「不合理」の時代の到来を歓べ。(連載「パックス・ジャポニカへの道」)
かつて米国勢の賢人J.K.ガルブレイスは著書「不確実性の時代」で一斉を風靡した。しかし今思えば当時の「不確実性」など全くもって牧歌的だったのである。今や、不確実性を超えてヴォラティリティーが日常と化す日々が続いている。
そうした中で去る23日(GMT)、英国勢が欧州勢(EU)から自らの意思で離脱するとの決定を国民投票により下した。「栄光ある孤立(splendid isolation)」への回帰ということになる。金融マーケットは大混乱となり、「英国勢は一体どうしたのか」と世界中のリーダーたちが悩み始めている。
端的に言おう。―――これは「不合理」の時代の始まりなのだ。経済的な合理性で言うならばこのタイミングで欧州勢(EU)という広大なマーケットへのフリー・アクセスを失うことは全くもって論外なのだ。馬鹿げている。それでも英国勢の過半数が「これではやってられない」と現状について思い、一票を投じたのである。そこには確かに何等かの動機があり、理由がある。
想像してもらいたい。ある日突然、街中に口ひげを生やした屈強そうな男性たちが大勢乗り込んできた。「難民」だというのだが、どう見てもそうは思えない。手にはスマホを持ち、なにやら楽しそうにしているからだ。テレビをつけてみると、画面の中でキャスターたちは「難民問題は人道上の問題。私たちは責任ある先進国の国民として、祖国を追われた彼らに手を差し伸べる義務があります」とのたまわっている。「そんなものかな」と思い、スウィッチを切る。
だが、やがて気づき始めるのである。病院や公共施設に行くと「難民」があふれかえっている。これまでは行列に並んで待つなどということが全く無かったのに、いつの間にかそれが当然のこととなった。しかもある時から公共サーヴィスは値上げになっている。「どうしてか?」と役所に聞くと、「いやぁ、難民がたくさんウチの町には来ているので、公共料金を引き上げないとやってられないのですよ」と言われる。これもまた、聞いた瞬間には「そんなものかな」と思う。
そんなある日、決定的な瞬間がやって来るのである。家に帰ると、隣人の家にマスメディアが殺到している。「いったいどうしたのか」と近所の人たちに聞くと、こんな答えが帰ってくるのだ。
「あそこのお嬢さん、高校から帰ろうと夕方、通りを歩いていたらば、男たちが暗がりに力づくで引き込んで。可哀想に乱暴された。男たちは全く知らない言葉をしゃべっていて、皆、口ひげを生やしていたらしい。ずたずたにされたブラウスからはだけそうな胸を何とか両手で隠して大声で泣きながら帰ってきた。その後は恐怖のあまり、口が全くきけず、震え続けている」
これを聞いて、あなたは思う。幼子だったころから知っている隣人のお嬢さんの笑顔を思い出しながら。
「もうたくさんだ。私たちが一体何をしたというのだ。どうして見も知らぬ”難民“たちを受け入れて、こんな目にあわなければならないのか。絶対におかしい。扉を閉めるべきだ。もう誰も入れるな!」
グローバリズム、そして金融資本主義とデジタル化。これらは合理性の極致なのである。「論理的に考えれば、マーケットを空間的には無限大に広げるべきだし、さっさとタスクをこなすべく全てを1か0かに割り振って、計算できるようにするべき」という議論である。事実、これに沿って私たちは、米欧勢の統治エリートたちが語るがままに動いてきた。
だが、その結果、どうなったのか。約束されていたはずの富の均霑は起きず、むしろ格差は明らかに拡大している。「こういう時代になること」を平成バブル崩壊の時、あるいはITバブル崩壊の時、そして不動産証券化バブル崩壊の時に気づいた者たちはそれなりに備え、自らを鍛えてきたはずだが、そうではない者たちが大半なのだ。私たちの多くは今後は存続しえない「中間層」の存在を固く信じてまだ暮らしている。しかし、グローバリズム、金融資本主義、そしてデジタル化とは要するに1(=超富裕層)か0(=貧困層)かのどちらかに私たちの全員を再編成することに他ならなかったのである。このまま、このルールに則って動いている限りにおいては何も変わることはないし、事態はもっとひどくなるばかりだ。「難民」たちは結局、そうした形でますます広がる国内の矛盾を、国外で解決すべく繰り出していった結果、大量に生じているに過ぎないのだ。
ここで私たちはいよいよ「最後の切り札」を出す。それはかつて哲人フリードリッヒ・ニーチェが語った「人間的な、あまりに人間的な(menschlich, allzumenschlich)」カードである。私たちは合理的な判断をしなくなるのである。そうではなくてむしろ真逆の「不合理」を基準にした判断をし始める。
「何を愚かな」
そう、最初は多くの賢人たちがマスメディアで叫ぶことであろう。あるいは政治家たちも、今、この瞬間に「参議院選」を戦う与党候補者たちが叫んでいるように「合理的な判断をすべき」と絶叫することであろう。だが、彼らは全く分かっていないのである。
「愛すること」とはデジタルか?
「わが子を慈しみ、育てること」とは合理的な判断か?
「一生の仕事だと思って日々精勤すること」は金融資本主義があるからなのか?
「年収は下がってもやりがいのある仕事を選ぶこと」はグローバル最適解だからか?
・・・いや、違う。全くもって違う。
私たちは魂ある存在なのである。1か、0かではない。数字ではない。曖昧さもあるし、過ちも犯す。泣いて、笑って、喜んで、悲しんで。That’s our life、それこそが人生なのだ。
デジタル化が幸せにする?
グローバリズム、グローバル資本主義?
型どおりに英語がペラペラのグローバル人財になるべき?
そんなはずは・・・断じてない。この胸を叩いてみれば、自ずから出てくる自明な答えだ。それを否定して生きることに何の意味がある?世界最強のAI(人工知能)が命じるとおりに「最適解」の道のりをたどって何が楽しい?寄り道しても良いではないか?偶然の出会いを楽しむのが旅なのではないか?そう、人生は・・・旅なのではないか?「最適解」がなく、だからこそ常に満たされた気持ち(mindfulness)をもたらしてくれる。
「BREXIT」とは、新しい時代の始まりを告げる号砲だった。ヴォラティリティーを無理矢理に”演出“して投資家たちを儲けさせる「不確実性の時代」から、今やエンパワーメントを受けた私たち全員が本音で語り、本音で生きる「不合理の時代」へ。いよいよ、始まったのだ。新世界秩序(The New World Order)への猛ダッシュ。
・・・あなたには、それが見えるか?
2016年6月26日 東京・仙石山にて
原田 武夫記す