現代の「宋美齢」との対話 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
「敗戦」から70年が経った2015年8月15日昼。私は中国の北京首都空港に降り立った。まずそこで驚いたのが、空が澄み切った青だったことである。昨年(2014年)秋、アジア太平洋経済協力会合(APEC)が行われた時、大気汚染に喘ぐ北京の空が真っ青になったことで話題となった。「APECブルー」などといって揶揄されたものである。当然、当局による強い”指導“でそうなっただけのことである。しかし今回は事前にそうは想っていなかっただけにびっくりした。
そして夜。北京市内にあるレストランで会食した。現代の「宋美齢」と共にである。といっても例の宋一族の末裔ではない。丁度あの70年前の暑い夏にこの大陸中国を守り切ることに成功した「宋美齢」たちと同じ”発想“をもって育ったビジネスパーソンのリーダー、という意味である。
その人が目の前に座るや否や、私は開口一番、「空が青いすぎるね」と言ってみた。するとその人は大笑いしながらこう答えてきた。「そう、青すぎる。近々、軍事パレードがあってそこで党幹部たちが皆閲兵することになってると聞いた。『だから』なのです」私も一緒に大笑いした。
この現代の「宋美齢」は一切、政治的な役割を担っていない。意図的にそうしているのだ。細かなことはこの場では書くことが出来ないが、1989年に発生した「天安門事件」が大きく関係している。そこで塗炭の苦しみを味わうことになった一族は家長である父親の指示に従い、全世界に散らばった。まだ青少年期であった子供たちも容赦なく一人ずつ別々に行く先を指示されたのだという。「正直、あの時は『これから皿洗いでもやって生きていくしかない』と決意した」とその人は私に言ったことがある。
そして2015年。この人は老年となった両親を米国西海岸の大きな邸宅で守りながら、自分自身は米国と中国とを行き来しつつ、世界中を漫遊している。その一停泊地で、同じくグローバル・マクロ(国際的な資金循環)の波のままに動く私と出会ったわけだが、その人が動くとどういうわけか、世界中から人士が寄り、相談事とマネーが舞い込み続けるようになっているというわけなのだ。USD(米ドル)とRMB(人民元)という、新たなシーソー・ゲームを始めた通貨の天秤の中で太平洋を挟んだ投資スキームをこの12年で創り上げ、後はそのメンテナンスをして暮らしている。「将来は何を目指しているのですか?」と私が聴くと、その人は笑みを交えながら困ったと言い、「いや、もう既に何もかも手に入れているから、何かを強烈に欲しいということはないですよ」と答えてきた。それでも米欧も含め世界中からたくさんの人たちが相談にやって来るので、笑顔で応じている。「宋美齢姉妹もきっと、こんな人物たちだったのだろうな」と私はあらためて、北京の夕日を見ながら思った。
安倍晋三総理大臣が「渾身の力作」として発表したかったはずの「戦後70年談話」が発表された。蓋を開けてみれば何のことはない、単に「いつもの」「中途半端なもの」だった。それを踏まえ、いわゆる”国家“のレヴェルの方々、あるいは”国家論“が大好きな人士はあれやこれやと議論をあらためて繰り広げている。しかし私にはこうした姿が余りにもアナクロニズム(時代錯誤)に思えてならないのだ。
なぜならば、米国的なるものを表向き代弁する「ユダヤ勢」と「中華人民共和国」をツールとして用いる華僑・華人ネットワークは、実のところ天秤の右と左に過ぎないからだ。「上げは下げのためであり、下げは上げのためである」という復元力の原則に則り、太平洋を跨いでシーソー・ゲームをしているに過ぎない。それ以外の諸民族はそのゲームに翻弄され、マネーを得ては奪われ、あらためて得ては奪われているに過ぎないのである。いや、ユダヤ勢と華僑・華人ネットワークそのものの中においても「一般人」はこれらと同じく、翻弄されているに過ぎないのである。
このゲームの呪縛から逃れる方法はただ一つ。シーソーの”真ん中“に立つことである。その発想をもって先の大戦を乗り切ったのが宋家の三姉妹だったわけである。そして今もまた、この現代の「宋美齢」はその仲間たちと共に、全く同じゲームをし始めているというわけなのである。彼・彼女らに民族的な憎しみなどなく、ましてや反日感情など微塵もない。あるとすればこうした世界の真実、グローバル・マクロのルールをもはや理解出来なくなった我が国のリーダーシップ、そして他ならぬ私たち日本人たちに対する憐憫の情なのではないだろうか。
現代の「宋美齢」は私に笑いながらこう言った。「日本人は、面倒くさいから」富が入って来てはそれを貯め込むことしか知らず、全世界にポートフォリオを構築することでいかなる災禍があれど、自分が、そしてファミリーが残るためのシステムづくりに励むなどという発想そのものが私たちに日本人にはもはや皆無なのである。先日、人民元が切り下げられた(devaluation)わけだが、これとて何のことはない、同時に米ドルが買われたに過ぎないのである。太平洋を跨いだスキーム全体にコミットしていれば、何も減らすことはなく、また失うこともなかったはずなのである。
「日本はもう終わりで、デフォルトになる。だから米ドルに全部切り替えるべきだと議論して、国外への資産移転を促している経済評論家たちが日本には大勢いすぎて困る」と私が言うと、その人はひときわ大笑いしながら言った。「馬鹿馬鹿しい。しかしそうであればなぜ米ドルだけに賭けるのか。人民元建てと天秤にかけるという発想が日本人には何故ないのか、理解に苦しむ」
よくよく考えみれば、共産中国が大躍進から文化大革命へと突っ込み、結果として今になって経済発展しているのも、華僑・華人ネットワークらによる計算によるものかもしれないのである。なぜならば太陽活動の異変に端を発する今現在の動きの中で、ユダヤ的なるものがもはや身動きがとれなくなったこの瞬間、結局のところ、13億人もの「食い扶持」を抱える大陸中国こそが、注目を浴びることは目に見えていたからだ。そうであれば「ここぞ」というタイミングに一撃必打で動かせば良いのであって、それまではそれこそ昼行燈ではないが、「共産主義ゲーム」をやってユダヤ勢を目くらまししておけばよいのである。
私が「私は日本が好きだ。だから、“日本は滅びるから資産は全て米国に”などという議論を聴くとどうしても憤っていしまう」というと、「全くもってそういう気持ちは大切だ」とうなずきながら、その人はこうも言った。「日本は素敵ですね。特に桜のシーズンは素敵。日本文化は本当に素晴らしいと思う」
こうした素朴な感情がやがて全体としての日本化(Japanification)をこの大陸中国にもたらす時。1931年以降の力づくで抑えつけようと私たちの先祖たちがこの大陸中国で行ったこととは全く違う現象が生じるはずなのである。しかも私たち日本人にとって圧倒的に有利な形で。知らぬは私たち日本人だけである。全員が全員でなくてもいい。しかし我が国の未来を担っていくリーダーシップがこうした華僑・華人ネットワークのハイレヴェルとの間で本音で語り合える関係をあらためて築き上げ、同時に米国勢ではなく、たとえばカナダ勢といった「裏技」を用いながら、ユダヤ勢とも丁々発止のゲームを行う中で、総じて「パックス・ジャポニカ(Pax Japonica)」を実現していく。―――そうした未来を目指して、引き続き非力を尽くしていきたい。そう想いながら、真っ青な空の北京を今、後にする。
2015年8月16日 中国・北京にて
原田 武夫記す