太陽がもたらした今回の「過ぎ越し」の終わり。そして視座の転換。(原田武夫の”Future Predicts”. Vol. 15)
本稿を執筆している本日(13日)は実にうららかな陽気であり、秋が深まるというよりも、夏がいよいよ終わるとあらためて思う様な1日である。何気ない1日ではあるが、だからこそ生命(いのち)とは何なのであろうかと考えてしまう。何時まで経っても終わらない「2024年夏」を、時の移り変わりというよりも、その時そのものの遅さが増していると捉え直すと、どうやらこうなっていることの意味が分かって来そうな気がする。
弊研究所が従前よりお伝えしてきたとおり、グローバル社会全体がいよいよ「過ぎ越し(pass-over)」の時を越えたものと強く感じている。ただしそれはそうした大それた話もさることながら、むしろそのことを感じ入る能力を持つ方々の間においてある意味「超個人的な出来事」の終わりという形で感じ取られている様な気もする。このコラムの読者の皆様におかれてはいかがだろうか?
「過ぎ越し」の時が終わるにあたり、うららかな陽気の中、真っ青に広がる空を見ながら、ふと、夏目漱石を襲った「修善寺の大患」(1910年)のことを思い出した。漱石が生まれたのは1867年である。したがってこの「修善寺の大患」として知られる一大事が生じたのは彼が40代前半の頃であったということになる。しかし当時と現在では平均寿命が違うことを踏まえると、今ならば50代でこの事件が発生したと考えても差し支えないだろう。そう思うと、我が事の様に想えてくる。
漱石はこの時、いわゆる「前期三部作」の最後の作品となる『門』を執筆していた。作家として最初の絶頂期を迎えていたわけであるが、同時に胃を巡る体調不良が彼を苦しめ始めてもいた。そして転地療養を勧められて赴いた修善寺にて大量吐血、何と800グラムも吐血したというのだから一大事だ。文字通りの「死線を彷徨う」経験をした漱石の筆致は、「後期三部作」へと向かう中で大きく転換していく。前期においては若々しさと世間に対するチャレンジが大きなテーマであったが、後期には人間のエゴイズムとそれを超えた先の「則天去私」の精神がメインとなって来るのである。漱石はこの「修善寺の大患」の時の心境を自ら何度も反芻し、述懐した。すなわち体感した自らの生命を巡る重大事を真正面から受け止め、その意味を考え、やがては自らの創作活動において昇華させていったということになる。そしてこの視座の転換がその後、彼の名を後世に残す原動力となった。
今回の「過ぎ越し」にあたって、いわゆる神事に通じる賢者はこう語っていた。「2024年10月9~12日に訪れる”過ぎ越し”の時は、その後、来年(2025年)7月に全人類を覆うことになる一大事、あるいはそれ自体が”過ぎ越し”となる事態の前兆として生じる出来事である。しかもその際、2019年を軸に想いを馳せた忌まわしい出来事がフラクタルであるかの様に去来し、それがシンクロニシティであるかのごとき様相となる。だが問題は、だからといってそれに対して即座に構えてしまってはならないということだ。むしろ”いよいよ来たな”と粛々と出迎え、前に打って出るのではなく、後ろに下がり、そこから俯瞰するかの様にこれからに対して想いを馳せること。それによってこそ、未来の全体が見え、道が見えて来るということなのです。」
今この瞬間に太陽、そして天体全体の動き、更にはその背後にあって実質的な「時と空間」の無い場とその内奥がもたらした今回の”過ぎ越し”が終わるにあたって、あらためてこの賢人の言葉を思い出した。いやしかし悲観する必要はないのである。今回の”過ぎ越し”が、マズローの5段階欲求説で言うならば1段階目=最底辺に相当する「生存欲求」へと私たち全員を突如として突き落とすものなのであれば、むしろその結果、ルシャトリエの原理が働き、5段階欲求のさらに向こう側である「超越欲求」へと私たちをついに誘うことになるかもしれないからだ。そこで必要なのは、真摯な視座の転換であり、それはあたかもかの漱石が「修善寺の大患」を経てこそ、近代日本文学の両巨頭の1人として後世に名を遺すことが出来たプロセスに重なる様に想えてならないのである。
その意味で「過ぎ越し」が終わった直後の本日(13日)こそ、祝祭に値するわけだが、このタイミングで我が国はというと14日にかけて、連休、祝日となっている。何と出来すぎた暦であろうか。15日からはよりはっきりと「視座の転換をしてこそ見える異次元」へと突入して行くことになる。マーケットも、政治も、社会も、文化も何もかもが、だ。仮に”過ぎ越し”の中で「生命」を巡るどん底まで突き落とされることがあった方はむしろ喜ぶが良い。なぜならばそこでの経験があってこそ、その後の「大役」が待っているのだから。来年(2025年)7月という暑いひと時が到来した瞬間に、そのことが誰の目にも明らかになる。
そう思うと、うららかな陽気がたまらなく心地よく、またありがたく思えてはこないだろうか。私たち人類が何故にこの場に、共に在るのか。その役割は何であり、私たちは何をしなければならないのか。―――いよいよ、”その時”が始まった。「このこと」だけに専心しながら、ここからは読者諸兄と共に前へ進んで行きたい。そしてこの歩みの最期の最期に、人類全体にとっての「究極の書」を書き記し、この世を継ぐ人々へと渡したい。皆様、何卒宜しくお願い申し上げます。
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2024年10月14日 ”過ぎ越し”が終わった翌日に
東京の寓居にて
原田 武夫記す