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2018年12月04日 #

秋篠宮殿下は何と闘われていらっしゃるのか

秋篠宮殿下が先月30日、53歳の御誕生日を迎えられた。それを控えた同22日、宮内庁記者クラブを対象とした記者会見を行われたのであるが、その際の殿下のお言葉が大きな反響を呼んでいる。

来年、我が国では今上陛下が退位され、皇太子殿下がお代替わりされる。それを踏まえ、日本国憲法上の国事行為として「即位の礼」が行われ、それと同時に皇室行事として「大嘗祭」が行われることになる。そしてこの後者の費用負担について、秋篠宮殿下は御見解を明確に述べられたのである。端的に言うとその際、殿下は宮中行事である「大嘗祭」について、国費負担とすべきではないとおっしゃられたのである。

「私として,やはりこのすっきりしない感じというのは,今でも持っています。整理の仕方としては,一つの代で一度きりのものであり,大切な儀式ということから,もちろん国もそれについての関心があり,公的性格が強い,ゆえに国の国費で賄うということだと。平成のときの整理はそうだったわけですね。ただ,今回もそうなわけですけれども,宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに,それは,私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。ただ,それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ,そのできる範囲で,言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし,そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ,残念ながらそこを考えること,言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」

大変短いステートメントであるが、グローバル社会におけるこれからの我が国の在り様を考えるにあたって非常に深い意味合いを持ったお言葉であると私は考えている。ところがこのお言葉を受けて、インターネット上では「そもそも即位の礼や大嘗祭は皇太子殿下が中心となって執り行われるのであるから、秋篠宮殿下はコメントをする立場にはないのではないか」などと的外れな議論が一部見られる。これを正し、あるべき形で忖度するために、一方ではかつてキャリア外交官時代に1999年に行われた秋篠宮同妃両殿下のドイツご訪問の際の通訳官であったこと等の直接的な体験を踏まえつつ、他方においては日独比較を中心とした憲法学をも修めた者として、この問題について考えてみたい。

今回の秋篠宮殿下のお言葉はいくつかの前提となる知識がなければ理解出来ないものである。第一に「国費負担」とするということは当該行事の全てについて国民代表である内閣、すなわち「政体」勢力が事実上差配できることを意味している。第二にお代替わりのために行われる行事には外国賓客も大勢招いて行われる「即位の礼」とは全く違う性質を「大嘗祭」は持っているのである。それではこの二つを掛け合わせた時に一体どの様な意味が出てくるのであろうか。

この点を理解するカギは大嘗祭に対する正確な理解にある。古代からの有職故実を踏まえ、大嘗祭は太陽暦でいう11月の「卯の日」に行われるべきものとされている。このことを踏まえ、今回のお代替わりに際しては11月14・15日に執り行われることが宮内庁より発表されている。少なくとも表面的に見る限り、ここまでのところで問題は無い様に思えなくもない。

大嘗祭は天皇陛下が自らの即位を神との関係で証明するための、我が国神道特有の宗教行事である。その内容は実に神秘的であり、謎に満ちたものだ。紙幅の都合上、ここでは詳細を述べることは控えたいが一言だけポイントを述べるならば、主基(すき)と悠基(ゆき)をあらかじめ我が国における地域から選ばれ、そこで育った稲を奉納したそれぞれの神殿をまたぐ形で即位する天皇陛下が儀式を自ら執り行うところに注目すべきである。ここでいう「す」と「ゆ」を結ぶところに神道の奥義である言霊論における本質がある。そしてそれは、天皇陛下が自らの立場を宣明するために欠かすことの出来ない、文字どおりのレーゾン・デートル(存在意義)がかかった重大行事に他ならないのである。

この大嘗祭に対して国費をもって支出することについてはこれまで憲法論上、様々な議論が繰り広げられてきたことは事実である。だが、それらはいずれも日本国憲法第20条が明文をもって定める「政教分離原則」との関係でのみ語られてきたのである。これに対して我が国政府は大嘗祭に対する国費支出は違憲ではないとの見解を貫き、現在にまで至っている。今回もこの「前例」を踏襲したものであることは明らかだ。

しかし、である。この様にして「政体」勢力の側が国費をもってその費用を賄うということはイコール、「政体」勢力を巡る様々な状況によって大嘗祭そのものが左右されてしまう危険性をはらむことを意味しているのである。このことは国民主権が憲法上、至高の原理とされている我が国においては至極当然のことの様に思えるかもしれない。しかし「大嘗祭」という皇室行事そのものが、そうした政治の論理を超えた、精神界と現実界をつなぐための宗教行事であると考えるのであれば、そこに本来「政体」勢力による縛りがかかるようなことは一切慎むべきでなのである。

そしてこのことは、弊研究所が半年に1回公表している予測分析シナリオにおいて明確に述べているとおり、来年(2019年)秋頃から我が国におけるデフォルト・リスクの明らかな高まりが見られるようになり、早ければ2020年春にデフォルト(国家債務不履行)処理が始まる危険性すら出始めているという金融マーケットの内奥における「現実」を踏まえるならばなおさらそうなのである。大半の国民が想定すらしていない、「先進国であるはずの我が国が国家破産する」という事態を前にして、国家財政上の支出を極限まで切り詰めるべしという議論が出てくるのは至極当然の流れなのだ。余裕が全くなくなれば思慮を失うのが人間である。日本国憲法上も「国民統合の象徴」と明記されている我が国の象徴天皇制をも支える重大な行事としての「大嘗祭」について、約22億円余りと想定されているその費用の大幅な削減を「政体」勢力が求め始めることは容易に想像できるのだ。下手をすると天皇陛下がそのお立場に就かれることを阻害しかねない蛮行であるなどと言う議論はそうなれば無視されかねない。そしてこうなることこそ、我が国の根本が揺らぐ絶体絶命の危機につながるなど、全く理解できなくなっているのが悲しいかな、今の我が国における現実なのである。

第二次世界大戦を「終戦」に持ち込む際、連合国に対し、時の我が国政府が「国体護持」を要求したことはよく知られた史実だ。しかしそこで本当のところ、何を我が国政府が要求したのかについてはつまびらかにされていないのが実態でもある。そしてこれに対して連合国側が具体的にどの様な対抗要求を行い、妥結に至ったのかはさらに歴史の闇の中にあるままなのだ。

この時、我が国の「国体」勢力の根幹に位置していた向きの直接の係累の人物から、連合国側からの「本当の要求」は複数あり、かつ、これらを我が国の「国体」勢力は涙を呑んで受諾した、だからこそ現在の象徴天皇制が存立し得ているのだという非公開情報を直接教えて頂いた。その性質上、ここではあえてつまびらかにしないことにする。しかし一つだけはっきりと言えるのは、ちょうどこのタイミングでどういうわけか諸外国が盛んに我が国に対する「陣地取り合戦」を繰り広げ始めていることが次々に明らかになっているということなのだ。フランスを筆頭とした外資勢の陰がちらつく「水道民営化」しかり、米軍以外でははじめてとなる我が国領土における共同軍事演習を陸上自衛隊と共に行ったイギリスしかり、さらには突然、平和条約締結を申し入れてきたロシアしかり、なのである。

そしてこれら諸国勢の要求を、平成バブル崩壊以後、明らかに体力を弱め続けている我が国政府=「政体」勢力の側は次々に受け入れ、着実に実現してきているのである。そうした中で諸国のリーダーシップが注目してやまないのが我が国皇室のお代替わりに他ならないのである。かつてGHQと言う名で土足にて我が国に入り込み、「対日管理」を行う中でぎりぎりまで追い詰められたのが我が国皇室なのである。そのレーゾン・デートルを握る「大嘗祭」の在り方に彼らが無関心であり、それを忖度する我が国の「政体」勢力が不穏な動きを示さないという保証が一体どこにあるのであろうか。そして仮にそうした危惧が現実のものとなってしまった場合、我が国は古来言う意味での「我が国」では、もはや無くなってしまうのである。

繰り返しになるが、以上はあくまでもこれまでの公的・私的な体験を踏まえた筆者自身の「忖度」を述べたものに過ぎない。だが、一つだけ明確なことがある。それは秋篠宮殿下が何か巨大な、姿を見せない鵺と闘われているということなのである。そのことをグローバル社会の大波にますます翻弄され続ける我が国に暮らす私たち国民であるからこそ、今、ひしと受け止めなければならない。私はそう想っている。

平成30年12月4日 東京・丸の内にて

原田 武夫記す

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