金融資本主義の実相と我が国霞が関の構造的欠陥 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
今、永田町・霞が関が激しく揺れている。中国が主導していよいよ創られつつあるアジアインフラ投資銀行への我が国の加盟を巡り、「英国が参加するという情報をなぜ事前につかめなかったのか」という安倍晋三総理大臣からの叱責と詰問が発せられたことで”犯人捜し”が始まっているからだ。文字どおりの「上や下への大騒ぎ」になっている。
形勢がもっとも不利なのは外務省だ。総理官邸、すなわち政治サイドは「事務方がきっちりと的確な情報を上げてこなかったからこんなことになったのだ」と逃げを決め込んでいる。無論、安倍晋三総理大臣の「懐刀」としてその人脈に深く入り込んだ経済産業省の深謀遠慮がそうした主張のバックグラウンドにはある。
となると残るは外務省が標的ということになってくる。なぜならば「外国のことについては全てが外務省の責任」という、一見するともっともらしいが、全く理由の無い、実に無責任な議論が我が国世論では一般的だからだ。そうであるならば外務省も反論が出来そうなものであるが、お決まりの「お家騒動」がそうした火に油を注いでしまっている。どうも流れを見ている限り、我が国メディアの中で週明け(4月13日週)にも「今回の失態に関する外務省内における犯人」が血祭りにあげられることになりそうだ。
だが、はっきり述べておきたいのだがこうした指摘は完全に間違っている。私はいかなる既存の組織を庇うつもりは毛頭ないのだが、それにしてもこうした議論は余りにも短絡的すぎ、このまま暴走すると真の国益を損なうと思うのだ。したがってここにそう考える理由を明確にしておきたいと思う。
まず外務省でも経済局に勤務した経験がある者であるならば知っていることが一つある。それは「金融外交」については財務省(旧大蔵省)と外務省の間で”100年戦争”が行われてきているという歴史的な現実だ。前者は「金融の素人である外務省が口出しするな」と議論し、他方で後者は「金融という1セクターだけの議論で国益を損なうな」と声高に主張して止まない。今回の出来事もそもそもは財務省の国際金融局ラインが最初から事態を把握していたはずだ。だが、国際通貨基金(IMF)を巡る議論の際に常にそうであるように、ギリギリまで同省だけで詳細は抱え、最後は外務省に投げてきたのではないかと推察する。なぜならばそれが「彼らのやり方」だからだ。
それでは「投げられた方の外務省はどうか」というと、全くもって一枚岩ではないのである。従前のコラムにも書いたとおり、外務省は国内において「利権」を創り出すことを目的として行動していない。そのため、国内の政官財では何か事があると格好のサンドバックとなる存在だ。本来ならば背後には経済産業省(=通商外交や経済安全保障を巡って外務省とこれまた「100年戦争」を争っている)、フロントには財務省がいるこの争いで負けることがないよう、外務大臣以下、きっちりと団結すべきなのだが、そうはなっていない。なぜならばそこには組織内部で構造的な亀裂が複数走ってしまっているからだ。
まず、人事を巡る抗争がある。現在の斎木昭隆外務次官(=かつての私の上司)は永田町と霞が関とをつなぐと言う意味では誰しもが認める能吏だが、その結果、省内の細かな人事にまで手を突っ込むことになり、真剣さ故に「独裁だ」と幹部だけではなく、中堅・若手からも批判を受けている。「慰安婦問題」などで失態が報じられ、永田町(=政治サイド)が少しでも怒ると、通常ならば事務次官が関与するはずもない低いレヴェル(たとえば課長補佐レヴェル)の人事にまで躊躇なく介入し、「責任者」として更迭するのである。あるポストなどはそのおかげで昨年だけで3人も(!)中堅外務官僚が”介錯”されたと聞いた。
だがそれだけならばまだ良いのである。しかし余りにも脇が甘いと言わざるを得ないのが、経済局長として自らの夫人である斎木尚子局長を布陣しているという点なのだ。これではいかに合理的な理由を掲げようとも、「ネポティズム」の誹りは免れないのである。民間企業ならまだしも、いやしくも公器としての外務省である以上、リーダーシップの基本としての「人間力」、とりわけ「倫理観=人としてどうあるべきか」という点について率先垂範するところがなければ、誰もついてくるはずがないのである。この点が省内で明らかにルサンチマン(怨嗟)を呼んでおり、「反斎木陣営」が築かれてしまっている。そこに来てアジアインフラ投資銀行という「経済マターでの大失態」なのである。これら反対派がメディアに対して省内から批判記事を書くよう煽ってしまっている。
だが、このことを「斎木尚子経済局長の失態」と決めつけるのは、外務省の実情を多少なりとも知っている人物からすれば、全くのお門違いだ。なぜならば本件は未だ海のモノとも山のモノとも分からないものであり、省内では「どうせ中国が騒いでいるだけだ。まずはアジア大洋州局=中国・モンゴル第2課にでもやらせておけば良い」という仕切りになっていたであろうことは容易に想像がつくからだ。しかもこれまた省内事情を多少なりとも知っている者であれば分かるのであるが、外務省内では「中国マターはチャイナ・スクールが断じて仕切る。それ以外の者には触らせない」という鉄の掟がある。元来、ロンドン・シティ(City of London)の策謀の一つと考えるのが妥当なのだが、金融資本主義におけるそうした常識を知る由もない外務省では、「二国間外交」としての日中関係の1コマとしてだけ、この問題を扱っていた可能性が極めて高いのだ。
よしんば事の次第を踏まえ、中国・モンゴル第2課が主管となって調査訓令を在ロンドン日本大使館に向け発出したとしよう。省内では欧州局(西欧課)、経済局、そして総合外交政策局あたりが合議(=協議)先となる。そして名目上は外務大臣名で、名宛人は駐英大使とされた公電が発出される。ところがここからが大変なのである。
調査訓令を受け取った在ロンドン大使館の中では「本件は財務マター」という仕切りとなり、まずは財務省から出向で駐在している俄か外交官(通称「財務アタッシェ」)が担当することになる。ところが財務本省において「本件は透明性に関する手続き論を中国当局に照会中。参加の意向を現状において我が国は持ち得ない」という判断がとりあえず下されていたとすれば、大使館内でこれら財務アタッシェのチームは轟然と反旗を翻すはずなのだ。
「これは承服できない訓令だ。財務本省は全く違う判断をしている。ついてはもし英財務省に訓令を執行せよというのであれば、麻生太郎財務大臣までかけあってからにしてもらいたい」
そう言われてしまった外務省から派遣されている外交官たち(通称「外務省プロパー」)はだからといって、英財務省に自分たちでアクセスすることが出来ないのである。不思議なことに我が国の大使館には不文律があり、トップである大使を別とすれば、各省庁から派遣されている「外交官」たちは自らのカウンターパートである任国の省庁を「独占的に」担当することになっているのだ。したがって外務省プロパーたちは英国であれば「英外務省」にしかアクセスできないのである。今回の件でいうならば、仮にこうした事態が生じており、しかも要件が火急ということであるならば、まずは英「外」務省に泣きついたはずなのだ。そして例えば同省の中国あるいは対外経済を担当している部局から「本音」を聴き出すべく奔走することになる。するとこんな木で鼻を括るような回答がたいてい帰って来る。
「我が国の態度は未定だ。ところで日本はどうするのか」
不思議なことに我が国からのこの手の調査訓令には「では、我が国自身はどうするのか」ということについて一切書かれていない。誠にもって無責任なのであり、任国の側からのこうした質問にたちまち窮することになる。そこで外務省プロパーの大使館内における根城である「政務班」から、商用電話(秘匿装置は無論ついていない!!)で英国を担当している欧州局西欧課の英国担当に激しい口調で詰問が飛ぶことになるというわけなのだ。
しかし省内では先ほど書いたとおり、例えばアジア大洋州局(中国・モンゴル第2課)が主管であった場合、欧州局はまったくもって当事者能力を持たない。そこでこの詰問はそのまま後者へとたらいまわしされることになり、本省における担当官は「こんな訓令を書く前に財務本省ときっちり詰めたらどうだ」とロンドンよりこっぴどく怒られることになる。だが、事が火急である場合、外務省はこうした調査訓令を財務省との協議無しに出すことが往々にしてある。財務省の国際金融局のラインに聴いたところで、どうせ本当のことは教えてくれなどしないからだ。その結果、物事は袋小路に陥り、あとは「政治的な後押し(=政治的モメンタム)」でもあれば物事は進むのだが、という嘆息だけが省内で洩らされることになる。そしていざ「政治的なモメンタム」が生じると、それは「総理官邸から外務省に対する叱責」となって姿を現すのであって、その背後には上述のとおり安倍晋三政権にあらかじめビルト・インされており、かつ外務省・財務省とは省益を巡って100年戦争を繰り広げている経済産業省が一人ほくそ笑むのが見えるのだ―――。
今回の問題は正に、永田町と霞が関が抱える「構造的な欠陥」を露呈させたと私は考えている。その理由は以下のとおりだ:
―金融資本主義はスピードが第一である。しかし我が国官僚制と、それに依存した政界は全くこうしたスピード感についていけていない
―金融資本主義の中心はロンドン・シティなのであるが、「日米同盟絶対」を掲げることで甘い汁を吸い続けてきた我が国の政官界はそうした現実を全くもって理解出来ていない。中国における金融改革の背後にロンドン・シティがいることなど、事前に公開されている資料を仔細に勉強していればすぐに分かるはずであり、その延長線上で思考すれば、「英国が真っ先に手をあげる」こともすぐに分かったはずなのだ。だがそうした金融資本主義の真実を我が国官僚制は明らかに知らない
―金融資本主義の根底にあるのは、ユダヤ勢の歴史であり、同時に華僑・華人ネットワークが織り成して来た歴史でもある。そうした「国民国家を超えた存在」が本当の決定者である金融資本主義の実相を、「国民国家という枠内でしか思考・行動出来ない存在」である我が国官僚たちは知る由もない。そのため、タイミング・内容共に全くもって的外れな動きをしてしまうのも当然のことなのだ(ちなみに、先般、全米ユダヤ人評議会の幹部が来日した際、外務省の担当部局は「課長補佐対応」で済ませたとも聞いた。局長以上が対応すべきであるのは言うまでもない。しかしそうした「金融資本主義の常識」を我が国の外務省はおよそ知り得ないのであって、戦後日本の「日米同盟」という虚構がもたらした病巣はかくも根深いものなのだ)
最後に一言付け加えるならば、こうした悲惨な状況が続いている背景にはメディアにも罪がある。外務省を自主退職した2005年当時、正にこうした問題意識に基づき、私は小稿をしたため、朝日新聞社の「論座」編集部にかけあったことがある。すると電話口に出てきた薬師寺克行編集長(当時)はいかにもかったるいといった口調でこうのたまわったのである。
「そんな論点は前から何度も語られていること。しかし語ったところで外務省は何も変わらない以上、論文を掲載することに意味はない」
あれから10年の月日が経った。国民国家という空想の枠組みをそもそも外れたところで動き回る「ユダヤ」「華僑・華人」の民族ネットワークとそれが織り成す金融資本主義は、その間、圧倒的に加速し、もはや我が国そのものを破壊しつつある。「日米同盟」という虚構の中に安住し、虚妄の中で権力闘争を繰り返してきた我が国の政官メディアを超えた、全く新しい本当の「リーダー」が我が国に生まれ出ずること。―――これが「今」という時が私たち日本人に対して課した喫緊の宿題である。
2015年4月12日 東京・国立にて
原田武夫 記す