どうしても理解を得られない話。そして安倍晋三さんのこと。(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 65)
最近は実に便利なもので、googleを検索しようとするとついでに「こんなニュースもありますよ」とこちらが関心を持ちそうなWEB上の記事を次から次に挙げて来てくれる。要するに「こちらの思考」がWEB上のトランスアクションから全て読み取られ、解析されているというわけなのだが、逆に言うと確かに便利ではある。インテリジェンス、そしてカウンターインテリジェンス(防諜)という観点からはいかがなものか、ということではあるものの、グローバルとアカデミア、そしてブロックチェーンにAI(人工知能)の世界へと蟄居している筆者のことなど、トラッキングしても何ら意味もないだろうに、それでもこのgoogleというのは24時間365日、筆者の思考と行動を追い続けている。全くもってご苦労さんなことである。
それはさておき。そうしている間にふと、大変興味深い書籍をgoogleがその様にして紹介してきてくれていることに気づいた。千本木啓文『昭和の女帝—小説・フィクサーたちの群像』(ダイヤモンド社)だ。実を言うと、同社にはこちらが持ち込み、先方編集者が内諾して受け取ったはずの原稿を事実上、リジェクトされたことがあり、正直、筆者は嫌いな出版社の一つだ(当時であっても著作権法を盾にこちらが「法廷闘争」に持ち込めば、十分勝てる案件であった)。しかし今回のこの本だけはどうしても気になったので読んでみた。昨日、東京から広島へと向かう新幹線の車中のことであったが、久方ぶりに一気に通読出来た。正直、面白い、そう思った。
恐らくはこの「事前公開動画」で”お勉強”をしていたせいかもしれない。しかしそれだけではなかなか十分「堪能」出来ないのもこの本なのである。なぜならばこの本には何重にもわたって「伏線」が敷かれている。つまり読む者が事前に得ている知識の”質と量”によって理解が全く異なって来るという代物なのである。それでは筆者はというと、「これまで見えてなかった部分が見えた」という意味で溜飲が下がった。以下にその何点かを書いておこうと思う。
まず、何故に戦後の我が国における「政体」、すなわち民主主義によって選ばれた者たちによる意思決定構造がこれまで保たれてきたのか、という点についてである。無論、我が国には日本国憲法があり、「選挙で物事を決めるのだ」ということを徹底的に刷り込む公民教育も行われている。他方で、「政治とは結局、経済利権分配だ」と上から下まで、そして左から右まで年がら年中、「代議士」とそのチームたちが駆けずり回り、政商たちがその甘い汁を得ている。しかし、だ。それだけでは「政体」は全くもって維持できないのである。そこには一貫した「筋」が必要であり、表向き出て来ずとも、これを陰に日向に支える人物が必要なのである。この本ではそうした「ヒト柱」をある一人の日本人女性の生きざまに求めている。曰く、「政治の世界で女は裏切らない。なぜならば裏切るともう政治の世界で生きてはいけなくなると理解しているのは女だから」なのだという。ありきたりな「ジェンダー論」的には噴飯ものかもしれないが、それが戦後日本政治における真実であったのかもしれぬ、と時に情感溢れる筆致でまざまざと描かれる主人公の生きざまに触れ、筆者も納得してしまった次第である。
そしてもう一つ。ロッキード事件における複雑な人物構造と、その背後において実質的な存在であった米国勢との関係性について、大変理解が深まった。時の宰相「田中角栄」が米国勢の虎の尾を日中関係、さらにはアラブ勢からの石油輸入で踏んでしまったからそのトラップ(罠)に引っかかったというところまでは人口に膾炙しているのである。しかしそれと同時に「児玉誉士夫」がなぜやり玉にあげられたのかという点が、これまで筆者にはどうしても解せなかったのである。ちなみにこの「児玉」が敬服していたというのが岩畔豪雄であり、その力で創設されたのが筆者の「母校」の一つである京都産業大学である。そうした”ご縁”もあって、「児玉ルート」を巡る謎はこれまでどうしても筆者の脳裏から離れなかった。今回のこの書籍はかくなるエニグマについても、明瞭な答えを出してくれている。「なるほど、そういうことだったのか」と理解した。
しかし、だ。一気に読了してからも実にこう思ったのである。「この本に書かれていることについて、一体どれだけ多くの我が同胞・日本人は理解出来るのだろうか?」と。
この書籍の中では途中で潰れてしまうことになっているが、我が国最大規模の製菓メーカーのオーナーと主人公「昭和の女帝」との恋愛話がさりげなく描かれている。「キャラメル」で有名な同社のことを想起する中で、筆者はふと、今は亡き安倍晋三との邂逅について想い出していた。折しも同氏を殺めたことについて裁かれる「山上裁判」の真っ最中において、である。
この「小説」の中で「児玉」にせよ、「昭和の女帝」の父であり戦前戦中、そして戦後早々における我が国最大のフィクサーにせよ、「我が国の自主独立」のために米国勢と手を組んだとして描かれている。目的のためには手段を択ばなかったというわけなのである。しかし米国勢の側からすると、それは「偽りの同盟」だったのであり、だからこそ最後の最後に「児玉」は処断された。そして、徹頭徹尾、同じラインで描かれているのが安倍晋三の父祖である「岸信介」なのである。徹底した日本独立主義者として描かれているこれら人物について、言葉少なではあるけれども、全てを知っているビッグブラザーたる米国勢は決して忘れてはいなかったことを著者は巧みに表現する。主人公「昭和の女帝」ですら、我が国有数の自動車メーカーのオーナー氏との甘い恋愛を、米国勢により逐一監視され、最後はそれをものの見事に打ち破られた。それでは結局、我が国とは、そしてそのリーダーシップとはどんなに気概を持ってしても、このビッグブラザー=米国勢を突き崩すことは出来ないのだろうか。
この書を読んでいて、そう想いながらも、一つの光明をも感じていた自分がいたことをここでは吐露しておく。筆者も著者(author)のはしくれであるので何とはなしに分かるのであるが、本とは「そこに書いてあること」ではなく、むしろ「書いてないこと」の方が重要なのである。この本の場合、それは何なのかというと端的にいうと次のようなことなのである。
―なぜ、高級官僚OBを中核とする自民党「宏池会」をこの「昭和の女帝」は支え続けたのか。なぜそれ以外の派閥ではないのか。
―米国勢が最終的なフィクサーであるとしても、「さらにその向こう側」にはいかなる存在がいると考えるべきなのか。
―これだけ戦後史について徹底して描いているにもかかわらず、なぜ、その中心人物である「昭和天皇」について全く言及がないのか。
最近、アカデミアの世界に片足を突っ込んでいるせいか、多くの若き学生たちと触れ合っている。彼・彼女らは「片言の英語」しか話せない筆者に比べればはるかに「グローバル」であり、「デジタル」でもある。しかし、こうした根源的な問いについては、というと全くもって問題意識すらないのである。ある時まで、筆者はそれでも時間をつくって学生たちを招き、読書会をやっていたが、最近それすらやめてしまった。なぜならば、文字通りの「暖簾に腕押し」であり、こうした根源的な課題についての「問題意識」の片鱗すら感じられないからである。
だからこそ思うのである。この本をなぜ、今、「彼ら」は世に問うことを許したのか。そしてまた、なぜ安倍晋三は死ななければならなかったのか。今、そのことを独り静かに広島・宇品の海を見ながら想いつつ、このコラムを書いている。それでもなお、わずかばかりの「未来からの曙光」を感じつつ。
2025年12月20日 広島の寓居にて
株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト
原田 武夫記す