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教育から「知識社会」を読み解く (“情報リテラシー”教育の発展とその向こう側(Vol.9))

前回のブログ「P.F.ドラッカーとは何者か? ~“情報リテラシー”教育の発展とその向こう側(Vol.8)~」では、「知識」が経済的、社会的行動の基礎となると同時に、現代社会の中心的役割を担うものとして登場し、それまでの「知識」に対する位置、意味及び構造を根本的に変化させてきた点について、経営学の父として知られるP.F.ドラッカーの言葉から紹介した。今回は、「知識社会」を実現するための土台作りとしての教育活動にフォーカスを当てて執筆していく。

「子どもたちへの教育」と聞くと、実際に経営に関わる大人からすれば少し距離がある分野のような気がするかもしれないが、ドラッカー著書「断絶の時代(1969)」の中で「14章 “成績主義”の臨終(Has Success spoilt the School)」「15章 知識社会と教育(The New Learning and the New Teaching)」のように、知識社会を実践するための教育の重要性について述べている。

さてここで初めに問いたいのは、教育が行われる中心的場である「学校」は何のために存在するのだろうかということである。
これまで職人の技能熟練が経済的に大きな資産であることは重要であると知られつつも、学校に行くことは経済的には一種の贅沢であったことは間違いない。「長年の間新教徒やユダヤ人の間では、読み書きの能力は、宗教生活に役だつものとして必要だと説かれて[P.F.Drucker69, p419]」おり、読み書きの能力が市民生活の基盤となったのは18世紀以降である。またドラッカーによると、1850年頃までには、各個人が自己向上の能力をつけるための初等教育が必要だと考えられるようになった。しかし、最小限度の教育以上のもう少し高度な教育が必要とされたのは、わずか一握りの者だけであり、ましてや「知識」が仕事に際して必要であると考えられたのはほんの少数であった。ドラッカーは植民地で教育が推進されなかった点も指摘している。

「今世紀のはじめころには、たとえば、植民地では教育の拡充についての要請はなにもなかった。それどころかイギリスがインドに一般初等教育を導入しようとしたところ、当時すでに始まっていた反植民地運動は、つまりインド国民会議派の前身は、それに根強い反対を行なったのだ。学校などは納税者にとって実にけしからぬ税金の浪費であり、それから国の利益などなにも生じはしないと考えられていた。[P.F.Drucker69, p419]」

教育とは反対に、貧窮していたインド勢にとって必要と思われたのは灌漑であり、道路であり、減税であったのだ。また、我が国の経済学者も1870年以降の文盲解消運動を、非生産的な“国家的威信”のためのものであり、非常に不足している経済的資源を浪費流用するものとして激しく批判していた。

ドラッカーは、我が国について以下のように語る。
「一九六七年から六八年にかけて日本は明治百年を祝ったが、一八六七年以降、明治時代の日本の諸改革の中で最も偉大な業績と万人が称賛したのは、近代の生産的経済社会の基礎として教育を最優先したことであった。[P.F.Drucker69, p420]」

確かに、我が国の教育制度は「正しい答えを見つけられるような、画一的な考え方を持った人間を生産するための教育」の枠組みは早くから整えられてきたのかもしれない。しかし、「今日では万人にとって学校は一般的な過程の場となった[P.F.Drucker69, p423]」こともまた悲しい事実であるのだ。

ドラッカーは「学生ができるのは将来の可能性を示すことのみである。学校の言語的分野で学生のなしうることはだれかがすでにしたこと、いったことをくり返すというのがすべてである。[P.F.Drucker69, p423]」と、学校教育の実態を強く指摘する。また、現代社会で求められているのが「知識の基礎によって技能を習得できる人々」であり、同様に学校教育で重要なのが「知覚力と情緒の訓練および形成[P.F.Drucker69, p426]」であるとし、ドラッカーは後者について、スイス・ジュネーブの心理学者ジャン・ピアジェ(Jeun Piaget)の名前を出して、「子どもが成人して一個の人格をもつようになった際、生計の資を得る能力をもつために欠くことはできない。[P.F.Drucker69, p426]」と説明する。また、「学校はすべてのものが成人に達するまで、人格の完成と能力を身につけるために必要なものをなんでも学ぶべき場所となった[P.F.Drucker69, p428]」と述べる。

(写真:ジャン・ピアジェ)

(参照:Wikipediaより)

ここで「子どもの人格の完成」というキーワードが登場するが、同義である「人格の形成」をその教育目標としているのが、オルタナティブ教育の一種であるモンテッソーリ教育である。以前弊研究所公式Xにて、モンテッソーリ教育について呟いたところ「モンテッソーリ教育を受けていました。」「子どもが通っています。」という声があったため、ご存じの方も多いかもしれないが、モンテッソーリ教育は、ローマ大学初の女性医学博士であり、同時に実験心理学者・教育者である“マリア・モンテッソーリ”が、1907年世界初のモンテッソーリ教育実施施設「子どもの家(カサ・デ・バンビーニ)」を創設したことが始まりである。同教育法は、米国勢で絶大な支持を受け、1913年には100か所以上のモンテッソーリ教育施設が米国全土に建てられた。我が国では、現在幼稚園や保育園で実践されていることがほとんどだが(小学校も数校あるがわずか)、世界を見渡すと、140か国以上2万校以上がモンテッソーリ教育実施校と言われている。小学校はもとより、大学レベルまでモンテッソーリ教育は実践されている。

(写真:マリア・モンテッソーリ)

(参照:Associate Montessori Internationale公式ウェブサイトより)

日本ユニセフ協会が2021年に発表した「子どもの世界幸福度ランキング」(「イノチェンティ・レポートカード16『子どもたちに影響する世界』先進国の子どもの幸福度を形作るのは何か」では、「子どもの世界幸福度ランキング」が掲載されている。)で1位に輝いたオランダ勢では、実に全体の10%以上がオルタナティブ教育実施校であり、そのうち最も多い教育法がモンテッソーリ教育である。よく誤解されてしまうようだが、同教育法は、障がいを持つと診断された子どものためだけの教育法ではなく、広く一般に適応される教育法である。また、「頭のいい子に育てたい」「テストで点数の取れる優秀な子に育ってほしい」という保護者のエゴを満たすためのものでも、いわゆる“早期教育”・“エリート教育”とも全く異なる。その教育目標は、前述のように「人格形成」であり、嚙み砕いて言えば、自分の興味を拡大し、探求することで、ここに生まれた身としての自分の役割を全うできるだけの自主性・積極性・決断力・集中力・慈悲・愛を育むことであるのだ。

本ブログの主人公ドラッカーは、著作内でマリア・モンテッソーリを高く評価していたようである。
”For thousands of years people have been talking about improving teaching — to no avail. It was not until the early years of this century, however, that an educator asked, “What is the end product?” Then the answer was obvious: It is not teaching. It is, of course, learning. And then the same educator, the great Italian doctor and teacher Maria Montessori (1870-1952), began to apply systematic analysis of the work and systematic integration of the parts into a process.( 筆者日本語訳:長年の間、人々は教育方法の改善について語り続けてきた。今世紀初頭になって初めて、ある教育者が 「最終的な答えは何か?」と問いかけた。その答えは「教える」ことではなく「自ら学ぶ」ことである。イタリアの偉大な医師であり教師であったマリア・モンテッソーリ(1870-1952)は、これを体系的に分析し、統合して一つの教育法を導き出したのだ。)”
[Peter Drucker, Management: Tasks, Responsibilities, Practices (1973)]

また、ドラッカーは「精神形成にあずかって力があるのは、主としてこの知覚力、とくに手に触れて感じとる知覚力なのだ[P.F.Drucker69, p426]」と知覚力の重要性についても述べている。

この知覚力についてはラーニングピラミッドとしても知られるCone of Experience(経験の三角錐)を開発したアメリカの教育者であるエドガー・デール(1900-1985)も同様のことを説いている。エドガー・デールが著し、有光成徳が訳した「学習指導における聴視覚的方法・上巻(1950)」の57ページには、「経験の三角錐」というピラミッド型の図が登場するが、これは、「学習過程において聴視覚教材のおのおのが占める位置、及び教材相互の位置関係とを説明する一種の簡単な視覚教材[Edgar Dale50, p54]」である。この図は最上層から、「言語的象徴」「視覚的象徴」「ラジオ・録音盤・写真」「映画」「展示」「実地見学」「演示(デモンストレーション)」「演劇的参加」「ヒナガタ経験」「直接的・目的的経験」と、下層に進むほど直接性が増す。つまり、「映画」よりも「展示」の方が直接性に富み、さらに「実地見学」の方が直接性に富むという具合に続く。各層について簡単に説明しよう。

(図:経験の三角錐)

(参照:経験の三角錐(エドガー・デール著、有光成徳訳(1950)『学習指導における聴視覚的方法(上巻)』政経タイムズ社出版部、p57を元に筆者作成。)

「直接的・目的的経験」は、現実そのものを指す。つまり、「見、触れ、味わい、感じ、操作するところの目的を有する経験[Edgar Dale50, p55]」である。「ヒナガタ経験」は、「『現実を編集すること』であり、現実を理解しやすいように構成することである[Edgar Dale50, p58]」。ここでデールは飛行機の例を挙げている。例えば、飛行機の構造を理解するために、本物の飛行機に乗って操縦法を学ぶ機会に恵まれるものは少ないだろうが、模型飛行機を作り、実際に飛ばしてみることでその基本原理を理解することはできる。このように、模型や模擬装置による経験をヒナガタ経験と呼んでいる。「演劇的参加」は、直接現実世界では体験できないことを、劇化することによって体験するというものである(当たり前ではあるが、劇に参加するのと観覧するのとでは直接性に大きな差が生じる)。「演示(デモンストレーション)」は、例えば、理科の実験や、サッカーのコーチが、ボールのパスの仕方を手本として見せることなどである。「実地見学」は修学旅行などと言える。そこでは、人々が実施兄携わっている仕事や行為を目の当たりにし、自身は観察者となる。ただし「政府の役人と対談する機会を持つとすれば、実地見学は直接経験の領域に入ってくる。観察と参加とが組み合わされれば、実地見学は一層有意義になる。[Edgar Dale50, p80]」このように、ある階層が他の改装と全く関係を持たないわけではないことも理解したい。「展示」は、陳列している品物を見る行為であり、「映画」は、時間と空間の収縮を伴う体験ができる。「ラジオ・録音盤・写真」は、一次元教材として他の聴視覚教材から区別されルと解釈され、ラジオのように時間的要素に制約されているか、録音盤や写真のように時間的に自由であるが固定的であるという特徴を持つ。「視覚的象徴」は図表やグラフなどを指し、現実そのものの象ではなく、抽象化されたものである。「言語的象徴」は、形を持たない発音される言葉と、形を持つ文字どちらも含まれる。デールは経験の三角錐に対して、「できるだけ多種多様に経験を積まなければならない[Edgar Dale50, p69]」と述べ、全ての階層を多角的に活用することの重要性を示した。

さて、最後にもう一度話題をドラッカーの説く「知識社会」に戻そう。
かつて「仕事」が何よりも経験そのものであった間は、「学校」と「仕事」が分離していたため、学校で学んだことをそのまま仕事に持ち込む形がスタンダードであった。(仕事に就くのは通学をやめた時から始まり、逆に学校で学んだことがその後の職業生活の生涯に渡って通用するものでなければならなかった。)しかし「知識」が仕事に用いられるようになると、継続的な教育の必要性が出てきたのである。ドラッカーは「知識が深まれば深まるほど、かえって知らないことの多くが意識され、到達すべき新しい能力、新知識のあることを知り、自らの知識をいっそうさらに深めなければならない事を知るであろう。[P.F.Drucker69, p430]」と、永遠と続く学び・教育について語る。さらに、仕事場において今日必要とされる「専門」は、生物学や近代史そのものではなく、その応用である。ドラッカーの言葉を借りれば「“環境制御”とか“極東地域の総合研究”とかで、こうした研究は従来の各専門分野を一つに集め、実際に役だつ知識をもたらす[P.F.Drucker69, p432]」のであり、「一般職(ジェネラリスト)」に求められるのは専門的知識を持って、それを一般的なものに関連付ける能力なのだと彼は説明する。

筆者個人としては、経営学の父と呼ばれるドラッカーが、「知識社会」を読み解く際の要素として、ここまで教育にフォーカスを当てていることに驚いた。読者の皆様は何を考えただろうか。一人の大人として、日本人として、経営者として、働く者として、本ブログがあなたの何かを“想う”きっかけとなれば非常に幸甚である。

※当ブログの記述内容は弊研究所の公式見解ではなく、執筆者の個人的見解です。

事業執行ユニット 社会貢献事業部 田中マリア 拝

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[参考文献]
・[P.F.Drucker69]P.F.ドラッカー著,林雄二郎訳,「断絶の時代―来たるべき知識社会の構想―」,ダイヤモンド社,1969.
・[Edgar Dale50]エドガー・デール著,有光成徳訳,『学習指導における聴視覚的方法(上巻)』政経タイムズ社出版部,1950.