勇者と夕陽
ここ数日珍しく冬の青空が広がっていたタリンですが、同時に気温も一気に下がり、時にマイナス15度を下回る日々でした。貴重な日光…という気分もあり、そんな中外に出ては日本の友人に同情されていましたが、私としては日本の足もとからまとわりついてくる冬のほうがよっぽど寒いと思います。お風呂場の寒さを思い出しただけで鳥肌が。日本の皆さんに同情します。
それはさておき、そんな晴れた夕方ふと散歩をしてるときに気づいたのですが、夕陽があまり赤くないのです。
おそらく季節時間帯や場所によって異なるとは思いますし、普段意識していないだけで日本でも時期によってはそうなのかもしれません。ただその日は夜が忍び寄るというか、視界の端から電球でも切れたかのように少しずつ暗くなっていき、気づけば唯一の黄色い光が地平線に落ちてしまった、といった印象でした。なるほど確かに太陽は輝いており、我々は暗い宇宙を見上げていて、光照らしてこその青空なのだなと感じました。そういえば普段曇っている夜空は光の反射のせいか薄っすらと(むしろ夜のほうが)赤みがかかっており、晴れた夜空が思ったよりも真っ黒で改めてはっとしました。ちょうど満月にも近く、教会の塔にかかる月が非常に幻想的で綺麗な夜でした。
もちろん燃えるような夕焼け、一面のピンクと紫のグラデーション、夜空も青空も同等に空に色をぶちまけているあの感じも大変美しいと思いますし、そういう夕焼けにはやっぱり無粋で無機質な電信柱や電線の影がいいんじゃないかなとも思います。
フィリピン人の友人が初めて夏の日本に来たとき、真っ盛りのけたたましいセミの大合唱を聞いて、アニメで時々あるこれは、誇張ではなくて本当だったんだねと笑っていたことがありました。エストニアの人も真っ赤な日本の夕暮れを見たら笑うのかもしれません。
海外にいると楽しいなと思うのは、こうやって当たり前のことは当たり前ではないということに、何度も何度も気づかせてくれることです。また、世の中には色んな常識があるのだから、何にこだわることもないんじゃない、と肩でも叩れている気分になること。
本を読んだり映画を観たり旅行したり、そういうインプットをいわゆる「仕事」と比較して非生産的な余暇だと片付けてしまう人がこの世にはいるよう(この間中々にそっち方面に尖った人に出会って思わず感嘆の声を上げてしまいました)です。
そんな人が、彼のその大得意な仕事で、今後海外進出にも力を入れていきたいと言っていました。それはちょっと無理だろうと、彼が嫌悪すべき怠惰な趣味人である私は心でつっこんでいたりするわけですが、だって自身の経験の範囲だけで凝り固まった常識を掲げて突撃して、うまくいく要素が見当たりません。日本人はハイコンテクストなので私の常識は日本の常識だと信じて東京に飛び出してきた私が大学時代どれだけのカルチャーショックを受けて精神的に不安定になったか。東京ではお好み焼きをピザみたいに切るんですよ!許せないでしょ!そんな人たちと信用第一のビジネスなんてできっこない!
あるいは教養とでも言葉を変えればまた彼の反応も別だったのかもしれませんが、それにしたって万事において、想像力ってめちゃくちゃ大事だと思います。その想像力がどこから来るのって考えた時に、純真な子供心を失った大人に残された唯一の道が、所謂そうした「非生産的な余暇」ではないでしょうか。少なくとも自分の想像も発想も全く及ばない物事や考え方が数多くあるのだ、とわかっているだけでもショックが和らぐというか、異質な他者に寛容になれるんじゃないか。そんなふうに思います。実際の体験が第一だとは思いますが、それを補うものとして数多くのメディアは十分に有用でしょう。
私は昔からとにかく児童文学が大好きで、それこそ思考回路の半分くらいは魔法とファンタジーでできているであろうおめでたい人間です。去年、ふと昔読んだ児童文学をもう一度開いてパラパラとめくったところ、その立ち現れる画があまりにも当時と違うことにびっくりしました。リネンの服も革のベルトも、今にも崩れそうな木の小屋も、石畳を走る馬車も、ランタンの明かりに誘われて入る半地下の酒場で飲む黒くて匂いのきついビールも、小学生が最大限に発揮する自由な想像力を持ってして描ききるワンシーンより、今の私がふと頭に思い描くそれのほうがよほど情報量が豊かなのです。
それは一重に小学生の私が持ち得ないあらゆる知識、そしてその雑多な頭の中のあれこれを結びつけられるようになった経験とか時に抽象的な思考の賜物です。
中国で広大な長江を初めて見たとき、そりゃ巨大な龍も出てきて天に登りたくなるわ、と思わず納得しました。小学生の私ならもっと変な生き物の姿を見れたかもしれません。しかし黄鶴楼で友を見送り、あの大河にその姿が霞んだときに口ずさみたくなる詩歌にまで思いを馳せられるのは今の私だからでしょう。
イタリアで港を見たとき、ヴィーナスが誕生する水平線はここにつながっているんじゃないかと思いました。水や空の色、雲の形がとっさにそれを想起させるほどにそっくりだったのです。このごく断片的な美術の知識が納得できる形に繋がったときの感動も、大人の特権だと思います。
子供の純真さからくる発想力をなくした大人は、知識と経験でそれを補うしかないのです。
少年漫画や少女漫画で、ものすごい天才キャラを除いて、体育よりも算数が得意な主人公が少ないのはどうしてだろうと思っていたのですが、多分、体育の得意な少年少女は魔法や勇気の力を持ってして悪い大人に一撃を食らわせることはできるだろうけど、ちょっと算数が得意なくらいでは大人の経験と悪知恵の豊富さにはかなわないからじゃないかと今になって思います。
ただそれはあくまで発想力や想像力を補うために使うべきで、自分の中の絶対的な常識を作り上げて固執するためのものではありません。経験は大事ですが、体験できる範囲にはかなり厳しい制限がありますし、できれば体験しないほうがいいことだって数多くあるはずです。
この4月で残念ながらエストニアからは撤退の予定になりました。一旦日本に帰国しますがまだその先は正式に決定していません。どんな環境であろうとも、出来るかぎり自分の常識をつまらないもので固めてしまわないように、想像力を忘れないように、改めて身を引き締めていきたいと思います。赤い夕陽を見て笑ったり怖がったりするかもしれない人と、またいつ仕事と言う名の大冒険に乗り出すかもわかりませんし。
【プロフィール】
楼 まりあ
神戸・東京・マニラのオフショア開発を繋ぐブリッジSEとして、そして東欧での新拠点を
リサーチするため現在エストニア現地企業で外部契約社員としてタリンで在宅勤務。
大学時代、マニラオフィスのオープンスタッフとして1年間マニラに滞在。NYでインターン経験有。
東京大学経済学部卒。