どうせ政府は何も出来ないのだから自分でやる。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
今、このコラムを私は伊豆・天城高原の夜明け前に書いている。窓外に見えるのは太平洋、そして満点の星空だけ、だ。何と偉大なる大自然なのかと嘆息してしまう。
なぜこの様な一時を一応は忙しい毎日の中で設けたのかというと無論理由がある。それは私たちにとってのそもそもの”原点“を確認したいと思ったからだ。
こうして高原の夜明け前に吹く清純な風を胸いっぱいに吸い込み、大海原を遠くに見やりながら満天の星を眺めていると、己の存在の卑小さが身に染みて来る。それと同時にマスメディアやインターネットなどで流布される無数の情報たちによって私たちの脳裏に描き出される世界像というか、そういったものが如何に「虚構」であり、元来無意味なものであるのかに気付くのである。
自然(じねん)には「原子力発電」なぞ、存在しない。
「TPP」などというものも、存在しない。
ましてや「安保法制」などというものも、ない。
「株価」もなければ、「金融資本主義」もないのである。
在るのは、ここに今この事共を想う自分の”思念“と、それに対して夜明け前の涼しい高原の風をこの頬に寄せて来る自然(じねん)だけだ。それしかない、のである。これこそが疑いようのない真実、なのだ。
かつて南洲はこういった。
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
全くもってそのとおりである。というか、この世には真のところ“それしかない”のである。
私がそもそも外務省、すなわち「政府」という意味での国家を自らの意思で飛び出したのは、えも言えぬ違和感を覚えたからであった。我らが日本には「公」が存在しない。アメリカン・デモクラシーの手続きによって選ばれている「政府」は自らが「公」であることを主張しているが、決してそうではないことを私たちは皆知っている。それが証拠に「公」であるはずの政府は税金の完全なる徴収をあえて行わないのである。いや、行わないというよりも、行えないのである。
それでは我が国が象徴として戴く「天皇」そして「皇室」はどうかというと、現状では「公」とは言いづらいのである。なぜならば「公」とは全体を包摂することを意味しているからである。しかし現在の「天皇」そして「皇室」はかつて、究極においてこの国を束ねていた“公”を創り出すための原理原則を私たちに対して示すことは出来ないままでいる。なぜならばそれがGHQという名で我が国を占領し、徹底改造を試みた米国勢が課した絶対的なルールだったからだ。そのため、国家有機体説でいうところの身体に当たる私たち国民と「天皇」「皇室」とは完全に切れてしまっている。そしてその残滓である施設めいたものを私たちは”参拝“し、済ませてしまっているのだ。だが、これはこの国の”公“を巡る元来の在り方では全くないのである。そのことに早く気づかなければならない。
私自身、市井の立場に戻ってから早いもので10年が経つ。外務省に奉職していたのが12年であるから、もう少しで「外交官人生」の年月を越えることになる。そうした立場から言うと、「公」を標榜する「政府」ほど、実に無駄なことをしでかす存在はないのである。
例えば今、我が国政府は懸命に環太平洋経済連携協定(TPP)を推し進めようとしている。そして「原則合意」だの、「大筋閣僚合意」だのといって世論にこれを刷り込むことに躍起なのである。そして挙句の果てに「TPPは中小企業のためになるのですよ」などとのたまっているのだという。全くもって笑止としか言いようがないのだ。
なぜならば我が国の国内総生産(GDP)の大部分を占める中小企業(SME)の現場レヴェルで言うならば、「政府」とは邪魔はしてくれても、決して役に立つことなど全くしてくれない存在だからだ。確かに「政府」は市場経済や自由主義体制の堅持をモットーとしていると繰り返し述べている。だが、その実行っていることといえば徹底した「規制」であって、それを通じた「業界」の創出とそれに対する「補助金」の付与。さらにはこうした措置に伴う公定価格と、アウトローたちが取り仕切る実勢価格の差の創出なのであって、この差額分を「利権」として関係者に割り振ることでこの国の戦後政治は成り立ってきたのである。だから「政府」は結局のところ、原理的に中小企業の邪魔しかしないのである。何かあたらしいことをしようとすると、必ずそれに立ちはだかって潰し(=「規制」)にかかる。ただそれだけの存在なのである。
起業者(アントレプレナー)という意味での経営者である読者ならばすぐさま察しがつくと思うのだが、中小企業の現場レヴェルにおける日常とはそれとは全くもってかけ離れたものなのである。「生き残るための闘争」がその内実なのであって、ありとあらゆる課題が山積している中、これを如何に乗り切るか、全身全霊でぶつかって行っているのがこれら起業者(アントレプレナー)としての経営者とそれを支える全てのスタッフたちの生業なのである。
海外進出一つとってもそうである。日本貿易振興会(JETRO)のセミナーに出たからといって何も効果的な対外取引が出来るようになるわけではないのである。しかももっと言うならば少子高齢化が加速度的に進む我が国にとって死活問題となる、人口増大化の著しい中国本土マーケットとの関係で我が国「政府」はこともあろうに無駄なことしかやってくれないのである。中国を抜きにしたフレームワークとしての「TPP」がその最たるものなのだ。
対中進出でカギを握るのはreliable and strategic partner、すなわち「信頼のおける戦略的パートナー」を華僑・華人ネットワークのしかもハイレヴェルの中で如何に見つけ出すかである。中国本土マーケットに暮らす人々は「人民」であり、消費者であり、労働者ではあるが組むべき相手ではない。そうではなくて自ら国家を超えた存在であり、国家に頼ることなく、むしろその国境を積極的に跨ぐことによって莫大な利潤を稼ぎ続ける「仕組み」を構築しているハイレヴェルな存在との間にこそ、無二の関係を構築すべきなのである。
米国、そして中国本土という意味での二つの「国家」をも股にかけたこうした華僑・華人ネットワークのハイレヴェルとの間で私自らやりとりをしていて日々気付かされるのは、いかに私たち日本人が“緩い環境”の中で甘やかされて生きているかである。逞しくファミリーとして生き続ける彼・彼女らにとって「国家」とは結局のところ邪魔な存在でしかない。無論、太いパイプをそれとの間で持ち続けてはいるが、自らがそれに参画することは無いのである。むしろあくまでも「個人的な関係」というステータスで「政府」には関わりを持つのが普通だ。
これに対して私たち日本人はというと、未だに「親方日の丸意識」が抜けないのである。心の底では「最後は政府(という意味での「国家」)が何かして助けてくれるだろう」と思ってしまっている。そのため思考停止し、呆けるのである。そしてこれまでであれば「政府」は先ほど述べたとおり、その意味でのベスト・アンド・ブライテストたちを使って規制の網の目を創り出し、業界をも創り出して守ってくれていたのである。しかもそこでは補助金を通じた公定価格と市中価格の差額を捻出することによる「利権」の創出、そしてその分配というおまけすらついてくるのである。我が国の経営者がスポイルされるのは全くもって当たり前であったと言わざるを得ないのである。
だが時代は全くもって変わったのだ。世界秩序の不可逆的な転換と、我が国における少子高齢化の加速度的な進行は、完全にゲームのルールを変えてしまった。「親方日の丸」はもはや存在しないのである。「TPPは中小企業のため」などと自らはビジネスの“ビ”の字すら営んだことのない高級官僚たちが嘯く言葉は、実のところ真逆を意味していることを忘れてはならない。既に始まっていること、それはどのみち程なくしてデフォルト(国家債務不履行)になって無力化する「政府」の庇護を抜きにして、己の在り方のみで国内も、そして海外も雄飛し、世界中で見つける兄弟たち(brothers and sisters)と共に新しい“公”を創り出す中小企業(SME)主という意味での起業家(アントレプレナー)=経営者たちによる時代の始まりなのだ。
どうせ政府は何もやらないのである。動くのはここに在る己のみ、である。そんな単純極まりない事実に真正面から立ち向かう勇気を取り戻さなければ私たち日本人に“未来”はないのである。そのことを、この天城高原にしかない無二の天と地は教えてくれている。
2015年11月29日 天城高原にて
原田 武夫記す