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現代演劇で近松を観る

おはようございます。特別コラムニストのふらぬーるです。

今回も前回に引き続き、演劇の徒然を。

三月某日、渋谷のBunkamuraシアターコクーンにて現在公開中の『Eternal Chikamatsu』 を鑑賞しました。主演は深津絵里と中村七之助、脚本は谷健一に、演出家はデヴィッド・ルヴォ―と超豪華メンバーによって作り上げられた、近松門左衛門の心中ものの傑作『心中天網島』のオマージュ作品です。

20160315_2上田様

近松といえば曾根崎心中の作者として文楽界で最も有名な人。文楽といえば、中学生のとき学校行事で大阪の国立文楽劇場で一度見たのみですが、失礼ながら当時の私は文楽の背景や日本美を理解しておらず、うつらうつらとうたた寝をしてしまった記憶があります・・・

さて、今回の『心中天網島』を基にした“現代演劇”で、現代と近松の生きた時代がどのように交錯していくのかが見ものです。

宣伝ポスターからしっとりした日本美を押しだす作品になるかと想像しておりましたが、幕明けでまず飛び込んできたのはショッキングピンクのネオンと深津絵里扮する娼婦ハルが店の客引きに報酬について口うるさく捲し立てている場面。舞台は飛田新地のとある売春店という設定で、初めからギョギョッと驚かされました(笑)

ハルは自殺した夫が残した多額の借金に苦しみながら「金のため」と割り切って売春婦として働いています。しかし足繁く通う、妻子ある客といつの間にか恋に落ちてしまいます。そこに兄の客が強引に離縁をせまり、ハルは「金のため」と言って別れを受け入れてしまいます。自暴自棄になって街を彷徨い歩いていたハルは、あるはずもない川で、江戸時代の曽根崎新地の遊女小春に出会います。この川は、かつて叶わぬ恋に遊女が流した涙で溢れたという幻の「蜆川」だったのです。そして、ハルは『心中天網島』で描かれた古い古い恋の物語に引き込まれていきます。

近松が生きていた時代、心中ものに感化された男女が次々と心中を図ったと記録されていますが、現代の私たちからは「え、なんでそこで一緒に死ななきゃいけないの?」と突っ込みを入れたくなります。それでも切腹や心中といった自死は美しいイメージを伴っていた日本で生まれた私たちはその妖しく儚い世界観をなんとなくで受け入れてしまいます。

現代の娼婦ハルが「死んだら終わりなんだよ。死んじゃダメ。」と小春に大胆にも斬りこんでいく演出は、英国人デヴィッド・ルヴォ―だからこそ出来たのでしょう。観客はハルと共に近松の世界に入り込む錯覚さえ覚えます。

さて『心中天網島』でも『Eternal Chikamatsu』でも大きなテーマとなるのは「女同士の義理」です。小春は恋に落ちた治兵衛の妻、おさんから「どうか、治兵衛の命だけはとらないでやってください」と手紙を受け取り、自分の本心を押し殺し、心中まで約束をした治兵衛を家族の元に返します。その手紙の存在を知らない治兵衛は、自宅で仕事にも精を出さず、自分を突き放した小春にむくれます。しかし、小春が治兵衛をわざと突き返したと知ったおさんは、多額の借金を抱える小春が人生への絶望のあまり一人で死んでしまうのかと気遣い、それを止めるべくあらん限りのお金を持たせて治兵衛を恋敵である小春もとに遣るのです。「女の義理として当たり前のことだ」と言って・・・

現代人から見ればあまりにも神々しすぎて理解できないおさんの心情です。しかし、この強くたおやかな女性に、そしてここまで「義理と人情」で強く人が結びつけられた時代に、現代に生きる私たちは男女ともに憧れをも見出せずにはいられません。

義理を立てたおさんでしたが、結局、小春と治兵衛は、来世で結ばれ、共に生きることを誓って心中してしまいます。死を潜り抜けなければ甘美なものは得られないと言う彼らは、そこへ至るための心中という行為を恐れ、慄きながら実行してしまうのです。

そもそも心中にはどのような意味だったのでしょうか。英語ではdouble suicideと何とも味気ない、表層の事実しか適合する語彙しかありませんが、演出家ルヴォ―が心中をどのように考えていたのかも興味があるところです。

「心中」とは本来、「まことの真意、まごころ」を意味する言葉で、それが転じて「他人に対して義理立てをする」意味かから、「心中立」とされ、特に男女が愛情を守り通すことを言うようになりました。しかし、もともとは男と男の愛の絆を確認する誓いの意味でした。家来の殉死というのがこの本来の意味での心中の例であり、自らの主君には命を捨てても惜しくないという、主君との絆を強烈に主張する行為でもあったのです。

なぜ、来世での恋愛成就のために二人して死ななければならないのか。今回の『Eternal Chikamatsu』でハルが小春と治兵衛に投げかける疑問でもあります。

治兵衛は、「世間さまに対して義理を立てる」ために死ぬのだと言います。「殉死」と「心中」の根底にあるのは、死ぬものの対面意識であり、死ぬことで社会に対する個のアイデンティティの主張が成就すると強く信じる心です。死ぬことで義理が立つという認識は、現代人からすると理解しがたいものがありますが、それこそが封建社会で培われた時代的気質であるのでしょう。

英国人ルヴォ―は、今回の製作に当たり、近松とシェイクスピアに多くの共通点があると言います。そして『ロミオとジュリエット』のジュリエットと『心中天網島』の小春というリアルな女性を比較しています。

『ロミオとジュリエット』は英国の心中もののように位置づけされることがありますが、ジュリエットが死んでしまったと勘違いしてしまったロミオが絶望の中で自死し、その後目覚めたジュリエットが事実を知り追死してしまうのですから、心中ではありません。こちらにはDouble suicideがやはりしっくりきます。愛し合う二人の合意の上、甘美なものにつながる死を選ぶ日本の心中とは、死に至る心情は全く異質のものです。

理解しがたいと言いながら、日本史の教科書で「~大将が●●年、殉死した」という記述を、「あぁ、義理堅い人だったんだなぁ」とさらっと読み流してしまい、心中ものを妖しく美しいと受け入れるわたしたち。そしていつしか、時代的気質の背景に向き合うことのない間に、文楽や心中ものと現代の若者には深い溝が生まれていました。文楽や歌舞伎を見たことがないという若者が非常に多い現代に、現代演劇というリアルで新しい舞台で命を吹き込まれた『Eternal Chikamatsu』はまさに横文字表記が似合う、ルヴォ―から日本人に向けたメッセージと受け取れるのではないでしょうか。

 

【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

 

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