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「第二次朝鮮戦争前夜」に考える。

 

やはりこのタイミングで「第二次朝鮮戦争が勃発か?」といった流れになっている。それにしても余りにも不思議なのは、つい70年余り前までであれば当然、我が国も積極的に開戦・参戦となるはずであったであろうに、今ではおよそ違うという点である。

「数日後には我が国上空を通過する形で(=きっちりと「通過」すれば良いが、落下の可能性もある)グアム島を目がけて北朝鮮勢が弾道ミサイルを撃ち込む」

そう騒がれているというのに、我が国の街中では有事に備えた動員が行われるでもなく、平然かつ淡々と日々の営みが繰り広げられている。ある意味異様と言えば異様であり、同時にウルトラ・モダンでシュールであると言えばそうと言える、不思議な光景だ。

この不思議な光景が我が国の街中で広がっているのには理由がある。インターネットの普及により、上から下まで様々な論者や専門家たちが発信を繰り広げる結果、私たちは日々の検索(retrieval)を通じて「第二次朝鮮戦争が起きたらばこうなる」ということをおおよそ知るに至っているからだ。未来について何も知らないというのであれば恐怖のあまり行動は過激になるであろうが、「なーんだ、そういうことか」ということになればかえって緩慢な動きになる。それが私たちのいつものパターンなのだ。

その意味で程なくして始まる「第二次朝鮮戦争」は古典的(クラシカル)な戦争という意味での「戦争」としては最後のものになるというのが私の考えだ。それでは「古典的な戦争」、とりわけ近現代における戦争とは一体どの様な特色を持っていたのであろうか。ポイントを挙げるとこうなる:

―「国民国家」が大前提である。そこで曲りなりにも民主的に選ばれた政治リーダーが普段は統治を行っている

―だが、景気循環の中で必ずその経済政策は行き詰まるのである。いろいろなことを政治リーダーは行うのだがどうもうまく行かない

―その結果、「うまく行かない原因は外国に求めよう」ということになる。敵国が選ばれ、それと戦うために兵器生産が活発に行われる。国民に対しては引き締め・統制が行われる。これはこれで政治リーダーにとってはやりやすい環境づくりという意味では最高なのである

―「敵国が攻め込んできた」ということにして開戦する。実際にはどうであろうと関係ないのである。とにかく始まってしまえば一気に盛り上げていく。大量の資源が動員され、経済がにわかに活性化する

―首尾よく勝利すれば対外的に国債の価格は高騰し、政治リーダーは不動の位置を得ることになる。経済は「戦争」を仕組みとして組み込む(built-in)する形でさらに廻り続ける

もっとも以上のスキームに書いていないことが一つある。それはそもそも近現代が始まる前の統治リーダーである「根源的な階層(=王族たち)」についてである。最初から「国民国家」は世界史上存在してこなかったのだ。そうではなくてこれら「根源的な階層」がある段階で形の上ではギヴ・アップしたからこそ、それは成立した。それでは「根源的な階層」が全てを失ったのかというとそうではないのである。なぜか。

ここに国際金融資本の役割があるのである。実際にはこうである:

―「根源的な階層(=王族たち)」は統治権を事実上放棄する。その代わりに国際金融資本に大量のマネーを預け入れる

―このマネーを用いて、国際金融資本は新しく成立した「国民国家」に対して、中央銀行を設置しないかと持ちかけるのである。「国民国家」の側は最初はカネがないため、当然これに応じる

―具体的にいうと「国民国家」の側はまず公債(国債)を発行する。そしてこれを中央銀行(あくまでも「国民国家」政府とは切り離され、独立している)が引き受ける。その代わりに中央銀行は自らが発行した通貨を「国民国家」政府に対して引き渡すのだ

―「国民国家」政府はその通貨をつかって国民経済を創り出していく。うまくいけばよいし、うまくいかなければ「戦争」に打って出る。先ほど書いたとおり、「戦争」は経済を廻す。しかも勝利したらば公債(国債)の価格は時に暴騰する。儲かるのである

―「国民国家」政府は戦争で儲かった分を上乗せして、中央銀行に対して公債(国債)に関する償還を支払う。借金を返済するのだ

―そして国際金融資本はこの返済分をベースに最初のマネーを預け入れてくれた「根源的な階層(=王族たち)」に対する利払いを行うのである。こうして最終的に儲けるのは「根源的な階層(=王族たち)」であるわけだが、このことは決して表では語られない。なぜならばここの部分こそ、実は「簿外資産(off-balance-sheet asset)」の世界の話だからだ。戦争における死者が贖うマネーという意味で「黄泉の国のマネー」と言っても良い

以上の仕組みで行われてきたのが近現代における「戦争」なわけである。だが、今回の第二次朝鮮戦争はいよいよこの仕組みが終わる、あるいは変容を余儀なくされる重大な契機になると私は考えている。なぜか。その理由は二つある。

一つは「本気で戦争をする」となると核戦争になるのが目に見えているからだ。米国勢にせよ、北朝鮮勢にせよ、そうである。「国民国家」におけるプロパガンダとしては「敵をせん滅せよ」「核兵器の使用も辞さない」などと騒ぎ立てるが、今述べた「本当の仕組み」を前提にすると地球社会全体を本格的に壊してしまう戦争など、誰も望んではいないのである。一番困るのは「根源的な階層」だ。なぜならば「根源的な階層(=王族たち)」は自らが支配する土地から基本的に移ることが不可能だからである。したがってその土壌が汚染されてしまってはたまったものではないのだ。したがって「核戦争」は本格的には発生し得ないのである。しかしながらこれから戦争をやるとなるとどうしてもそこまで議論が行きついてしまう。これはまずい、実にまずいのである、「根源的な階層」たちにとって。

第二の理由。それは過度なデジタル化の進行による逆説的な効果だ。デフレ経済がここまで極端に進んできているのに対して、これに対抗すべくヴォラティリティーを”演出“するのが急務になっている。そのため、あらゆる人物にマーケットへの参加を許し、言論空間への参画も許すべく、インターネットが導入されたというわけなのである。事実、金融資本主義はデジタル経済において隆盛となり得た。情報伝達が早い分、投資してから回収するまでの期間としての期間効率が短い形でのビジネス展開が可能になったのである。「皆が知っている状況」を創り出すことで、マーケット展開は早くなったのである。

だが、ここからが正に「歴史の皮肉(Ironie der Geschichte)」なのだ。デジタル経済・社会が発展すると、それだけ情報伝達も早くなる一方で、「まぁ、何か起きてもこんなレヴェルでとどまるだろう」といった歩留まり感が私たちの社会では同じく蔓延するようになってしまったのである。そのため実際に極端な行動がとられることはなくなってきている。無論、最初は「フラッシュ・モブ」や「アラブの春」の様に喜んで扇動される人々がいるにはいた。だがそれが愚かなことと分かり始めると、今度は逆に私たちは動かなくなり始めたのである。「ハーメルンの笛吹男」も最初はネズミたちを港に追い落とすことに成功したが、やがてさすがのネズミも学習し始めたというわけなのだ。正に「笛吹けど踊らず」という状況が見え始めている。

実はこの変化に一番気づいているのが政治家たちなのである。「賢慮」ではなく「傍若無人さ」こそが世界中で政治リーダーの基本スペックになったのはそのせいだ。とにかく「笛吹けど踊らず」では困るので「笛を吹きまくる」のである。トランプしかり、プーチンしかり、そしてデュテルテしかり、である。少なくとも最初のころは喜んでその笛音に踊ってくれる国民たちがいるのだ。だから必然的に政治リーダーたちは(余りにも滑稽なほどに)大声で語り、かつ無茶振りをするようになっていく。

だが、その実、政治リーダーたちは気づいているのだ。「このままでは”政治“VS”非政治“の対決になってしまう」ということを。政治リーダーたちがどんなに煽り立てても国民は動かないのである。その代わりにえも言えぬアパシー(無気力)さが全世界ではびこり始めており、これがもう止まらないのである。今更「ファースト」といったり、あるいは「女性党首」を立ててみたり、はたまた「ヘイト・スピーチ」をしてみても始まらないのである。

「結局はこんなもんだろう。だったら動かない方がマシだ」

そう気づいてしまった以上、私たち「国民」は一切何が何でも動かないのである。そしてその結果、現在に至っている。「第二次朝鮮戦争」だ。

しかし、である。「歴史は二度繰り返す」のである。1度目は悲劇として、そして2度目は喜劇として、である。開戦と同時に金正恩体制は瞬時に破壊され尽くすのだ。それは余りにも滑稽にすぎるのかもしれない。そして朝鮮民族は余りにも哀れすぎる。だがしかし、そうした光景を今やグローバル化した世界におけるその他の「国民」たちは必ずや冷笑しながら見つめるに違いないのである。

無論、マーケットはこれによって動く。「有事の円高」や「戦勝国となる米国勢の国債の高騰」、あるいは「勝利に沸く中で政治リスクが激減したとして株価が高騰する」といった状況が到来するのは間違いない。そして「有事の円高」が我が国において、円高基調の下での資産バブル展開としての「日本バブル第2弾」をいよいよ本格化させるのも間違いないのだ。それは程なくして土地資本主義に基づく我が国の本領発揮の場をもたらすことになる。正に「バブルへGO!」なのである。

だが、冷静に考えなければならないのだ。従来のシステムはいよいよこれで終わりを告げるのである。その本質は上記の意味での「戦争」経済がもはや効かなくなったということにある。しかしそれで全てを終わりにする「根源的な階層」ではないのだ。自らの僕(しもべ)に過ぎない「国民」たちがあらためて自分たち(=根源的な階層)に歯向かってこられては困るのである。そのため「何か」が必要なのである、確実に「国民」たちが恐れおののき、狂い、そして互いに殺し合うための理由が。

「地球上にそのための理由がもはやないのであれば、地球外に求めるしかない」

これでお分かりになったのではないだろうか。なぜか煽り立てられている「民間宇宙開発」の本当の理由を。これからの脅威は「宇宙」からやって来るかの様に”演出“されるのである。見たことも聞いたこともない展開に最初、私たち「国民」の側は全くもって笑いがこらえられないに違いない。だがしかし、なのである。

「最初は小惑星の衝突が危惧される」

「流星群が降って来る」

「実は異星人からのメッセージが到来するのでは」

「下手をすると地球外生命体が攻撃してくる」

そうした展開が実のところ次に待っていることを、一体どれだけの方々が「あらかじめ」認識出来ているであろうか。だがしかし、それらは全て、理由を均しくしているプロパガンダなのである。そう、全ては「根源的な階層」による絶対的な統治構造を見えないものにし、かつ永続的なものにするための仕組みに過ぎない。

Mal sehen(ちょっと様子見をしましょう).

ドイツ語ならばそう正にいうべき状況が到来している。「立秋」を迎え、実は温暖化が表向きの現象として騒がれつつも、早朝にはむしろ寒くなり「寒冷化」が著しくなることを潜象として告げ始めた今だからこそ、あえて書いておきたいと思う。「これから」なのである。そして本当の意味での「これから」を知っている者のみに未来は訪れる。さて、あなたはどちらなのか。知者か?不知者か?

平成29812日 東京・丸の内にて

原田 武夫記す

 

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