トリチウム、そしてビジネス・プロデュース (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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トリチウム、そしてビジネス・プロデュース (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

 

「武夫、“革命家”だけにはなるなよ」

1990年春。東京大学文科1類に合格した私に対して亡き父が言った言葉だ。滑稽の様に聞こえるかもしれないが、私が何事もまずゼロ思考から始め、「枠組みを変えてみる」という意味でのリフレ―ミングを好む性分であることを、父親として熟知していたのだと思う。

あれから25年が経った。「平成バブル」の最末期であったあの頃では全く考えられなかった事態に我が国は陥ってしまっている。「世の中とはこうあるべき」という明確な秩序があった当時、その既存の秩序を変えるということはイコール、“革命(Revolution)”なのであった。だが、今はもう、そうした明確な秩序は跡形も無くなってしまっている。「革命家」たちは仕事を失い、例えばあの日本共産党所属の国会議員たちは毎年2週間近くも夏休みを取るのが恒例になっているとも聴く。「永久革命」のはずなのに、である。

しかしこのことはイコール、我が国において解決すべき社会的課題が無くなってしまったわけでは全くないのである。それどころか、我が国は今、国際社会の中でも先駆けて「課題先進国」であるとまで言われているほどなのだ。それにたてつくことで最後は親心をもって抱擁してくれる“親方日の丸”はもはや存在しないのである。徹底した構造改革が断続的に行われ、かつ我が国に多大な国富をもたらしてくれていたグローバル経済が金融メルトダウンによって大きく傾く中、従来型の「利権構造」は須らく崩壊し始めてしまったからである。「利権の時代の終わり」は“親方日の丸の終わり”でもあったというわけなのだ。

それでもなお、私たち日本人は前に進まなければならないのである。しかも利権構造の創出マシーンであり、またそれそのものでもあった「国家」が消滅しかかり、他方でそれに対する依存体質から抜け切らない未成熟な「企業」しか存在せず、かつこれら両者になじめなかった者たちがかこつ場所と言う色彩が未だ強い「市民社会」だけが存在している、という悲惨な状況が続く中において、である。

福島第一原発から日量実に400トン余も放出され続けている「トリチウム汚染水」問題は、正にここでいう社会的課題の中でも喫緊なものの一つだ。昨年(2014年)1月早々に某有力経済コラム・サイトでアップしたコラムにおいて、これまで伝統的なアカデミズムにおいては絶対に不可能とされてきた「トリチウム水の分離」のための技術が存在し得るという点を指摘し、大いに物議を醸して以来、私はこの問題により一層取り組んできている。その間、実に様々な出来事があったわけだが、強く感じ続けていることが一つある。

それはこの問題が次に掲げるような複数の性格を孕むものであり、正に現代日本が抱える「社会的課題の縮図」とでもいうべきものだということである:

―高度に技術的かつ社会的インパクトのある問題であるため、従来型の「利権」を創るという意味での”政治“によっては解決されないということ。つまり特定のイシューについて専門家を即時に集め、最も効果的な手段を検討・決定し、即時に執行することのできる大統領制とは異なるシステムに拠って立っているに過ぎない内閣総理大臣であっても、その意思をもってこの問題を解決することは出来ないのが現実である

―問題の所在が「東京電力」という民間企業にあるため、“行政”も当然のようにこの問題を解決することが出来ないということ。「護衛船団方式」がまかり通っていたかつてとは大きく異なり、もはや巨額の財政赤字を抱え、”親方日の丸“として抱擁する(=全ての問題を公費をもって解決する)ことが出来なくなった”行政“は日々蓄積される膨大な情報はあっても、それをもって決断し、解決することが出来ていない。かといって”政治“も上記の状況におかれているため、結果としていたずらに時が流れていくだけなのである

―「民間経済」の側にこの問題を解決する能力があるのかというと、大企業であってもリスクが高すぎると判断し、かつそもそもイノヴェーションをもってこの問題を真正面から解決するための技術を生み出し、生産するという能力をもはや失っているため、問題の解決には程遠いのが実態なのである。“行政”の側はしきりに大企業に対して「何とかせよ」と話をふるのであるが、そもそもハイリスク・ローリターンになる危険性があるこの問題で「利権」を創ろうとする“政治”の側からのプレッシャーがかからないため、“民間経済”の側もおよそ本腰にはならないのだ。この延長線上に我が国マスメディアのこの問題に対する無関心がある

―それではフクイチ問題について何かと批判的な「市民社会」の側においてはどうかというと、これまた大いに心もとないのである。「市民社会」にとってこの問題は余りにも大きすぎるのだ。緊急災害支援といった瞬間的かつ分かりやすいワン・イシューにおいて大きな力を発揮する「ソーシャル・メディアでつながることによりパワーアップした市民社会」も、この様な粘り腰での対応が必要な問題には無力なのが実態だ。そして最後は「自分自身はフクイチとは相対的に遠いところに住んでいるからマシだ」といった発想に正直、なってしまうのが「市民社会」なのである

―さらにこの問題を複雑にしてしまっているのは、「グローバル」という側面が大きく絡んでいることによる。フクイチが破裂して以来、米国やフランスといった「原子力大国」の有名企業が次々に飛来しては、その技術を供与すべく試みていった。それらはすべてが失敗に終わっているのであるが、だからといって我が国政府は「もう外国の手は借りない」と判断せず、むしろ「トリチウム汚染水問題については日米協力の枠組みで対処していく」と決めてしまっているのだ。なぜならば「原子力利権」は戦後秩序において米国が持つグローバル利権だからだ。その結果、「日米同盟」というとその変更にすぐさま及び腰になる“行政”の腰は更に重くなってしまっている。ましてや虎の尾を踏みたくないと思うのは”政治“も同じなのであって、結果、「何もやらない」という態度に終始してしまっているというわけである

こうした文字どおりの膠着状況が続く中で、驚くべきは「そもそもトリチウム水は有害なのか」という議論すら流布され始めているという事実である。関係各方面に上述の革新的な分離技術について説明を試みる中で何度となく聞いた言葉がこれである。だが、この場を借りてはっきり申し上げておきたいことがある。それは「我が国の経済産業省も、ここが認証してくれれば必ず政府としても支援せざるを得ない」といわれた我が国随一の認証機関の理事長氏が私に対して語った次のような言葉だ:

「福島第一原発から排出されているトリチウム汚染水が有害なのは分かりきったことだ。なぜならば体内に取り込まれると、それはヒトの遺伝子を不可逆的に破壊するからだ。摂取した後に何とかなるという代物では全くないのだ。半減期が短いとか、そういったことは全く本質的な問題ではない」

もっともこうした危機意識をもったとしても、私を支援して下さった有力者の多くがとろうとした手法は正に「利権の創出」という従来のやり方に過ぎなかったのである。つまり、こんなやり方である:

―まずは対外厳秘で技術開発を進めていく。進展があり次第、経済産業省の担当部局へまずはインプットする。頃合いを見計らって課長クラスの(非公式)勉強会を「予備費」をもって実施してもらい、“行政”の側において更に認識を深めてもらう。そして翌年度の予算編成において「調査費」を1億円程度計上してもらう

―同時に進めるべきは新規株式上場(IPO)を前提とした経営体制づくりである。つまり専用実施権を当該技術について確保することを前提に、IPOを最初のゴールとする専門のヴェンチャー企業を創るのである。ただし好き勝手にその経営陣を人選して良いというわけでは決してない。経営者には有力な経済産業省OBを据え、かつ一連のプロセスで「お世話」になる関係者にはIPOから生じる金銭的利益、あるいは天下りといった形での利益供与を約束していくべきである。そうすることによって、上述の「調査費」は更に翌年には「補助金」となり、続々と増額されていくことになる

―”行政“の側がこうしてこの技術を「我が問題」としてとらえるようになってはじめて、我が国の大企業たちは重い腰を上げ始める。場合のよっては特許の専用実施権を分け与えることを通じて、これら大企業にはトリチウム汚染水分離のための「処理機」の製造・販売を任せるべきである。そのことによって表向きは「我々が開発した優れた技術による革新的な問題解決」をアピールできるようになる大企業は、更に喜んで協力するようになる

―“政治”は事ここに及んでからようやく動き始めることになる。「先生方(註:国会議員たち)」には「補助金」獲得に際して経済産業省に対し、国会審議などを通じて圧力をかけてもらう。野党議員に対して「国会質問」をあえて振り、そのことを通じて“行政”に対してやや脅しをかけるのも有効な手段である。マスメディアもこうした構図が出来上がることで初めて話に乗って来ることになる。そしてそのマスメディアによって「市民社会」の側が激昂し始めれば、もはや“行政”において逃げ場はないのである。莫大な補助金が拠出されるようになり、合法・非合法な政治献金を通じ、件の政治家たちは裨益していくことになる

とある有力者は私に対してこうした「今後進むべきプロセス」を説明してくれながら、こう言った。

「原田くん、君は外務省出身だから、国内官庁におけるこうした”問題解決プロセス”を知らないだろうね。このやり方が常識的なのであって、この方向で粛々と前に進みなさい。最初から自分自身が先頭に立っても、誰もついてはこないぞ」

どうだろうか。こう言われて大いなる違和感を覚えるのは私だけだろうか。決してそうではないはずである。それではその「違和感」は一体どこからくるのだろうか。この点について私の率直な印象をまとめていうならばこうなる:

―上述の、戦後日本で営々と続けられてきた「新規利権創出プロセス」は国家財政から莫大な補助金を獲得することが自己目的化してしまっている。確かにこの有力者氏らは口では「トリチウム汚染水問題は喫緊に解決されるべき。何をおいてもそう専心すべし」とはいう。だがその実、最終的には国家財政という莫大なマネーをあてにし、そこから裨益することを目的としていることは明らかなのだ。だが、今後、我が国が着実に事実上の“デフォルト(国家債務不履行)”処理を余儀なくされるとすればどうであろうか。そもそも「補助金」をあてにして全体のスキームを構築することは無意味であるはずだ

―またこの「新規利権創出プロセス」においてもう一つ決定的に欠けているのが、“グローバル”という視点である。“政治”や“行政”といっても最終的に「原子力利権は日米同盟に折り込み済み」となれば前に進むことは出来ないのである。そして未だに解決には及ばないこの福島第一原発問題に対する様々な「支援」を通じて米国勢が我が国政府より多額の金銭を受け取り、事実上潤っていることを考えれば、米国勢は実のところ、この問題の解決は望んでいないとも考えられるのである。そうである以上、時に「日米同盟の再検討」まで視野においた、我が国の最高意思決定レヴェルによる先方との交渉が最初から必要なのだ。ちなみにここでいう「最高意思決定レヴェル」とは内閣総理大臣といったレヴェルではない。そもそも第二次世界大戦において「敗戦」を決断したレヴェルにまで諮られるべき案件なのである。だがそうした視点がここでいう「新規利権創出プロセス」には完全に欠落してしまっている

―そして何よりも“行政”の側が未だにこうしたオールド・タイプの利権分配に預かろうという輩によって占められているのかも大いに気になるのである。さらにいえば「市民社会」を巻き込むのが最後の最後、つけたりで本当に良いのかということも気になって仕方がない。なぜならばとりわけ「2011年3月11日」以降、我が国においては特定の利権構造との関係が故に物事が動く(逆にいえばそれでしか動かない)というのではなく、ソーシャル・メディアを通じて「市民社会」において騒ぎになるからこそ“政治”や”行政“、さらには”民間経済“が突き動かされるというパターンが続いてきたからである。「経済的合理性」のみならず、「市民的合理性」をも充分に加味した上で問題解決プロセスの全体を再構築すべき時が来ていると感じざるを得ないのだ

実はここで一つ重大な展開が程なくして訪れることを告白しておかなければならない。そもそもこの話の発端である、上述のトリチウム汚染水分離のための革新的技術開発が大きな山場を迎えているのである。端的に言うならば、いよいよ然るべき研究施設において、まずは純水なトリチウム水をもって分離検証実験を行うことが先日、正式決定したのである。その結果は早晩明らかになり、私のところにもまずは取り急ぎの内報がもたらされることになっている。率直に申し上げるならば、素人目に見てもこれまでの開発経過を見る限り、この検証実験が「成功」するのは目に見えている。

そうであるからこそ私がこれら開発技術陣との広い意味での「社会的課題解決チーム」の一員として為すべきことは2つだと考えるのである。一つはこの課題解決が我が国のみならず、米国勢、そしてグローバル社会の未来に向けて甚大な影響を与えることを踏まえ、最初から“グローバル”という高い目線で解決スキーム全体をとらえなおしていくことだ。こうした「視座の高さ」は「分析の深さ」、さらには「問題解決の深さ」へとつながっていくはずである(参考:三宅孝之・島崎崇「3000億円の事業を生み出すビジネスプロデュース戦略」(PHP研究所))。そして課題解決のための資金調達も、何も国内に拘ることはなく、広く国際公益という観点から行っても良いと考え、動いていくべきだ(ただし巷にあふれる「ハンズ・オン」「ハンズ・オフ」のエンジェルといったレヴェルではなく、グローバル社会において最高位のマネーから調達する)。

そして為すべきことのもう一つがこの課題解決プロセスを「ビジネス・プロデュース」としてとらえなおし、再構築していくことだ。「補助金獲得のための陳情が先にありき」ではなく、社会的課題を解決するためのプラットフォームを、志を一にする者たちの間でまずは機動的に創り上げ、そこでのチーム作り(team building)を通じて社会的課題そのものを解決するための「フック」と、それに参画する者(企業)たちに経済的利益をもたらす「回収エンジン」の双方から成るストリーム(ビジネス・モデル)を描き出していくのである。そしてこうしたプロセスに誠心誠意協力するという立場から「市民社会」の側においても協力を求め、知的財産権の保護という観点から完全なるディスクロージャーは出来ないもののその力を借りながら対外公表をしていくことをベースに、今度は「行政」「政治」の側にロビングをかけていくのである。

ただしそこでの目的はあくまでも「社会的課題解決」なのであって、新たな補助金捻出を通じた「利権創出」ではないことは言うまでもない。その意味で当初のトリチウム汚染水処理そのものに対してのスタート・アップは補助金によって賄わざるを得ない部分があるにせよ、最終的には当該技術をもって生産される「廃棄物」をもって上述の「回収エンジン」を廻せるかがカギになってくるのだ。その観点でいうと、実はこの革新的技術は大量の水素を処理過程において発生させることが分かっている。水素化社会への移行に向け、喉から手が出るほど欲しがられているものとこれを直結させることが出来れば、巨大な「回収エンジン」が廻り始めることになるのは言うまでもない。

いずれにせよ、どうやらあらためてmy revolutionが動き始めたようだ。間もなく訪れる2015年夏が、忘れられない暑い夏になるような気がしてならない。

 

2015年6月7日 東京・国立にて

原田 武夫記す

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