満洲国の経験と日露関係 ~我が国はロシア勢といかに向き合うか~ (IISIA研究員レポート Vol.83)
ロシア勢によるウクライナ勢侵攻開始からおよそ2か月が経過し、事態は未だ予断を許さない。今回の戦争がいかに決着するにせよ、ロシア勢の隣国である我が国は常に同国勢との向き合い方を模索する必要がある。そのような思索の糸口として今回取り上げるのは満洲国である。満州国は我が国の関東軍により建国された多民族国家であるが、その構成民族の一つにロシア人が含まれていた。満洲国は、日露両民族が同じ環境において共生の道を模索した経験としても理解しうる。同国勢におけるロシア人の在り方を回顧することは、今後の日露関係を構想する材料たりうるであろう。
(図表:満州国の首都・新京の大同通り)
(出典:Wikipedia)
中国東北部へのロシア人の流入は、19世紀末のロシア帝国勢による鉄道敷設を嚆矢とする。ロシア帝国勢は中国東北部進出のため、シベリア鉄道と連結する形で鉄道を整備し、遼東半島の旅順までの敷設を実現した。加えて同鉄道沿線においてはロシア式のインフラストラクチャーが建設され、後に多くのロシア人が中国勢へと移住する素地を築いた。
ロシア帝国勢からの移民・亡命者は「白系ロシア人」と呼ばれた。特にロシア革命以後は多数のロシア人がソヴィエト勢の支配から逃れる形で中国北東部へ流入した。彼らはロシア正教への信仰とツァーリに対する崇拝を堅持し、政治的にはソヴィエト勢の社会主義を否定する立場にあった。このようなイデオロギーは彼らが設立したロシア人向けの民族学校にも反映され、ロシア帝国民としてのアイデンティティの世代を超えた継承が図られていた(参考)。
ロシア革命を経てロシア帝国勢の保有していた鉄道の利権をソヴィエト勢が継承して以降、亡命者のみならずソヴィエト国籍を有するロシア人も多数中国勢に移住した。帝政期からソヴィエト連邦時代にかけて、満洲勢は物資輸出対象として重要視され、体制の変革を経ても尚鉄道を通じた同地域への進出は継続された(参考)(参考)。
満洲勢に居住した2種類のロシア人はその数において拮抗し、当初は彼ら自身のアイデンティティにおいて対立した。尤も両者の対立は、彼らの子や孫の世代に至っては希薄なものとなり、寧ろ同じ言語を話し日常的に交流する中で、共通のアイデンティティが形成されていった(参考)。
(図表:満州国に設置された白系露人事務局)
(出典:Wikipedia)
我が国主導のもと建国された満洲国は、同地域に居住していた人々のアイデンティティに対し大きな衝撃を与えた。同国勢は国是として「民族協和」、即ち異なる民族が手を取り合い共に国家を発展させていくという理念を標榜していた。しかし建国から崩壊に至る13年余りの時間では、その高遠な国是に豊かな内実が伴うには至らなかった。満洲国において試みられた文化・教育政策はその実態において言わば諸民族の「日本化」であった。
日本人以外の「五族」に対し、彼らが「他者」であることを忘却、ないし否定することが「民族協和」の大きな一面であったが、ロシア人におけるその受け取り方は、中国人などのそれとはやや異なっていたようである。「民族協和」の内実を成すことを使命として誕生した満洲国の国立大学である建国大学のロシア人学生は、他の民族が被っていたような日本人からの差別を経験せず、同大学での日本式の生活や日本語教育を楽しんでいたという(参考)。これには、大学側が他の民族に比べてロシア人学生を丁重に扱ったこと、彼らの日本語能力があまり高くなく日本人学生と密なコミュニケーションを取れなかったことなどが関係しているのではないか(参考)。言わば彼らは、国民統合を急ぐ満洲国にあって、相対的にとは言え同化されることを猶予され、あくまで「他者」として扱われていたのである。
(図表:満州国に創立された建国大学)
(出典:Wikipedia)
兎も角、満洲国という存在は、ある程度の規模の日本人とロシア人が同じ環境で共生を試みた経験として重要である。現在の日露両国勢の長年の懸案事項としては北方領土問題が第一に挙げられるであろうが、こうした両国勢の共生の道を模索する場面において満洲国の経験を回顧することには意義がある。北方領土の帰属がいかに決着するにせよ、同地域が厳密に一方の領土と化すことは考えにくい。現状においても漁業における協力や草の根での交流活動がなされ、仮に我が国への返還が成ったとしても一定数のロシア系住民が住み慣れた土地に留まる可能性を考えれば、同地域の帰属問題は国民国家の枠組みに捕らわれず推移していくであろう。そのような中で我々が満洲国の経験から学ぶべき教訓は、相手が「他者」であるということを受け入れることの重要性ではないか。満洲国においては、「民族協和」の名のもとに他民族という「他者」の存在が無視されんとした。ロシア人という「他者」との共生の可能性を考える上でも、この点は重要である。満州国のロシア人に対しては、「民族協和」的政策が他民族に比べ行き届かなかったからこそ、却って深い禍根を残すことがなかった。我々とは全く異なる来歴を辿り全く異なる価値観を形成してきた他者が隣に居ることを受け入れ、その上で相手を理解しようと努めること、満洲国という我が国による多民族国家建設の試みに欠けていたものはこれである。そしてこの姿勢は、草の根においても、国家間のレヴェルにおいても不可欠なものであろう。
グローバル・インテリジェンス・グループ リサーチャー
多田 佑希 記す