ハイコンテクストな日本語は得か? (“情報リテラシー”教育の発展とその向こう側(Vol.19))
皆様、新年明けましておめでとうございます。本年も何卒宜しくお願い申し上げます。
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さて、現在リスキリングということで再度英語を勉強中である筆者であるが、先日TOEFLの練習問題を解いていると“high-context language”の例として“Japanese”が登場した。その一般的解釈から、今後我が国に必要となる要素について掘り下げてみたいと思う。
そもそもこのハイコンテクストとは、文化人類学者であるエドワード・ホール(Edward T. Hall)が1976年に発表した「高コンテクスト社会と低コンテクスト社会(high-context society vs. low-context society)」という概念からきている。これによると、「ハイコンテクスト社会」とは、伝統など長年に渡って培われてきた普遍性・汎用性のあるものが広く社会で共有されている状態を指し、これに対して「ローコンテクスト社会」とは、そのような前提として共有された知識ではなく、人為的なもの(国歌、国旗、特定のスポーツ競技・チームへの応援etc.)を介在することで社会のまとまりを生み出すことを指す。つまり、ハイコンテクスト社会には言葉に行間があり、ローコンテクスト社会では、意思疎通のために発する“言葉そのもの”が重要であると考える。
この差を作り出すのは、例えば移民の割合が多い国であるかどうか(髪の毛や瞳の色などの生物学的な見た目に類似性があるか、多様性があるか)、数千年に渡る歴史を国民が共有しているかどうか(国民に共有されている歴史観や、言語などを含む文化的背景に大きなバラつきはないか)が挙げられる。なぜなら、一般に、異文化交流時にはお互いが暗黙裡に持つ文化的背景に頼った推測ができず、その結果として言葉の説明に頼るローコンテクスト状態になるためである。したがって、異文化交流が活発な場において、ローコンテクスト文化の形成が促進されるのである。
また、この異文化交流が保たれ、その結果ローコンテクスト文化が形成されるか否かは、「資源や産物が偏在し、交流の手段がある」、「交流した結果、単一の文化が形成されにくい」という地勢的・生態的要因と関連する。ハイコンテクスト社会で代表的な我が国は、見てのとおり“島国”であり、同じくハイコンテクスト社会と見られる中国勢は、隣接する国はあるものの広闊な平野において漢民族を中心に文化的統一が進み、後者の条件が満たされないと考えられる。
確かに、日本社会において「空気を読む」ことが重要視される傾向にあることや、日本語においてこそあど言葉(これ・それ・あれ・どれ等の指示語の総称)、オノマトペが発達していることを鑑みても、我が国がハイコンテクスト社会であると言われても違和感はないように思う。
世界有数の国際ビジネススクールINSEADの教授でもあり、異文化マネジメントに焦点を当てた組織行動学を専門とするエリン・メイヤー(Erin Burkett Meyer)は、“The Culture Map: Breaking Through the Invisible Boundaries of Global Culture of Reinvention(異文化理解力 -相手と自分の真意がわかるビジネスパーソン必須の教養-)”の著者であり、世界で最も注目すべき経営思想家の一人として、2015年「Thinkers50」に選出されている。そんな彼女も、我が国のコミュニケーションは世界で一番ハイコンテクストであると述べている。
身近な話題を例に挙げると、男女間の会話で「察してよ」と聞くのは、ハイコンテクスト文化だからこその発言と呼べるかもしれない。少なくとも、我が国に古くからある「阿吽の呼吸」や、2017年政治問題に関して広く使用され、同年の「新語・流行語大賞」の年間対象に選ばれた単語が「忖度」であったことも、このハイコンテクスト社会だからこそであると伺える。
一方、ローコンテクスト言語の代表である英語は、一般に主語・述語の両方が欠けることなく使用される(日本語では、見かけ上主語が欠けていてもコミュニケーション可能な場面が多い)。これにより、ダイレクトで主張が激しいと感じる場合もあるが、同時にシンプルで明快であるということでもある。例えば、学校における先生からの宿題の説明や、社内における業務指示などであれば、コミュニケーションの食い違いを未然に防ぐメリットとして「ローコンテクスト」を捉えることができるだろう。特に、コロナ禍以降急速にオンライン化が進んだことにより、ビジネスシーンにおいて、相手の細かい表情やニュアンス等、言語外の情報(=コンテクスト(文脈))で補える範囲が狭まった。これにより、ローコンテクストな考え方が好まれる場面も少なくないのである。
無論、ハイコンテクスト社会とローコンテクスト社会の優劣について意見するつもりはないが、上記に加えて「異文化」と触れ合うことが良しとされ、近年益々海外勢との交流が推奨されるような世の中、我が国がハイコンテクスト文化からローコンテクスト文化ヘと一直線に進んでいるような気がするのは筆者だけであろうか。
先月末、弊研究所ファウンダー/代表取締役CEO・原田武夫が弊研究所公式YouTube及びInstagramにて、「IISIA年越しライブ2024-2025」を行い、その前半1時間では、今我が国に必要なことと今後の社会貢献事業についての話があった。
(動画:IISIA年越しライブ2024-2025)
(参照:YouTubeより)
我が国において、知識伝播・技能伝承という「想いの伝承」が急務であるというのは、団塊の世代が持つ“知恵”や“匠の技”が失われずに、後世に引き継がれることに大きな意味があるということだが、今回のブログテーマ「ハイコンテクスト社会」という要素も相まって、我が国における「想いの伝承」の重要度が高まっているように感じる。なぜなら、ハイコンテクスト的な「俺の背中を見て学べ」論では、継承しきれずに取りこぼしてしまう要素があると考えるからである。今後は、引き続きこの点を課題と捉え、弊研究所独自の社会貢献事業を展開していきたい。
※当ブログの記述内容は弊研究所の公式見解ではなく、執筆者の個人的見解です。
事業執行ユニット 社会貢献事業部 田中マリア 拝
ご覧いただき、ありがとうございます。今回提示した「ハイコンテクスト社会」、及び我が国の「想いの伝承」という課題に対するご意見などは、ぜひこちら(https://form.run/@bdg-sYGY4OE6bnrwAjSWIzBu)までお寄せくださいませ。
【筆者プロフィール】
田中マリア:高校2年次と大学4年次にそれぞれ約1年のオランダ留学を経験。大学では、オランダ学と社会教育学を専攻し、卒業論文は「日本の初等教育の改善-モンテッソーリ教育からの示唆-」というテーマで執筆した。大学卒業後は、一般保育園にてフリー保育士としてパート勤務をしながら、国際モンテッソーリ教師資格(3-6歳)を取得。2024年4月より株式会社原田武夫国際戦略情報研究所ヘ入所。現在、社会貢献事業を担当する。
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