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俺もカントシュトラーセ(Berlin)で考えた。(原田武夫の”Future Predicts”.」Vol. 59)

ようやく我が国においても秋が本格化し始める中、欧州へと旅に出ることにした。今、このブログはドイツの首都ベルリンで投宿しているホテルの一室で書いている。窓外にはティアーガルテンの紅葉が広がり、さらにはその中には「戦勝記念塔(ジーゲスゾイレ)」が屹立している。この街・ベルリンは筆者にとって外務省在籍時代に外交官補として留学を許された場所であり、いわば「第二の故郷(ドイツ語で言うならばmeine zweite Heimat)」というべき場所だ。実は溜まっていたAIプログラミングの案件があり、これに先立ち滞在していたウィーンでも半ば徹夜をしながら解いていたのだが、どうにもこうにもならずに困惑していた。しかしどういうことか、この地・ベルリンに辿り着き、2時間も作業をしているとたちまちこんがらがっていた糸が全てほどけ、期待していたとおり、我がアルゴリズムは仮想空間にあるサーバ上で24時間稼働し始めた。不思議なものだが、確かに「地味」というのはある、そう実感している。

今回の旅には大きく言って二つの目的ある。一つは会員制サーヴィス「原田武夫ゲマインシャフト」の会員各位から頂戴している会費から生じる利益の50%を用いて行うことを弊研究所として表明している社会貢献事業の一環として、有意な学生諸君に対し展開中の「アントレプレナーシップ/AI/グローバル・リーダーシップ」を巡る教育のいわば仕上げとして、ウィーンで毎年開催されているPeter Drucker Forumに選抜した学生たちと共に参加することである。そして明日(10日(ローマ時間))にはヴァチカン勢が開催する「AIと医療」と題したクローズドな会議に招待されたので出席する。本来ならば前者が終わり、後者に出席すべく、すぐさまローマへとウィーンから南下すべきなのだろうが、根っからの「ラテン系忌避体質」によるものだろうか(どういうわけか筆者は「ゲルマン系」の全てと水が合う)、イタリア語はついぞ学んだことが無いので、わずか2日ばかりではあるが、「第二の故郷」を訪れてみようと企てたわけである。

今このブログを書いている時間の1時間余り後にはもうベルリンを発つことにしているので、全くもって「弾丸出張」そのものなのであるが、そうした中でも「我が第二の故郷」に来て、いくつかの大きな発見をしたと強く感じている。

昨日(8日)は当地ベルリンにある「ドイツ・オペラ(Deutsche Oper)」に出向き、プッチーニの名作「トスカ(Tosca)」を観劇した。その行く道、果たしてどういった経路を辿ろうかと思案したわけであるが、素直に「歩く」ことにした。投宿しているホテルはブダペスターシュトラーセ(ブダペスト通り)にある。そこから少し歩くと「皇帝ヴィルヘルム記念教会」が屹立し、そこからクーダム通りが始まる。しかしそこでクーダムに入るのではなく、かといって動物公園駅(Bahnhof Zoologischer Garten)へと向かわない、第3の道を選ぶと「サヴィニー広場」へと連なるカントシュトラーセ(カント通り)を辿ることになる。そこから「ドイツ・オペラ」までは地下鉄で2,3駅ほどだろうか。歩くと優に40分弱はかかる。時間は夕刻を過ぎたくらいだったが、ヨーロッパセンター(Europa Center)で久々に食べた中華料理を消化するためにも(数日もアジア系を食べていないとついつい食べたくなるものだ。これもまた懐かしい感覚である)、珍しくタクシーには乗らず、夜の街を歩くことにした。

カントシュトラーセには実のところなじみが無かった。なぜならば筆者は在外研修時代、旧西ベルリン地区とはいっても、どちらかというとトルコ人街で有名だった「ノイケルン」と言われる地域に暮らしていたからだ。カントシュトラーセはその意味で未知であったが、40分近くも練り歩く中で、徐々にある感覚を思い出している自分がいることに気づいた。

この街路はいたるところに様々な民族の料理店が並んでいる。当然、道端に佇んでいる者たちもいわゆる「金髪長身」のドイツ人たちではない。アジア系、中東系、インド系、そして欧州系でも南欧系、さらには北欧系(ノルウェー料理店まであった!)と、一見して明らかに「非ドイツ系」としか思えない人々がより集っている。土曜日の夜ということもあって、ドイツの街にしてはかなりの人手であった。そして多くの方々が思い思いにより集い、談笑している。その瞬間に筆者の頭にはあるドイツ語の形容詞が思い浮かんだ。

「Bunt(多彩であること)」

我が国では英語でdiversityと言われて久しい。確かに外国人観光客は異様なほどに増え、時にオーバーツーリズムなども生じて、我が高市早苗政権は明らかに「反外国人政策」へと舵を取り始めている。しかし、何かしらこう、カントシュトラーセで見る光景は違うのである。外国人の数から言えば圧倒的にこの地の方が多く、またそこでの定住ぶりからいっても明らかにカントシュトラーセの方が「外国人に占拠されている」のである。そうではあっても、この街ベルリンは如何に首都となろうとも、そしてその意味で政治化されようとも、「多彩であること」を確かにやめてはいなかったのである。

そして街を気持ちよく歩いていると思い出してきたのである。あの時、そう、20代前半を過ごしたこの街で肌身を通じて体得したあの「感覚」を。

“Sei trotzig und kreativ”.

“Sei tolerant”.

「あらゆる既存の秩序に違和感を覚えよ。そして創造的であれ」。「汝、寛容であれ」。そう、この感覚こそが筆者が最終的に外務省を自らの意思で辞し、独り立ちした原点なのであった。あれから実に27年ほどの月日が経ったが、ここに来てようやく落ち着いて「この重大事」に気づくことが出来たと思う。しかも、我が国が決定的な転換点を迎えている、この瞬間に。

グローバルの現場に出ると恐ろしいくらい、我が国について語る者たちがいない。ウィーンにおける会議でもせいぜいのところ「何か変わった発展をして、一時期はイケイケだったが、結果として発展が途切れてしまった、今やとりあえず度外視しても良い国家」といった扱いを我が国はされていた。我が国にはもはや学ぶところはないし、ましてや唯一の武器であったはずの「カネ」すらないというわけであるから、諸国勢が寄り付くはずもないのである。そして例によって例の如く、我が国が不在なまま、グローバル秩序は海の向こうの彼・彼女らによって創り上げられていく。

そうした中で高市早苗政権は(繰り返しになるが)「反外国人政策」を打ち出したのである。「政府としての包括的な外国人政策を打ち出す」というが、そもそもそこには根底にある哲学を感じることが出来ないのである。しかし考えてもみて頂きたい、我が国は島国であり、海洋国家なのである。「中で煮詰まりやすい体質」を持っていることは「鎖国」という名の制限的外交政策を採用した江戸時代における経験から明らかなのだ。そこでは確かに諸国勢の流入はほぼ無かったので260年間も(驚くべきことに)体制が守られ、その意味で安定的ではあったものの、海外で既に始まっていたイノヴェーションの到来が遅れ、圧倒的な差をつけられた。この「歪み」のインパクトは大きく、その後の太平洋戦争にまでつながり、その前からとられていた近隣諸国の併呑と帰結としてのそこでの人流の意図的な転換(「国家総動員法」「国民徴用令」)に伴い始まった諸民族との(時に強制的な)混交は、やがて敗戦後の我が国における左翼運動の激化につながり、大きな歪身を残すことになる。そこで我が国の「国体」を率いる昭和の大帝は(直接的に関わった方々をメンターに持つ、我がメンターからの教えによれば)まずは「全員を食わせる(=食べることに困らないようにする)」ことを最優先とし、諸国勢には徹底的に「メイド・イン・ジャパン」を売りつけ、徹頭徹尾「国富」を我が国へと貿易によって移す一方、我が国自身は「海外勢に開かれているが閉じられた体制」をうまく創り上げ、国内で完結する「疑似ヒエラルヒー」を構築した。そして一部の優れた人士だけが「海外人材」として世界中を渡り歩き、「メイド・イン・ジャパン」を徹底して売り込む中(「炎熱商人」)、国内では英語すら使わずにも豊かな生活が出来ることを保障し、国内勢における歪な民族・社会構成を平たん化する努力を続けた。その結果生じたのが「平成バブル」であったというわけなのである。そこでは「疑似・国際社会」が創り上げられ、例えば東京・南大沢では「南欧風」の団地(!)すら登場した。全てがコンパクト、そして我が国の中で完結していたのである。

しかしそうした我が国の絶頂期は本当の司令官たる昭和の大帝が崩御されると共に音を立てて崩れることとなる。爛熟期に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の旗印の下、「海外で良い想いをした」世代に属するのがバブル世代の少し上に属する高市早苗・総理大臣である。筆者の亡き父親は、先ほど記した、平成バブルより前の「昭和」における「海外人材」に属する者であった。その父が存命であった時、ドイツへと意気揚々と留学に向かおうとする筆者はこう強く言われたことがある。

「外国に行ったらば、そこが欧州であれ、米国であれ、絶対に”誰も信頼してはならないこと”を忘れるな。日本人は基本的に奪われる対象だということを絶対に忘れないように。隙を見せたら最後、身ぐるみはがされるぞ」

国際会議に出たのは良いが、「国際儀礼(international protocal)」を度外視して、諸国勢の男性である国家元首・政治的リーダーシップたちに駆け寄り、これ見よがしに抱擁を繰り返す我が国の高市早苗・総理大臣の姿を見る度に思い返すのが、この亡き父の言葉なのである。むろん、「大量殺りく兵器」そのものである米空母に乗艦し、飛び上がって喜んで見せる同総理大臣の頭中にこうした「警句」が刻まれているならばそれはそれで安心ではある。しかし、その真逆であり、「奪われても余りある資産がそれまでの昭和の大帝以下の努力でまだ存していた昭和末期」における感覚の延長線上で「何とかなる」などと想っているのだとすれば大変なことなのである。そしてそのことは私たち日本勢全体について言うことで出来るであろう。奪われても黙することしか知らず、何を外国勢にされても「にっこり笑う」ことしか知らない我が同胞たちの未来は、このままいけば転落以外の何物でもないのである(その末期では今度こそ、原子爆弾を2度も投下されるなどと言うレヴェルではおよそ収まらない惨劇が待っていることであろう。)。

かつて岩倉使節団に途中まで同行した木戸孝允は、シベリア鉄道で欧州に向かう途中、今でいうポーランドに達した際、駅に到着した列車の窓外において物乞いをすべく押し寄せる亡国の民・ポーランド勢の姿を目にし、涙を禁じ得なかったのだという。その時の「恐怖心」とその裏側としての「克己心」、これこそが維新の大業を成すための原動力になったわけであるが、現在の私たち日本勢を巡る状況は正にそこに立ち戻ったとでもいうべき状況の「寸前」なのである。大陸欧州において、ナチズムの反省に基づき、「開かれた社会を創らなければならぬ」と決意をし、たとえメルツ連邦首相が「抑制的な外国人政策をとるべきだ」と主張しても、当然それに対して「まかりならぬ」と大きな声が社会のそこかしこであがり、実際に社会運動となっていっているこの地・ドイツ、そしてカントシュトラーセの繁栄を見たことで気づいたのである。「もっと別のやり方、もっと違う在り方がある」、と。ここに来て我が国大手企業の皆様もようやく「これはまずい」と気づかれたようであり、企業インテリジェンスを、と騒ぎ始めているとように見受けられる。しかしそこで必要なのはまずもって上記の意味での「国家感」であり、「哲学」であり、さらには「あるべき人間性」に対する深い洞察なのである。ようやく気付かれた各企業の最前線における皆様の努力が一時的なブームへと堕すことなく、本当の刷新へと連なり、それがやがて我が国全体を変えていく大きなうねりになることを強く期待して止まない。

カントシュトラーセを逍遥しながら思った雑感を胸に抱きつつ、いよいよ「スメラギ」とは対抗軸である「もう一つの普遍」を語るヴァチカン勢へと向かうこととしたい。ローマでは、いったいどんな風が吹いているのだろうか。

2025年11月9日 ドイツ・伯林にて

株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 ファウンダー/代表取締役CEO/グローバルAIストラテジスト

原田 武夫記す