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時代を超える戯曲。その場・その時限りの演劇。(連載「美と心の旅」・その8)

先日、三軒茶屋駅直結の劇場シアタートラムで安倍公房による戯曲『城塞』を鑑賞しました。

『城塞』の初演は1962年、安保闘争が終わり東京五輪に向かうころ。軍部と結託した成り上がった実業家のブルジョア家庭の密室劇です。

敗戦後、戦争に加担した横暴な父親は時間が止まったままの「拒絶症」なる精神疾患(統合失調症の一症状)にかかり、息子は、父親のその欺瞞や非情さを暴き立てていきます。異端者のストリッパーが空気をかき回し、必死で抑えてきた息子の父への憎悪や嫉妬を彼自身に自覚させ、ドラマを展開させる役割を果たしており、強烈なセリフの連鎖に始終惹きつけられる力作でした。

シアタートラムは定員248人の小さな劇場で舞台は観客席より低い位置に配してあり、観客と舞台の距離が小さいため非常に臨場感のある空間を楽しめます。

ざっと周りを見渡すと観客の年齢層はかなり高めで、私の祖父母くらいの方が大多数でした。日本を代表する劇団『俳優座』といえども、今の二十代で知っている人はどれくらいなものか・・・ 少なくとも私の周りではゼロに等しく、インディペント映画に誘える友達はいても、演劇に誘える友達はおりません。

若い世代にとって演劇は古風に見えるのでしょうか。足を運ぶのがなんだか照れくさい、あるいは気軽に入っていけないという認識は少なからずあると思います。

しかし演劇とはその場その時の一回性の芸術。劇団は絶えず新しい解釈、そして斬新な演出に挑戦し続けています。何十年にわたり公演されているクラシック戯曲の演劇が時代を経て変遷していくというだけでなく、同会期中の公演ですら一度として同じものはありません。

戯曲はセリフとト書き(舞台で必要な作業、俳優のしぐさや声色などを説明する重要な情報)からなります。ト書きは、言語として舞台上に残らずシニフィエとしてしか姿をとどめません。台本で言語として書かれたト書きは、演出家や俳優による解釈を経て、言語と異なる形で観客に知覚されるのです。

また映画と違って、演劇では俳優さんたちは観客を目の前にして演じているのです。観客の層、表情、入り具合といった変化は、彼らの表現に何かしらの影響を与えています。生身の人間がスクリーンなどを介さずストーリーを織りなしているという、演劇の持つ『直接性』は観客と俳優の関係をぐっと密接にするのです。

今日、戯曲というのは売れないようで本屋にも隅にちょっとあるくらいのことがほとんどです。新宿の紀伊国屋書店には演劇コーナーがあり、平積みされているのはシェイクスピアや寺山修二、つかこうへい、野田秀樹、別役実など著名人ばかりですが、シェイクスピアが広い一角を占めていて驚きました。クラシック戯曲の演劇の人気が窺えます。

シェイクスピアが生きた時代から四世紀たった現在、当時からどれほどの演出が繰り返されてきたのかと想像すると眩暈がします(笑)

特に、シェイクスピア劇の中でも最も親しまれている『ハムレット』のオフィーリア、彼女ほど様々な解釈・演出がされた人物はいないでしょう。

オフィーリアは、一度は愛を誓ったハムレットの心変わりに耐えることができず、父ポローニアスの死に悲しみに狂乱する女性。一般的に日本では若くして可憐な乙女として認識されているオフィーリアですが、これまで様々な解釈がされてきました。

当初、狂ったオフィーリアは妖精、あるいはお化けのようなこの世での存在の不安定さを感じさせる描写が多かったよう。

上田様その8_2アーサー・ヒューズ オフィーリア(1852年)

 狂気をどのように捉えるか、それは時代や国によって変わります。

フロイトの時代のオフィーリアの狂気はメランコリーによるものと描写されているものが多い一方、1948年のジーン・シモンズが演じたオフィーリアは、近親相姦コンプレックスで、狂気は精神分裂症(統合失調症)と解釈されています。*1

初めて日本初の本格的な『ハムレット』(坪内逍遥全訳)が上映された1911年に観劇した漱石は、シェイクスピアは我々の文化から遥か遠くにあるのであり、「悉く沙翁の云ふが儘に無理な日本語を製造」したのがいけないと批判しています。*2確かに、シェイクスピアの歯切れのよい音調が、坪内逍遥調の冗長で華やかな言葉に置き換えられたとなると随分イメージが変わりますよね・・・

それからさらに一世紀たった今、日本語も逍遥の時代から随分変わり、日本語散文での挑戦、新解釈は尽きません。

今回観劇した『城塞』は、安倍公房が関わっていた六十年代から半世紀たった上演でしたが演出家の公房への敬意が伝わってくる、良い意味で伝統的な演出でした。(もちろん平成生まれの私は、当時を知る由もないので想像ですが。)六十年代、伝統的と形容できるこの作品は、私にとって懐かしいのではなくむしろ新しく、非常に興味深いものです。

舞台は満州、だけれども国家と国民、そして父と子の間に横たわる権力に対する不信という精神性はいつの時代も見られるものです。しかし、権力への不信という、せっかくの分別も、無責任に安住している限りは、結果的には無分別以上のナンセンスたらざるを得ないという、強烈なメッセージは今なお痛烈に響くものです。

シェイクスピアにしろ、安倍公房、寺山修二にしろ、これから先も主要な演目であり続けるでしょう。しかしセリフが変わらなかったとしても、戯曲のト書きの受け止め方は俳優と観客が生きる時代に拠るのですからこれからも演劇のこれからのダイナミックな行方に目が離せません。スクリーンに記録されない一度きりの演劇は、直接その場にいた観客の目と記憶にのみとどまるのです。さらに半世紀後、時代はどのように変わっているでしょうか。演劇は次の世代にどのように引き継がれていくのでしょうか。

 

参考
*オフィーリアの解釈、表現
http://lohasstyle.jugem.jp/?eid=47
*坪内逍遥の兄の玄孫、河合祥一郎東大教授によるブログ
http://ameblo.jp/shoichiro-kawai/archive1-201402.html

【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

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