掴みどころのなさを楽しむアート(連載「美と心の旅」・その5)
特別コラムニストのフラヌールです。
前回のコラムでは、近代絵画、村上華岳の裸婦像について取り上げました。
今回は現代美術について個人的な思いを書こうと思います。
皆さんは現代美術展に足を運ばれたことはありますか?
欧米諸国に比べて、わが国は公立の現代美術館が非常に少ないですが、都内には東京都立現代美術館があります。しかし、都内に住む私の周りでも、わざわざ美術館や個人が経営するギャラリーに現代美術を見に行こうという人はあまりいません。それでも、草間彌生、奈良美智、村上隆、会田誠、荒木経椎等、有名な芸術家の作品は、書籍やCDの装丁に使用されていたり、企業がコラボ商品を出していたりする(ルイ・ヴィトンと草間彌生、村上隆など)ので、彼らの作品をどこかで目にしたことのある人は多いと思います。
日本人の印象派好きは周知の通りで、現代美術を含めその他の展覧会は行かない人も、モネ展、あるいはゴッホ展なら行ってみる気になるという人は私の周りにも多くいます。
彼らに現代美術の展覧会を誘ってみると帰ってくる応えの多くが、「う~ん、現代美術ってあまり好きじゃないのだよねぇ。わけわからないし。きれいって感じじゃないし。」というものです。
現代美術とは、簡単に言えば、私たちと同時代に生きている作家が生み出したもの。我々と同じ空間、時間を生きているはずの彼らが、何を感じ何をつくるのか。同時代の社会や文化、環境に生きていながら想像を超えるような結晶を生み出す彼らの感性や表現方法の多様性に驚き、作品や作家のルーツに思いを馳せるのは、私にとってなんともダイナミックで楽しい時間です。現代美術談義をする仲間に恵まれないことはとても残念なのですが、先日、面白い方に出会いました。その方は、逆に現代美術のみ興味があるので、美術館には現代美術展のみ行くそうです。彼女との話題に上った作品の一つが、名和晃平『PixCell-Lion』です。今年開催されていた『ミラー・ニューロン展~高橋龍太郎コレクション~』でも展示されていた作品で、同展覧会の広告にも使われていましたので、ご覧になった方も多いかと思います。彼の作品から皆さんは何を感じますか?
「表面の球体は、つまり外界の刺激から体内を守る役割を果たしている皮膚という器官がぶくぶくと膨張していることを表していると思う。それはまるで外界と上手くコミュニケーションがとれず、拒否反応を起こしている生物なんだって思ったの。だけど、作家は全然違う意図でつくったみたいなんだけどね(笑)」
というのが彼女の感想で、私にはとても印象的でした。というのも、彼女はちょうどうつ病と診断されて三日に一日は自宅でぐったりとしてしまい休息をとらないといけない状態でした。そのような状態の彼女の感想は、普段、他人と会う時には常に気配りを忘れず気丈に振舞う彼女の内面の暗い部分の暴露、あるいは気にかけてほしいという私へのサインにもとれたからです。
一方、作家の名和自身が、PixCellシリーズと名付けたこの作品をつくった背景は、彼女の想像とはかなり異なるものです。PixCellとは、Pixel(画素)+Cell(細胞、粒、器)を意味する彼の造語で、このシリーズでは、インターネットのオークションで見つけた剥製をモチーフにしています。本物の剥製が実際に送られてくると、モニター上で見るPixelとなったイメージにはない生々しい手触りや臭いがあり、本物とイメージのあいだにはギャップがありますが、物体の表面を球体で覆うことで、今度はそのものの存在を「光の殼」で置き換え、「PixCell(映像の細胞)」という新たなビジョンを提示するという意図が彼にはありました。
透明の大小の球体でつくられたライオンの形をした、なんとも近未来的で幻想的な様相のこの生物に作家がこめた思いから遠く離れたところに、それぞれの観賞者が想像を自由に働かせる。そして思いもよらなかった作家の意図を知って驚く。こういう体験は素敵ではないでしょうか?
現代美術に興味がないのは「わけがわからないから」、なのであれば、ぜひその”わけ”を考えに、現代美術に触れてみるのはどうでしょうか。
あるいは「きれいでないから」わざわざ美術館に行くほどでないというのであれば、『芸術=きれい』でなければならないという縛りから一旦解放されてみて、「自分が出会ったことのない、だけど同時代に生きている人が渾身を込めて何を表現しようとしているのか」を覗いてみてはどうでしょうか。
たとえば、草間彌生の作品には、男性の象徴である男根(ファロス)の形をした、突起物がたくさん出てきます。彼女は、幼い頃から自分をとりまく世界が増殖し、自分を埋め尽くすという幻覚や幻聴に悩まされたこと、また自らの恐怖の対象である男根のイメージを増殖させることで恐怖の感情を抑えることになったこと、それらのことが作品のイメージの由来となったのだといいます。言葉による表現だけでは十分に伝えられなかった、リアルな彼女の心理的体験を、作品を通して我々は追体験し、彼女という存在に一歩近づこうという試みをしているのです。
確かに印象派の作品は、作品それ自体で満足できる美を我々に提示してくれます。一方、表現媒体が多様化し、古典美術のように頒布した批評家の賞賛、評価がなされたでもない、いわば生(なま)の現代美術は、作品そのものを見るだけでは掴みどころのないものも多いでしょう。そんなとき、同時代の作家が何を表現したかったのか寄り添うように想像してみると、観賞者たち、作家の感性の多様性に驚き、感動を覚えられるかもしれません。
【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.