シュタイナーの人智学とは何か (“情報リテラシー”教育の発展とその向こう側(Vol.14))
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弊研究所の会員制サーヴィス「原田武夫ゲマインシャフト」にご入会いただいている皆様であれば、日々のIISIA・デイリーレポートや、音声レポート「日刊・原田武夫」「週刊・原田武夫」等で、「人智学」という言葉を聞いたことがあるのではないだろうか。本ブログでは人智学について語った思想家、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner)の言葉を借りながら、なぜ我々独立系民間シンクタンクが「人智学」をキーワードとして取り入れるのかについて探ろうと思う。
(写真1:ルドルフ・シュタイナー(1900))
(参照:Wikipediaより)
シュタイナーは1861年2月25日に中欧で生まれた。彼は後にオーストリアやドイツ国内で活躍した思想家であり、同時に哲学者、教育者でもある。1879年にウィーン工業高等専門学校(現ウィーン工科大学)の実業学校教職コースに入学し、主に数学、生物学、物理学、化学を学んだ。大学を出た後、23歳から29歳まで羊毛輸入商シュペヒト家の4人の子どもの家庭教師を勤め、36歳までワイマールのゲーテ・シラー文庫に勤務した。その後シュタイナーはベルリンに転居し、文学と演劇の評論誌の編集者を経て、ベルリンの労働者教養学校にて学生らに歴史や文学や自然科学を教えた。さらにシュタイナーは40歳の頃ベルリンの神智学(Theosophy)グループに参加している。
(写真2:ヘレナ・P・ブラヴァツキー)
(参照:Wikipediaより)
「神智学」もまた弊研究所の音声レポートの常連ワードであるが、これはロシア人女性ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky, 1831-1891)が創始した哲学的思想の総称である。シュタイナーは彼女のグループの中で、人間とはどのような存在か、宇宙はどのようにできているかなどを研究した。52歳の時、シュタイナーは神智学に共鳴しつつも、西欧的伝統とキリスト教という枠を越えられず、独自に人智学協会を組織し「精神科学」の探求を続けた。(ここでいう「精神科学」とは、心理学のようにプシュケー(こころ)の研究に留まらず、プネウマ(霊性)までを探求の対象とする化学のことである。その探求を、宗教のように信仰を前提とせずに自然科学的な思考方法で行おうとした。漠然とした神秘主義的感覚よりも、厳密な科学的態度を尊重していたという。)
まずはシュタイナーが説いたその思考法について見てみよう。
人智学では「実際的な思考の原則」が重要であるという。思考を実り豊かにし、本質的で価値あるものにするのは、一連の経過の中で正確なイメージを形成し、「昨日はこうだった。今日はこうである。」と思うことであり、その際に、現実の世界の中では離れている両方のイメージを可能な限り近づけることなのだ。しかし、当然ながら目の前で観察したことから明日の天気を当てることはできない。「そのようなことをすれば、思考が腐敗[R.Steiner19,p.28]」するとシュタイナーは一蹴する。むしろ、外界のなかで事物が関連しており、明日は今日と関連しているということを、信頼する必要があると彼は説く。また「できるかぎり思考を排して、一連の経過の正確なイメージを表象すると、人間の不可視の部分に何かが生じるのを、みなさんは感じることができます[R.Steiner19,p.28]」と続ける。以下に、シュタイナーが思考法について述べた文章を引用しよう。
「内的に関連する経過について、新しいイメージをつぎのイメージに結び付けてみます。そのようにしてみると、やがて私たちの思考が柔軟になるのが分かります。未知のことがらに関して、このように行うべきなのです。―中略―『私たちの思考が事物のなかにあるという観点から事物を考察する時間を作ること。事物のなか、事物の内なる思考活動のなかに沈潜すること』という基本原則を実行するのが重要です。そうすると、私たちが文字どおり事物と合一するのに、次第に気づきます。私たちはもはや、『事物は外にある。自分は内にあって、事物について思考する』とは感じなくなります。『私たちの思考が事物のなかで動く』と感じるようになります。このことが達成されると、多くのことが明らかになります。[R.Steiner19,p.29-31]」
(写真3:ルドルフ・シュタイナー 人間の四つの気質)
(参照:筆者撮影)
弊研究所が繰り返し“社会貢献事業”として国内外問わず将来を担う若者に対して“アントレプレナーシップ教育(「情報リテラシー教育」)”を推進してきた背景には、「過去を正しく理解できるように導く。また過去からの連続としての現象があること、そして未来が続いていくことをより深く理解してほしい。」という願いが込められている。この考え方は、上記の人智学の思考法に重なる部分があるのではないだろうか。
さて、弊研究所の会員制サーヴィス「原田武夫ゲマインシャフト」内で配信している「音声レポート週刊・原田武夫」11月22日号(https://haradatakeo.com/ec/products/25896)では、特に食事などを例に挙げ「人間らしく適切に生きること」について触れていた。シュタイナーのいう精神科学では、“人間は身体を物質的な道具として必要とする”と捉えるため、単純に内的な独立性を損なって「人間は食べたものからできている」とは言い難いが、それでも道具(身体)は正しく調整しなければ役に立たない。また、正常に機能しない場合も役に立たないのである。シュタイナーは、肉食、菜食を例に挙げ以下のように説明している。
「菜食にすると、体内に摂取された植物は人体に多くのことを要求します。菜食は、脂肪分の多いものではありえません。人体は自分で脂肪を製造する能力を有しており、『脂肪でないものから脂肪を作る』ように要求されるのです。つまり、菜食にすると、人間は内的に活動を展開しなければならず、脂肪の製造に必要なものを使い尽くすよう、内的に努力しなければなりません。動物性脂肪を摂取すると、そのような活動が省かれます。唯物論者は、『努力なしに、たくさんの脂肪を得られるなら、それは人間にとってよいことだ』と、言います。精神的な立場からは、『内的活動こそ、内的な生命本来の展開だ』と、見なくてはなりません。自分で脂肪を作り出す力を呼び起こす必要があるとき、その内的活動のなかで、自我とアストラル体(感受体)が肉体とエーテル体(生命体)に対して主導権を持ちます。動物性脂肪を摂るなら、その結果、自分で脂肪を作り出す労力は節約できます。しかし、菜食にして、みずから活動する機会を得るなら、人間は自由になり、自分の身体の主人になります。[R.Steiner19,p.120]」
(※シュタイナーは、人間が①人間が鉱物界と共有する「物質体(肉体)」②一生の間肉体と結びついている「エーテル体(生命体)」③本能、衝動、情熱、欲望、感受と表象の担い手である「アストラル体(感受体)」④人間の最高の構成要素である「自我」、の4つの構成要素から成るものと認識する。)
つまり、我々人間は賢明な方法で人体を構築する可能性を有しており、自由で独立した内的な力の発展に寄与できるのである。以上のことを踏まえた上で、我々は「人間は食べたものからできている」という主張に帰結する。したがって、食べ物の奴隷になることなく自らの身体の操縦者になるための「食事」は非常に重要な要素だと言えるのである。
ここで少し話題は逸れるが、先日オーストリア・ウィーンで開催された「第16回グローバル・ピーター・ドラッカー・フォーラム(以下、ドラッカーフォーラム)」に参加させていただいた際に、ある学者は「何かにどっぷりと集中すること」の重要性を述べた。これはスポーツでいう「ゾーンに入る」状態や、モンテッソーリ教育でいう「集中現象(一点に注意を向け、自らの能力を高めるよう繰り返し活動を行う状態)」と同義であると考えられる。
(写真4:ドラッカーフォーラム会場)
(参照:筆者撮影)
ドラッカーフォーラムTV(https://www.youtube.com/@GlobalPeterDruckerForum/streams)という番組がYouTube上で公開されているが、その中である学者は繰り返し「手を使うことの重要性」を強調し、最も憚れるのは「残念ながら一般的な学校形態である、ただ座って話を聞くだけの学びである」と述べた。モンテッソーリ教育の生みの親であるマリア・モンテッソーリはイタリア初の女性医師であるが、彼女も手を使うことが脳を活性化させ、これが知性の発達に繋がると主張している。
「手の能力の発達は人間の知能発達と結びついており、歴史を考えた場合には、文明の発達に結びついています。人間が思考する場合、思考するに加えて手を使って行動すると言えましょう。人間は地上に出現すると殆んど同時に手を使った仕事の痕跡を残しています。過去の時代の大文明にはいつでも手を使った仕事の例が残されています。[M.Montessori73,p.148]」
「子供の知能は手を使わなくてもある水準迄は達するのですが、手を使う活動によってさらに高い水準に達し、自分の手を使う子供はさらに強い性格を有する、と言えます。[M.Montessori73,p.150]」
(ここでの「強い性格」とは、明瞭な発達と性格のたくましさを示す。)
以前のブログ(教育から「知識社会」を読み解く-“情報リテラシー”教育の発展とその向こう側(Vol.9)-)でモンテッソーリ教育については触れたが、単なる教育法であれば、なぜ経営学の父、ピーター・ドラッカーを讃えて毎年開催されているフォーラムで同じような主張が登場するだろうか。また反対に、ドラッカーフォーラムが単なるマネジメント法の発表会であれば、なぜ特定の教育法と同じ主張が飛び交うのだろうか。これは、両者が「単なる幼児教育法」「単なる経済発展のみを目指す経営学」のどちらでもないからである。非常に興味深いことに、一生をかけて成長し続ける人間の教育とマネジメントに関わる両者は、当然のようにその根底部分で共通するのである。モンテッソーリ教育を創始したマリア・モンテッソーリ、経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーには、“不思議な当たり前”として、共通項が存在していたのである。
ではなぜ上記で、「人智学」から離れてピーター・ドラッカーとモンテッソーリを提示したかというと、長年評価されてきた思考法や人物には、それだけ語り継がれてきた理由があり共通項があるということ示したかったためである。弊研究所は、国内外情勢のみに留まらず、本ブログで示したような様々な角度から予測分析をし、会員制サーヴィス「原田武夫ゲマインシャフト」の中で音声レポート等をお届けしている。本ブログは、そのエッセンスを取り出して一所員の卑見を並べたものである。
最後に、我々がその他動物ではなく“ヒト”としての生き方を極めたとき、より豊かな人生になるのではないだろうか。その一つのヒントとなるのが「人智学」であると筆者は考える。読者の皆様それぞれの興味、関心の視点から“ヒトである自分”の存在について考察してみてはいかがだろうか。何か新しい気づきが得られるかもしれない。
※当ブログの記述内容は弊研究所の公式見解ではなく、執筆者の個人的見解です。
事業執行ユニット 社会貢献事業部 田中マリア 拝
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[参考文献]
・[H.P.Blavatski01] ヘレナ・P・ブラヴァツキー著,東篠真人編訳「シークレット・ドクトリンを読む」出帆新社,2001.
・[R.Steiner19]R.シュタイナー著,西川隆範編訳「ルドルフ・シュタイナー 人間の四つの気質」,風濤社,2019.
・[M.Montessori73]マリア・モンテッソーリ著,菊野正隆監修,武田正實訳「創造する子供」,エンデルレ書店,1973.