間もなく代議士になる君へ。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
今、このコラムは羽田から大阪・伊丹に向かう機内で書いています。程なくして君が「代議士」になるのは間違いないと信じているので、このコラムを書くことにしました。
君が官僚の世界を自らの意思で辞め、政治の世界へ乗り出すのではないかと最初に耳にしたのは数か月前のことだっただろうか。かつての同期の一人がそう、僕に囁いてくれたのだった。あの時、僕はすぐさま君が感じているであろう、とてつもない不安を想い、それとなく連絡をしたのだった。それに対して君は「実は・・・」といつもの様に、すぐに素直な返事をしてきた。それが全ての始まりでした。
官僚の世界を僕は12年で辞しました。あの時、僕自身は「自然な流れ」というか「背中を押す風」を感じたのでそうしたわけですが、それから後、娑婆は実に厳しく、しかし同時に自分が動けば必ず、良かれ悪しかれ全ての成果が帰って来るという意味で非常に充実した世界でした。そこに、あえて20年も官僚の世界で成功しつつありながら飛び込むことは、さぞかし不安だろうと僕は直観的に思ったわけです。そして、案の定、君はそうでした。
民間の世界(普通の世界、です)に出て思ったのは、「代議士とはなるものではなく、使うものである」ということです。官僚の世界で対峙するのはどうしても”個人“としての代議士なわけですが、実際のところ彼・彼女は大きなシステムの氷山の一角に過ぎないわけです。むしろ重要なのはそれを支えるスタッフや支持者たちの集団なのであって、その中でほんの一握りだけの人物が内閣総理大臣、そして閣僚へと推挙されて行きます。実に大変な世界であり、かつ多くの「代議士」たちがフラストレーションの余り憤死したり、あるいはとんでもないスキャンダルを起こすのには理由がある、そう僕はこの世界に飛び出してから常々思ってきました。そしてそこに君が飛び出すというのですから、実に敬服しつつも、やはりこれは絶対的な「支え」が必要だなとも思いました。
そこで僕からはそうした絶対的な「支え」となる御方をご紹介しました。絶対に表には出てない方です。しかし、必ず、そう、君が今後「代議士」として大成し、我が国の権力の中枢へと近づけば近づくほど、必ずその御力と御助言を支えにしなければならなくなる御方をご紹介したのでした。最終的に、不安はあれど、とりあえず飛び込んでみる、そう君からは連絡がありました。「良かった」と思いました。
君には「理」と「華」がある。しかし、残念ながら(未だ)「気」が無いわけです。実は我が国において現在の「代議士」と呼ばれる人物たちは皆そうです。しかし我が国の根幹にあるのは「気」による支配です。そしてその中心に我が国の本当の”権力の中心“がおわすわけです。民主主義というルールに則って選ばれるのが「政体」だとすれば、そうではない”気“によって自ずから連なっているのが「国体」の世界です。これらはどちらがえらく、どちらが優位であるということは全くありません。しかし「国体」がフレームワークであることは確かであり、その中を満たすように日々活動するのが「政体」でしかない。このことも事実です。
私自身はというと、外務省を辞す中で自らを押す「風」がやがてここで言う“気”であることに気づくに至ったのがこの11年ほどの歩みだったのではないかと思います。私には“理”があり、そして”気“はあるものの、明らかに”華“がない。そういう意味で君とは相補的なのかもしれません。
“気”の世界とは要するにシンクロニシティで連なっている世界です。これは誰しもがそうであるということは全くなく、また何かに選ばれてそうなっているというわけでは決してないのです。「そうであること」に対する特別な感性を持っている者たちだけが、しかるべきタイミングで、またしかるべき形で連なって行きます。そうした世界なのです。そしてまたその連なりは決して己の利益のために存在するものではありません。否、逆にその連なりをそうした狭小なもののために用いようとすると恐ろしいことに真逆の世界が首をもたげる、そんな連なりなのです。しかし逆に全ての者のため、その意味での本当の”公“のためにこの連なりとそれが持つ力を用いようとするならば必ず一筋の光が見えてきます。そしてその光の向こう側において、苦境に立っていたはずの己も必ず救われる、そういう世界こそ私がいつしか迷い込み、泳ぎ始めた「国体」の世界なのです。
もう間もなく「代議士」になる君にぜひ伝えておきたいことがあります。それはこれから我が国、そして世界を襲うことになる出来事は未曾有の規模とレヴェルであるということです。「政体」としてこれまで営々と築いてきたシステムは木っ端微塵になるでしょう。もっといえばそこの上に巣食ってきた既得利権やそれに群がる人々もまたふっ飛ばされてしまうはずです。
しかも原因が「太陽活動の激変」という、人智を超えた出来事であるため、もはや「政体」の側には打つ手がなくなってしまうのです。なぜならばこれまでは誰かが誰かのために犠牲になる、そのための説得材料として「多数決」ルールが採用され、それに則って自己犠牲を少数者に強いるための“公権力”を担うべく作り上げられたのが議会制民主主義であるからです。しかし事態はもはや「誰かが誰かのために犠牲になる」などというレヴェルではないのです。丁度、1890年にフランス全土において冬の平均気温が「マイナス30度になる」(!)というとんでもないことになり、多くの犠牲が出たように、私たち全員が多かれ少なかれ犠牲を強いられる、そうした時代がこの秋からいよいよ始まるのです。
「政体」はその時、完全なるスケープ・ゴートにされるはずです。なぜならば「選良」であるならば解決法を打ち出せるはずなのに、結局何もできないからです。システムそのものがそうした事態を想定していないからです。結果、「政体」は完全に追い詰められます。「代議士」には、水に落ちた犬に石の礫が投げられるように、激しい鞭が全国で振り下ろされるはずです。
「なんでこんなつらい役目を選んでしまったのだろう」
君は必ず、そう想うことでしょう。しかしその時にぜひ、冷静に思い起こしてもらいたいのです。“気”が己にはなかったということに。そしてまた近代以降、完全に隠蔽され、無きものとされ、我が国においては「象徴天皇制」という封印によって最終的に表舞台から消されてしまった元来的な在り方にこそ、そこから始まる苦境から脱出するための唯一のカギがあるということを。
我が国は天変地異の発生と相前後して、他の諸国勢に先駆けてデフォルト(国家債務不履行)へと突入します。これもまた不可逆的なことなのです。なぜならば「下げは上げのためである」からです。この国においてこれまで仮初の繁栄を享受してきた私たちは、不思議と始まり、かつ不思議と止まることを知らなくなるこの「国家財政の破綻」という未曽有の出来事を前にして、ようやく己を振り返ることになるのです。そしてその意味での仕組みの変更はもはや「政体」のレヴェルではなく、「国体」という見えない、しかし本質的なレヴェルによって統べられていることを同時に感じ取ることになるでしょう。全ての“システム”が音を立てて、しかも不可逆的に変わるからです。
その時、です。「政体」に属する君が本当に重要な役割を果たすのは。“華”と”理“をもって君がすっかり上手になった演説をもって人々に対して説明をする。一体何が起きているのか。「国体」とは何か、「政体」とは何か。それぞれの分別は何であり、そして我が国の本当の”権力の中心“がいかにして我が国を、そして世界を救おうとしているのか。そのために「日本の平和(Pax Japonica)」を実現されようと今まさにされようとしているのか・・・。
君がするべき仕事は正にその瞬間からです。それまでの些事に躓かぬよう。そしてまた「必要な時に必要な形で」またお会いすることにしましょう。その時、私からは必ずや「国体」の側からのメッセージを託していくはず。それを伝えられた君がどの様に動き、「政体」の側にありながらいかにして我らが”本当の未来“のために力を尽くすことになるのか。今からとても楽しみです。勝利の美酒に酔う君に、幸あれ。
2016年7月10日 ANA機上にて
原田 武夫記す