「『残酷な天使のテーゼ』に関する一考察」 (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
  1. HOME
  2. ブログ
  3. 「『残酷な天使のテーゼ』に関する一考察」 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

「『残酷な天使のテーゼ』に関する一考察」 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

「結局、世の中がこんな風になってしまっている窮極の理由はインターネットじゃないのかな。それまでならばつながることが絶対になかった人たちがつながってしまって、それで吸い寄せられ、平気で惨いことを寄ってたかってするようになってる。インターネットが無ければ、そもそもそんなことは起きなかったはずなのに」

世界で最も信頼しているパートナーから、こんなことを朝の起き掛けに言われた。確かに、と頷かざるを得なかった。

インターネットなるものが日常生活に入り込むまで、世界は私たちの頭の中で次々に沸き上がる思念に満ち溢れていた。あの人とつながりたい、しかしつながることが出来ない。―――そうした想いにかられた私たちは届かぬ気持ちを言葉に綴り、歌を歌い、絵を描き、踊り、そして共に泣き、笑った。待ち合わせ場所を決めていたのに出会うことがなぜか出来なかったなどというのは日常茶飯事であり、些細な偶然によってすれ違い、あるいは出会うことに人々は自らの宿命と運命を感じ取っていた。それが「オンリー・イエスタデイ(only yesterday)」の実相だったのだ。

そのころから、確かに“奴ら”は存在していた。無理やり世界を「悪と正義」に二分し、揺さぶろうとする“奴ら”だ。小学生の頃、私の趣味は国際情勢に関する新聞記事を切り抜くことだった。出口の無い「東西冷戦」を巡る記事の数々。子供心にその出口の無さに不可思議さと、「それでも出口はあるはず」と想いを巡らせていたことを今、懐かしく想い出す。

しかしそれでも”奴ら“は結局のところ、遠い彼方にいる連中に過ぎなかった。ヴァーチャル・リアリティが存在しなかった頃、”奴ら“は私たちの生活へと土足で入り込むことはあり得なかったからだ。

私たちの当時の世界といえば、あくまでも自らが見ることの出来る世界だけだった。確かにテレビはスウィッチをつければ遠い世界の出来事を伝えてくれていた。ただ、それもスウィッチがついていればの話なのであって、消してしまえば終わりだったのである。スウィッチ・オフの後に残るのは静寂と、己の思念に広がるむしろ広大な世界だった。

あの頃、好きな女の子がいた。13、4才の頃のことだ。学校が分かれてしまったものの、自宅の電話番号だけは知っていた。それと手元にあるのは相手の住所だけ。手紙を書いても親に見つかってしまって破り捨てられてしまう危険がある。残るは電話だが、これもまた大変勇気がいる。かけるべきか、それともかけざるべきか。逡巡し、ついには1時間近くも暑い夏の日、電話の前を行き来したことを今でもよく覚えている。私の頭は想念で一杯だった。

そして今。「電話番号を教えたらばLINEでメッセージしてきて困っている」という悩みを若い女性の知人たちからしばしば耳にする。いや、日常生活の一光景になったというのが本当のところだろう。「ケータイ」の番号を聴いたらばすぐさま推認される「LINE」のアドレス。そしてそれをめがけて無数に飛び交うヴァーチャル・リアリティにおけるメッセージ。そこで失われたのは確実に、ヒトがヒトたる所以であるはずの想念であり、思念なのである。だが、この頃私が物事を教える機会を持つ若者、学生たちはそのことに全く気付いていない。その代りに時には英語さえ駆使して、喋りまくるのである。だが、所詮、豊穣な想念、思念に支えられていない言葉は言の刃としてこの空間を動かすことが出来ないのである。私たち団塊ジュニアの世代とはうってかわって長身・長足・小顔になった彼・彼女らの自称「プレゼンテーション」は音波となって私の耳に届くが、”意味“をもたらすことが決してないのである。すごい世の中になった、実にそう想うのである。「思念・想念抜きの人間はそこで日向ぼっこをしている猫並み、いやそれに劣後する存在なのではないか」とすら想ってしまう自分がいる。

「結局、本をたくさん読んで妄想している学生たちは半ば引きこもりの連中が多いのですよ。そういう子たちに限って書く文章はしっかりしている。でも、喋らせるとうまくないのでどうしても人間関係がうまくいかない。なのでますます本の中に閉じこもる。その繰り返しです」

今時珍しく才気走った若い友人から、そんな風にも言われた。結局、想念や思念とはある種のコミュニケーション障害がもたらしてくれる代替物だったのかもしれないのである。デジタル・コミュニティとなり、コミュニケーションを巡る障害が一気に解消されれば、そうした代替物は一切不要になる。しかし、それによって失われたものは本当にないのか。「全く無い」と言い切ることが出来るのか。

外務省を10年前、自らの意思で出奔した時、私が味方につけたのは他ならぬデジタル・エコノミーだった。いや、正直を言うならばそれより遥か前から私自身の人生を変えていたのはインターネットであり、それが次々にもたらしてくれるシンクロニシティだったのである。

「ネット社会」という言葉がまだ希望にあふれていた2000年代初頭。私は人生最初の豊穣の時期である20代最後から30代最初の時期を迎えていた。件のパートナーからは「あなたはあの頃から変わった」と常々言われるのだが、それもそのはず、当時の私はまだ無邪気にインターネットにアクセスしては個人情報を掲載し、未来の自分へと連なる道を示してくれる他者とのつながりを求める多くの人々とのシンクロニシティを享受していたのである。

だが誤解無きように言うならば、そこでインターネットはあくまでもツールであり、世界の全てではなかったのである。ブロードバンド化が進んでいなかった当時、インターネットは時にえらく不便な代物だった。画像情報すら送るのは難しく、主たる意思伝達手段はといえば、ネット上でもせいぜいのところ電子メールだけだったのである。しかもHTMLは重くなるからダメであり、テキストでの送信が当然だった。当然、リアルタイムでやりとりが出来るチャットなどはあるにはあったがまだまだ低レヴェルであり、およそ実用に耐える代物ではなかった。ブログも流布するまで時間がかかったという事実も、今では遠い昔の出来事だ。

結局、インターネットはシンクロニシティを、普段ならば湧き上がることが無いレヴェルにまで引き起こすためのツールに過ぎなかったのである。その直後に良からぬ輩たちによって「事故」が次々に起り、例によって当局による規制が行われるようになるまで、インターネット空間がもたらす最大の贈り物は偶然性であり、それに対する期待という意味で私たちの脳内に次々に湧き上がる想念であり、思念だったのである。リアルタイムで「誰が、何時、どこで、何に関心を持ちながらネットにアクセスしている・いたのか」を時には無料で把握することが出来、それに基づきながらダイレクトにお目当ての相手にメッセージを“とりあえず”送ることの出来るビッグ・データ時代の今では考えられないことだが、かつてインターネットとはセレンディピティの巣窟だったのである。まだ私たちそのものであった想念や思念をかきたてるツールという立場に置かれていたのだ。

しかしそれで満足が出来る私たちでは決してなかったのも事実だった。「ネット・バブル」の中で一攫千金を手にする「ネット長者」たち(その実、彼・彼女らがやってきたことはゼロから一を創造するという意味での付加価値の創出ではなく、半導体開発を巡る「ムーアの法則」を巧みに乗りこなし、取引コストを下げる分、先行者として利益を瞬間的に獲得していたに過ぎないことが露呈するわけだけれども)に幻惑された私たちはやがて口々にこう言い出すことになる。

「もっと!もっと!!もっともっと!!!」

私自身、それは至極全うな要求だと思っていたし、今でも思っている。同じ大学のほぼ同じ年齢で、かたや8年も在学しながら中退し、ホームページ下請け屋からネット・ヴェンチャーの“雄”へと駆けあがり、巨利を得た奴。その一方で人一倍早く大学生活を切り上げ(3年間)、外務公務の世界へと飛び込んだ自分。前者が六本木で胸をはだけさせたミニスカの女性たちと乱痴気騒ぎをしている最中に、ほぼ24時間、私とその仲間たちは無味乾燥な書類の山であるデスクで働いていたのである。年収は前者が私の3倍、5倍、いやストックオプションを換算すれば天文学的な倍数分、上回っていた。理由は良く分からないが「これは不当だ、至極おかしいことだ」と私はある時目覚めたのである。そして己の人生を取り戻すため、自分の意思で娑婆に飛び出すことにしたのだ。

そして全くもって直感的に始めたのが、加速をつけて進展し続けるデジタル・エコノミーとそれが次々にもたらす出来事を分析し、可能な限り「これから先にそれでは何が私たちを待ち受けているのか」を描き出すという仕事だった。WEB2.0以降、情報はソーシャル・メディアを通じて無数にネット空間へと日々アップデートされるようになった。見知らぬ人たちが無償で、しかし貴重な現地の情報をアップし始めたのである。かつて外務公務であれば訓令を起案し、厄介な案件であれば外務大臣、そして首相官邸まで決裁を得てから公電として発電し、それでも動かない在外公館の同僚たちを電話でたたき起こしてはその執行を促し、ようやく返事をもらう、といった形で得ていた「現地情報」は今や、こうやってPCを独り早朝から叩いている私が瞬時にして得ることが出来る代物になった。「グローバルな情報収集」という意味でもはや外務省は要らないし、民間でいえば銀行や商社の調査機関など全く要らないのである。外務省に務めるかつての同僚たちは「何を言うか、ネット上の有象無象の情報など相手国政府が出す”公式見解“とは全くレヴェルの違う代物で、ゴミのようなものだ」といきり立つだろうが、何のことはない、ジュリアン・アサンジ(Wikileaks)やエドワード・スノーデンが登場して以来、続々とかつての極秘文書はネット上でアップされているのである。それを見越してか、米欧のリーダーシップを筆頭に、ソーシャル・メディアへの登録とそこでの発言は必須の振舞い(must)になっている。ネットの住人たちが圧倒的な優位性を持ち始めていることは火を見るより明らかなのだ。

だがそこでもデジタル・エイジから見ればオールド・エイジ(世代)である私があくまでもこだわっていることが一つある。それは想念であり、思念である。ヒトである己の脳裏に浮かび上がって来る想いそのものなのだ。私は毎日、誰もまだ目を覚ましていない早朝に独り起き上がってはベランダで深呼吸し、冬であれば空に輝く星を仰いだ後、やおらPC上でのネットサーフィンを始める。毎日毎日、決まった媒体を同じ時間帯に斜め読みすると不思議なものでいくつもの気付きが頭の中で湧いてくる。それを私は何時しか書き留め、そこで創り上げられたメモを手にあらためて考えたことを語り、あるいは文字で記すことにした。そして私はそれを人々に対して売り始めた。もちろん、味方にしたのはウェブ・マーケティングである。

するとこれまた何時しか私には既存のメディアと付き合う必要が基本的に全く無くなったのである。所詮は想念・思念が異なる出版社の編集者が突き付ける無意味なタイトル案を飲み込む必要はなくなり、私は書きたいことを、書きたい時に好きなだけ書き記し、それを「欲しい」と言って下さる方々に直接、リアルタイムでお分けすることが出来るようになったからだ。音声・動画にしても同じことで、昼間のテレビに出るべくスタジオという「箱」に向かい、余りにもスレンダー・小顔な美人タレントたちの隣に出てドキドキしながら、いじわるな質問を繰り返す司会者に対する不快感がこみ上げるのに耐えつつ、自らもタレント気取りをするというのが「動画に出る」ということとはもはや同義ではなくなったのである。これまた私が好きな時に、好きなことを、好きなだけ発言し、後はこれをソーシャル・メディアで世界に向けて発信すれば良いのである。ネット上の作法を多少心得ていれば瞬時にして1000人、2000人の視聴者が私の発言を画面上で見ることになる。「視聴率10パーセントだから1000万人が見ている」などといっても、結局は“ながら”で見ているテレビ視聴者の一体何人が本当のところ私の発言(せいぜいが15秒程度)を真に受けているのかは分からないのである。それに比べれば今の状況は雲泥の差であるとも言える。そしてそうした配信と引き換えに、私は代価をマーケットから頂くことになる。これもまた、かつて「役人」であった時代においてとは比べものにならない桁を日常的に目にしているというのが実態だ。

私がそこで想念・思念を抱き、書き記し、語り続けていること。それはたった一つ。まだインターネットなどというものが私たちの生活空間に土足で入り込む前のあの頃、私が新聞記事を切り抜いては日々感じていた件の”奴ら“についてだ。依然にもまして世界を、そして私たちの日常空間にある全てまでをも容赦なく揺さぶり始めた”奴ら“がこれから一体何をしたいのか、先回りして考え、備えることを愛すべき我が国の同胞たちに訴えることなのである。私が日々発する言葉の意味を十分知っている”奴ら“は、その世界的な媒体に私の言葉をいつしか掲載し、毎日配信するようになった。その意味で私の言葉は発された瞬間に捕捉されてしまっている。だが、私の想念・思念はというとあくまでも自由なのである。ヒトがヒトであることを謳歌するために必要な「燃料」であり、「着火剤」であるこの想念・思念は尽きることなく湧き続け、それをもって”奴ら“が蹂躙する我らが未来に立ち向かっているのである。そして私は、ある瞬間に”奴ら“に勝利することをも確信している。これはもう想念・思念などという柔なレヴェルではないのである。さらに言えば私自身がそこで一体どういった役割を果たすとになるのかもおぼろげなが見えているのである。

ナチスによって強制収容所にぶち込まれ、身体的な自由を完全に奪われるという窮極な経験をした実存主義的心理学者ヴィクトール・フランクルは、その普及の名著「夜と霧」の中でかつてこう書いたことがある:

「収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつ見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういうことはあったのだ。  強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人々について、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえ一握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶち込んですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。(中略)つまり人間はひとりひとり、このような状況下にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になれるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。 (中略)最後の瞬間まで奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最後の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした」

全能のように見える“奴ら”であっても、我が想念・思念をも支配することは出来ないのである。当たり前のように思えるかもしれないが、こうした絶対的な精神的自由こそ、ヒトをヒトたらしめているのだ。徹底したインターネット化はかえってそのことの意義に気付くことが出来るヒトと、そうではない(生物体)としての「人間」を無情にも峻別しつつある。いや、考えてみればそれ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのこと、なのだ。

昨夜、赤坂の気になっていた焼肉屋で気の置けない知人との会食を終え、ほろ酔い気分で帰りながら目にしたYoutube。そこで私はふとした弾みで「残酷な天使のテーゼ」を聴いた。どうしたわけか無性に耳障りがよくて、家に戻り次第、そこにいた我が息子とそのことについて話した。絶対音感のある息子に尋ねると「耳コピ」でこの曲は簡単に弾くことが出来るし、また実際にこれまで何度も弾いて来ているのだという。

「それじゃぁ明日の日曜日に弾いてよ」

「うん、分かった。おやすみ」

根っからのデジタル・エイジで、普通ならば想念・思念を奪われているはずの息子たちは、どうやら「音楽」というものを媒介項にすることで、そうした渦から逃れているようだ。見るとスマホを46時中いじることなどなく、勉強中はきっちりと別室で充電し、ネットフリーな時空間を創り上げている。

夜寝る前にもう一度だけ、「残酷な天使のテーゼ」を聴いた。これからやって来る時代のことをあてどなく想いながら。

2015年12月13日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

関連記事