バブルにならないのは「その時」を待っているからである。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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バブルにならないのは「その時」を待っているからである。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

我が国の金融庁がここに来て実におかしなことを言い出した。スーパーのレジや宅配業者の端末で、私たちの銀行預金が引き出せるよう、規制緩和をするというのだ。一見すると「便利になるから良いのでは」と思ってしまうかもしれないが、よくよく考えてみると実に変な話だ。なぜならば私たちはクレジット・カードを持っているからであり、スーパーでもそれで支払が可能なのであって、何となれば宅配業者に対する支払もそれで行うことが出来るようになればそれで済むからだ。なぜここで今更「現金引き出し」なのか、通常であれば全くもって意味が分からない。

しかしこうした報道を目にして、私はあらためて、我が国の本当の“権力の中心”に直結する人脈で枢要な働きをされている方が教えてくれたことを想い出したのである。

「原田さん、バブル経済というものは、世間の経済学者たちが述べているように自然とそうなるものではないのです。明確な意思をもって“そうする”ものなのです」

それに続けてこの人物は私に対して、「平成バブルの頃の我が国における街角の状況」をよくよく想い出すよう促したのである。あの頃、街角には消費者金融(サラ金)のキャッシュ・ディスペンサーが並び、人々は平気で10万円、20万円と現金を引き出していたのである。また繁華街にいくと相互銀行が夜9時まで(!)窓口営業をしていた。そこでも私たち庶民は容易にカネを引き出すことが出来たのである。

翻って現在について考えてみる。―――いわゆる「アベノミクス」がなぜうまくいかないのか。“富裕層”たちのマネー・ゲームが一部で盛り上がってはいるものの、それ以上のものになぜならないのか。答えは簡単である。一般庶民の手に日銀が「異次元緩和」と称して刷り続けている札束が全くもって届かないからである。

私は普段、主だった銀行における人財育成を行わせて頂いている。その場で痛感するのは、残念ながら「平成バブル崩壊」の後、全くもって失われてしまった我が国銀行エリートたちの「ハングリー精神」である。といっても、グローバル経済の中で投資銀行の真似事をしろというのではない。銀行セクターが”富裕層“と呼んでいる中小事業主たちのインサイトを徹底して探り、ビジネスではなく、まずは一人の人格として彼らに認められ、その懐に入る中で融資ニーズを獲得していくという、1980年代までの我が国銀行セクターであれば「当たり前」であった能力を取り戻す。ただそれだけのことなのである。しかし現場レヴェルを見る限り、そうした指導を行っている銀行は皆無だ。もっといえば銀行セクターの経営リーダーシップとなると、この基本中の基本を忘れ、グローバル・マネー・ゲームの末席を汚すのが自分たちの役割だと信じて疑わない向きがほとんどである。だから、中小企業に資金は廻ってこないのである。

そうである以上、政府や経済団体がいかに大声で叫ぼうとも、中小企業主たちは梃子でも動かないのである。設備投資をしないのは当たり前であり、しかも従業員の賃上げなど全くもってあり得ない。当然そのしわ寄せは従業員である一般庶民とその家族たちが被ることになる。

「もっと安い品物・サーヴィスはないか」

「仕事が終わって夕方から出来る割りの良いバイトはないか」

庶民の側でそう考えるのは全くもってあたり前のことなのである。ところがそこに来て政府の側が打ち出して来たのがリーサル・ウェポン(窮極の兵器)である「マイナンバー制度」なのである。もっともこれで諦めてしまう我らが庶民ではないのであって、より深い闇の仕組みの中に救済を求めるべく、深みへと入り込んでいく。それを追い続ける当局・・・。

「それでは我が国においてバブルは二度と訪れることがないのか?」

そう読者の皆さんは問われるはずだ。これに対する私の答えはこうだ。

「我が国は再びバブルとなる。しかも突然の始まりであり、かつ急激な展開だ。ただしそのために動員されるのは、表向きそれとわかる規制改革といった手段によってではない。“その時”のために取っておかれたマネーが人知れず、ばらまかれ、起爆剤となるのだ」

平成バブル崩壊後、私たち国民は本当のところ、それがどの様に「収束」させられたのか、そのための具体的な手段は何であったのか、全く知らされていない。何せあれほど大量に全国民にばらまかれた日本円なのである。それが「不動産取引に関する総量規制」という大蔵省(当時)の通達一本でどこかに消えてなくなるはずがないのである。しかしこの点について詰めて考える研究者は一人もおらず、ましてやマスメディアはこの問題を過去のこととしかとらえていない。私たち庶民のレヴェルではその後の日々の生活に余りにも忙しすぎ、このことについて考えている余裕は全くなかったのである。

しかし、である。例えば鳴り物入りで解体された「相互銀行」。そこに蓄積された数千億円のマネーが、人知れずとある人物(私人)によって未だに管理されていることを私は知っている。現在の預金金利の水準でも、この「管理人」にはかなりの金利が“お駄賃”として毎年支払われていることは容易に想像がつく。通常であればこうしたマネーが存在すること自体、あり得ないのである。だが、“横領”されることもなく、粛々とこうした莫大なマネーが管理されていること自体、相当程度「高次な意思決定」があの時下されていたと考えなければ理解出来ないのである。

「一体、誰が、何のために?」

繰り返し言おう。我が国において「バブル」とはそうなるものではなく、そうするものなのである。一撃必打でバブル経済を発生させ、これをややあってから一気に崩壊させる。そのことによって生じる大混乱の中で、私たちの国・日本はようやく、戦後70年間にわたって我が国を欲しいままに使うことができるキャッシュ・ディスペンサーとしてきた米国の鎖から己を解き放つことが出来るのである。そのための法的な仕組みはあらかじめセットしてあるのだが、これを担う政治的なリーダーシップは皆無である。だが、そのこと自体はある意味、どうでも良いことなのだ。なぜならば我が国の本当の“権力の中心”による「大号令」が発されるや否や、我が国の随所で隠されている莫大なマネーがいきなり解き放たれ、湧き出し、まずは「大崩壊」の前奏曲としての不可逆的なバブルへと我が国を轟然と導かれるからだ。

「その時」はもはや目前まで迫っている。すさまじい勢いで生じるそこからの怒涛の流れをイメージしながら、これからの一日一日を心底大切に暮らさなくてはならない。

2015年12月6日 札幌にて

原田 武夫記す

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