」(同第209頁参照)
「神武をヤマトに送り出した安曇政権は、その後も『欠史八代』の実家として北九州に残留し、『欠史八代』王権のために大陸情勢を観察し、騎馬民情報の収集に当ります。残留安曇王権と『欠史八代』王権は国事を分担したわけで、あえて言えば、『欠史八代』が政体となり、残留安曇王権が国體となったのです」(同第234~235頁参照)
シンクロニシティとは実に意義深いものである。たまさかこの本を手にとった時、私は鹿児島・志布志で神武天皇の「聖蹟」を追っていた。しかも東串良からの帰路、「聖蹟」の程近くに「原田小学校」なる小学校があり、かつ「原田」の表札が多々あるとことも目視した。そして東京とは比べものにならないほどの湿潤かつ温暖な「気」と豊かな資源に恵まれた志布志の地をレンタカーでひた走る中、ふとこんな考えが脳裏をよぎったのである:
「“東国”が圧倒的に不利となり、逆に南国・志布志の豪族であった“神武”が圧倒的な有利になるのは前者が強烈な寒冷期に入った時。そしてその時は同時に大陸から異民族が大挙して攻めて来る可能性が高くなる時期でもあったはず。他方で、北緯43度以北はほぼ使い物にならなくなるのではないかとまで言われている現下の北半球における寒冷化の進展なのである。正に古代と現代の“相似象”なわけであるが、それでも今の政体である安倍晋三政権は弥縫策に終始しているのである。そうである時に果たして秘して隠然たる力を持っている“国體”は如何に動くのか。さらに言うと、その中で己は一体いかなる役割をこの“国體”との関係で果たすことになるのか」
東京から遥か南西の地である志布志を今、あらためて想い出す度に、同じ想いに浸るのである。そして同時にこうも想うのだ。「答えは間もなく自ずから出て来る」と。
2016年5月1日 東京・仙石山にて
原田 武夫記す