今だからこそ華僑ビジネスに学ぶ。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
実にすがすがしい日曜の朝である。率直に言うとゴールデン・ウィークの連休中はどうにもこうにも「気」が悪く、落ち着かなかった。それが一変したように想う。自然(じねん)とはかくも偉大なるものである。
今日はかねてより、アジア通貨経済危機の頃に相次いで亡くなった叔父たちの法事を、遺された叔母たちと共に行うことになっている。我が母方の一族はいわゆる「印刷業界」の住人であった。今では広告とういとウェブ全盛だが、平成バブル当時、「チラシ」「包装紙」などで最も潤ったのがこの業界だった。文字どおりの「下町のプレタリアート」印刷工であった祖父(故人)の次の代の叔父たちはやがて巨大化していく印刷セクターの波に乗り、起業し、それなりに豊かな生活を享受することが出来た。
だが、そこに来て平成バブル崩壊が生じたのである。このセクターも我が国において御多分に漏れず、「垂直統合的」であり、専門的な一工程を担う「下請け」である多くの企業には社長のトップ・セールスという発想はあっても、マーケティング、さらにはイノヴェーションと新規事業参入などという発想は無かったし、許されていなかったのである。そのため、叔父たちはそれこそ身を粉にするまで働き、親元である巨大印刷会社の担当に対して夜な夜な接待を繰り返し、「何とかなりませんか」と掛け合っていた。
だが、どうにもこうにもならないのである。何せフレームワークそのものが変わったのであるから。叔父たちはなすすべを知らないまま、失意のまま身体を壊し、やがて命を落とすことになった。下町の、しかも職人気質の男たちは実は無口である。人知れず深く悩んでいたはずなのだが、遺された私たちは一体、それが何であったのかを知らないのである。そしてまた今日、「回忌」の日を迎えた。
このコラムは全国津々浦々で大小さまざまな企業を経営されている経営者の皆様がお読みになられていると存じ上げている。どうだろうか、率直に言ってそうした皆様の悩みも全く同じなのではないだろうか。あの時、なすすべもなく心労が故に命まで落とすことになった叔父たちの正に「一歩手前」まで行かれている方もいらっしゃるものと拝察する。
そんな中、誰かを攻めるのは簡単だ。「アベノミクスが悪い」「役所が悪い」「カネを貸さない銀行が悪い」「取締役が悪い」「部長が悪い」「従業員が悪い」「ゆとり世代の新入社員が悪い」「出入り業者の態度が悪い」「サーバが悪い」「パソコンが悪い」・・・そしてしまいには「家で飼っている犬が悪い」とまでなる。冗談ではない、本当の話だ。局面局面で何かに原因がある、しかも”自分以外の誰か・何かに原因がある“と考えることを「他責」という。だが懸命なる経営リーダーはこうではいけないとういうことを知っている。株価が下がろうが、為替が円高にぶれようが、それでもとにかく売上を守り、いやもっといえば「売上をそういう時だからこそ伸ばし」かつ永続的なシステムを創り上げている。そういう経営リーダーはどこにでもいるのである。
苦境であればあるほど、実際に考えるべきは「だから必ずそこには抜け穴が一つだけあるはず」ということなのだ。そこからなのである、全ては。つまり行うべきなのは、他ならぬ貴方=貴女=YOU=経営リーダーご自身の頭の中にある思考の枠組みの組み換え、なのである。これを「リフレ―ミング」という。リフレ―ミングを行うために必要なのが「結局は自分が間違っていたのではないか」という“自責”の発想なのである。私の経験から言っても、この様な思考回路を辿って深い自省を行い、新たな枠組みを発見し、それをベースとした次の一歩に踏み出すことに成功された経営リーダーは必ず成功する。
そのことを前提に、今朝のすがすがしい「気」を胸いっぱいに吸い込みながら思ったリフレ―ミングのための“ネタ”が華僑ビジネスなのである。結局、グローバル・ビジネスとは国境を跨いで暮らすことをかねてより余儀なくされている民族集団が得意と決まっている。しかもグローバルな現場には「総理大臣」もいなければ、「政府」もなく、下手をするとパスポートを出してくれる「国家」すら存在しないのである。あるのはただひたすら“自分”だけなのである。ところがそうであるにもかかわらず、こうした民族集団は必ずマーケットにある「抜け穴」「歪」を見つけ、そこを一撃必打で奪い取り、すさまじい利益を上げる。そしてそのことを繰り返しながらファミリー全体としての存続を確保してきているのである。
そうした民族集団は世界に2つある。「華僑」と「ユダヤ」だ。私たちの研究所は後者という意味では政府間会合であるG20を支えるグローバル・ビジネス・リーダーの集まりであるB20を経由して付き合いを持っている。普段はこちらの話をすることが多いと思うので、今回はあえて前者について話を書ければと思う。そして私が実際にビジネスを行っていて思うのは、「華僑」といっても二つの集団がいるということである。これがまず基本とすべき認識なので、そこから書くことにしたい。
いわゆる典型的な「華僑」とは、清朝末期“までに”何等かの理由で故郷を追われ、中国大陸から飛び出したグループである。いわゆる「五大客家」もそうであるが、横浜や神戸などに陣取っている「華僑」もこれに属している。そしてそこで根付き、出生までした人たちのことを「華人」と呼んでいる。これがまず一つ大きなグループである。ここでは「古典的な華僑」と呼ぶことにしよう。
そしてもう一つは、天安門事件(1989年)を契機としてパージされ、一旦は中華人民共和国の国外へと逃げた勢力である。こうした勢力は多くの場合、「改革開放路線」の先頭に立って中華人民共和国という意味での”中国“の資本主義化を推進していたものの、天安門事件をきっかけに始まった思想粛清の中で犠牲となり、命からがら逃げ出たのである。その時の子供たちで生き残った者たちは当然、まずは着の身着のままであったが、徐々に頭角を現し、西側諸国、とりわけ米国で高等教育を受け、現在に至っている。その後、むしろ経済発展のためにこうした者たちが使えると判断した中国指導部は彼・彼女らの帰還を許したが、賢いこれらの者たちは決して本拠地を中国本土に設けはしないのである。一族の一部(大抵の場合、共産中国によって人質にとられてしまった「長男」)を北京に根付かせながらも、上海や海南島、あるいは香港といったところにより小規模で移動可能な拠点を構築し、ビジネスを行っている。ここでは彼・彼女らのことを「新しい華僑」と呼ぶことにしたい。
もっともここでお話ししたいのは「古典的な華僑」にせよ、「新しい華僑」にせよ、その大局的な話ではないのである。そうではなくて、彼らにほぼ等しく共通しているビジネス上の日常的な”振舞い“なのである。読者の皆様、とりわけ経営者の皆様にとって覚えやすい(実践しやすい)ように箇条書きで以下書いていくことにしたい:
―「世界中に“弊(ぱん)”となるべき人士を求めるが、その際にはその人物が語るロジックをまずはよく見ること」
華僑リーダーと出会った時、彼・彼女があなたのどこを見ているのかというと、肩書や役職、それに家格などでは全くないことに注意する必要がある。むしろあなたが語る言葉がどういったロジックによっているのか、なのである。端的に言うならば「既存の枠組みの外側を考える(think out of the box)」ことが出来るかどうか、“リフレ―ミング”が自分自身で出来るかどうかである。なぜならば、新しいビジネスの種は常にそこからしか生まれないからである。この点をまずはじっくりと見極めてから、彼・彼女らはあなたと付き合うかどうか、そしてビジネス・パートナー(「弊」)の一員とすべきかどうかを判断するのだ
―「最初にビジネスの話は決して持ち出さない。流れの中で”お試し“を軽い形で提案し、相互の人となりを分かり合えるようにする」
華僑、というとすぐにビジネス、しかも金目の話、と思うかもしれないが、全くそんなことはない。家格のレヴェルが高ければ高いほど、むしろ真逆であり、会話は社交のレヴェルに終始する。こちらはじらされて仕方がないのであるが、実はここで見られているのは「時間感覚が合うかどうか」なのである。この次に述べるとおり、華僑の発想は「囲碁=戦略」であるのに対し、私たち日本人の発想は「将棋=戦術」である。そして戦略のレヴェルで大きなチャンスが生まれることなどそうそうないのである。したがって座して待つことになるわけだが、その間に日本人として耐えられるかどうかが見られているのである。しかもそれが出来るということは、それなりの内部留保があるということも意味している。笑顔で会話を楽しみながらシャンパンでも飲んでいれば良いのだ
―「“将棋”の仕事は番頭格以下に任せ、自分はあくまでも“囲碁”に徹する」
「囲碁」でいう9つの碁石で作った一つの正方形が、「将棋」の一つの盤に相当する。華僑リーダーたちが見ているのは「囲碁」のレヴェルであることに留意しなければならない。彼・彼女らが関心を持っているのはそのレヴェルでの場面転換であり、「トレンドの転換」なのである。ところが私たち日本人は往々にしてより細かな局面転換、すなわち「将棋」のレヴェルに拘泥してしまうのである。そうであるからこそ、両者で話が合わないのは当然なのである。他方で華僑リーダーたちが強い関心を持って行うのはそうした場面転換の瞬間にさっと自らの手を行うことであり、一たび新しいフレームワークがそれによって出来れば、後は必ず自分の優秀な部下である番頭格以下に任せるのである。そしてこのレヴェルと、日本企業のトップたちは結果として付き合わされることになる。それではなぜ華僑リーダーたちが最初はともかく、同一のビジネス・モデル(フレームワーク)の2度目以降は部下たちに任せきるのかといえば、自分たちはより澄んだ頭で新しいフレームワークの構築、すなわちリフレ―ミングに専念するのが仕事だからである。日々のキャッシュ・フローはその意味で任せきるのである。ここが、いつまでたっても「日銭にこだわる」ことを生業と考える私たち日本人の経営者とは全く異なる点なのだ
―「新しいフレームワークを用いたビジネスの最初の1回目は徹底して自分でやる」
やや矛盾するように聞こえるかもしれないが、華僑リーダーたちは自らが新しく構築したフレームワーク=ビジネス・モデルに基づいて最初のビジネスが行われる際には、最初から最後まで徹頭徹尾「自分」で行う。最初とはすなわち契約交渉であり、微に入り細に入るところまで口を出し、手も動かす。そしてじっと関係者が想ったとおりに動くかどうかを見、最後にはきっちりと「入金」が行われるか、「着金」したかどうかまで確認してから番頭格以下へと引き継ぐのである。これが「社長は思い付きでビジネス・アイデアを言うが最後までやらず、あとは専務以下がヒーヒー言いながらついてくるものの、ようやくビジネス・モデルが出来上がった時には社長は別のアイデアを思いついている」という、我が国のオーナー企業、しかも「2代目」によくありがちな光景は華僑リーダーたちとは全くもって無縁なのである
―「“弊(ぱん)”における利益配分は徹底して相手と半分ずつにする」
華僑リーダーたちと仕事始めると大変面白いのが、彼・彼女らが常に「利益は折半で」と言ってくることである。日本企業では往々にして「自分たちが創り出したスキームなのだから」と自社が9割の利益を独占するなどし、後は出入り業者とみなしてグローバルなパートナーたちを蔑ろにした利益配分を提案して顰蹙を買うことがままある。これに対して華僑リーダーたちはこうした日頃の積み重ねが、グローバル・マネーの流れが逆転し始めた瞬間に大きな恨みとなって、時に実力行使(!)を伴って返ってくることを知っているため、絶対にそうはしないのである。あくまでも「利益は折半で」と持ち掛け、相手とは笑顔でシェアをする。もっともそれはその局面だけなのであって、実はその儲け話(ビジネス・シーズ)が流れて来る源流から辿って何人の人々とも華僑リーダーは「利益は折半で」としてきているのである。結果として誰がそこでもっとも儲かるようになっているのかは自ずから明らかだろう。だが、哀しいかな、私たち日本人は全くそのことに気付かないのである。なぜならば「囲碁」ではなく「将棋」の民なので
―「家族と従業員を徹底的に区別し、前者には利益を最大限享受させ、従業員には決して甘い顔をしない」
儲かっている時に華僑リーダーたちが湯水のようにカネを使うのは血を分けた家族とだけである。ちなみにここでいう「家族」とは配偶者と子供たちだけを指し、それ以外の者たちは余程のことがなければ助けない。金銭貸借などもっての他であり、それを同族に御願いすること自体、もっとも恥だとされているのである。華僑集団において同族のネットワークは「情報交換の場」であり、かつ「自らの成功をひけらかし、プライドを満足させる場」なのだ。一方、上記の意味における家族をある意味スポイルするのは、ビジネスで不調になった時、最後に頼りになるのは配偶者と子供たちだけだからである。会社が傾いた時、最後まで命運を共にするほど、従業員は甘くはないのである。したがって従業員には徹底して厳しくし、甘い汁は吸わせない。そのように言うと「従業員の福利厚生は?」という声が読者から聞こえて来そうだが、これに対する華僑リーダーの答えは明確なのである。「仮に自分たちもそのようにしたければ、とっとと“従業員”であることを止め、”経営者“になれば良い」全くそのとおりである。ところが我が国の経営者たちはというと、常日頃から家族には極力質素にせよと命じつつ、社員には「ハワイ社員旅行」などといった甘い顔をし続けている。ところが業績不振になると真っ先に”右腕“”優秀な社員“から引き抜かれてしまうのである。これに対して華僑リーダーの場合、「お父さん、今はダメだけれども、必ず良くなるよ」と家族から励まされる。なぜなら家族もまた、あらためてあの甘い汁を吸いたいからだ。リスク管理、メンタル・ヘルスケアの観点からどちらが正しいやり方かは、自ずから明らかだ
―「フローではなく、ストックにつながるビジネス・モデルに専念する」
華僑リーダーが関心を持っているのはただ一つ、ファミリーの繁栄と存続である。「中国人のビジネス」というと安価で大量の小売販売で大儲けしているように思えるが、実はそうしたことで目立っているのはレヴェルの低い華僑たちである。なぜならばそうしたやり方ではいつまでたっても「自分自身が仕事をしなければマネーを得られない仕組み」しか続かないからである。そうではなくて華僑リーダーが常に意を用いているのは、最初の一撃は自分自身がハンズオンでクロージングあるいは入金までやるけれども、その後は事業パートナーたちからは誰からも笑顔で接せられ、かつ固定収入が定期的に入って来るような「仕組み」の構築なのである。そして日々の仕事は、一方ではそうした仕組みがきっちりとワークしているかをチェックすることだけであり、他方では上述のとおり、極力澄んだ頭でリフレ―ミングを行い、その意味で「面白い人士」と出会い、緩やかにネットワークを構築していくことに専念することになるというわけなのだ。あくまでも「日銭」を追い、「銀行融資をもっと受けるにはどうしたらよいだろうか」と経営計画塾(?)に通い、結果、どうにもこうにもならなくなるが、頼るべき社員たちからは逃げられ、家族にも愛想を尽かされている、そんな我が国の経営者たちと全く違う光景がそこにはある。華僑リーダーたちにとってビジネスとは「仕組み」であり「ストックを増やす仕掛け」なのだ
―「配偶者はビジネスの現場には入れず、ただし異性のビジネス・パートナーを同格で据え、意思決定も行わせる」
「それだけ大それたビジネスの仕組みを長期にわたって構築するのだから、さぞ事業承継は大変だろう」と思われるかもしれないが、華僑リーダーにとって実は“事業承継”の問題は無いといって良い。なぜならばそもそも息子には家族は継がせるが、「事業」はほぼ継がせることがないからだ。ここが決定的に我が国の企業とは違うところである。もっといえば配偶者であっても絶対にビジネスの現場には入れないのである。家族としてのなすべきこと(family affairs)が多数あるからということあるが、要するに「愛」を基準に選んだ配偶者が当然には最高のビジネス・パートナーではなく、また同時にその「愛」をベースに生まれ出でた子供が当然に最高の事業承継者でもないということなのだ。そうではなくて、華僑リーダーはビジネスの現場において配偶者以外の異性のビジネス・パートナーを選択し、その者に自分とほぼ同レヴェルの権限を与えるのである。このように言うと「愛人を据えるのだな」と我が国ではしばしば誤解されるのだが、全くそんなことはない。確かにブランディングという観点では「清潔感があるタイプ」である必要があるが、あくまでもビジネス・パートナーなのである。しかも異性なので視点が全く異なり、経営リーダーである自分自身が気付かないところまで配慮が出来、発想をわかせてくれるのである。この点が華僑リーダーたちと我が国の経営リーダーたちが決定的に異なるところなのであって、経営の意思決定レヴェルでのチャネルが一つ少ない分、我が国企業が劣勢に常に置かれるのは当然といえば当然のことなのである
最後に。華僑リーダーたちと交わっている中で常に言われるのが「良い時もありますが、悪い時もありますから」という言葉なのである。やれ四半期業績、通期での売り上げ、周年での評価といった形で追いまくられ、常に「右肩上がりの成長が当然」と刷り込まれている我が国の企業現場とは全く違う発想だ。だが結果として世界に冠たるビジネス・リーダーを輩出し、その意味での名声を戴いているのは果たしてどちらであろうか。―――ヴォラティリティがますます激しくなるこれからの時代だからこそ、華僑たちから虚心坦懐に学ぶべきことは多々ある。そう私は我が国の経営現場における「惨状」を見ながら、強く想っている。
2016年5月8日 東京・仙石山にて
原田 武夫記す