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「利権の時代」の終焉 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

「これから5年の間に戦後日本で続いてきた全ての利権が崩され、入れ替わることになる。その中でどのように自分自身、動いていくべきなのか。このことをよく考えなさい」

とある人生の先達より半年前からこんなアドヴァイスを頂いている。最初は分かったようで分からないようでといった感じであったが、その後も動き続ける中で考え、自分なりのイメージが湧いてきた感じがする。普段、何気ない日々の営みの中では読者もそんなことを思いつきすらしないのではないかと思う。しかし私が想うに、円安誘導の資産バブル展開に過ぎない「アベノミクス」よりこのことの方が、読者が今後も我が国で生き抜いていくためには遥かに重要であるのでここで共に考えて頂ければと思う。

そもそも「利権」とは何か?---「利権」は自生するものではない。利権は特定の経済的な利益が持続的かつ構造的に特定の人的集団に供与される仕組みのことをいう。それはすぐれて人為的なものであり、放っておいて自然に出来上がるものではないのである(以下の「利権」の定義は石渡正佳「産廃ビジネスの経営学」(ちくま新書)を参考にした)。

それではどのようにして利権が出来上がるのかといえば、端的にいうと立法を通じてである。ある社会問題が発生し、これへの対処として立法、すなわし法律が我が国国会において制定される。まずこれによって何が決まるのかといえば法律の中で定義される「業界」が何かが決まるのである。このようにして業界が確定される前にも当然、当該社会問題を発生させるビジネスを行っている業者たちはいる。だが彼らはいわば「事実上の行為」としてそれを行っているにすぎず、法律上、それとして保護されているわけでは決してないのだ。だが、「業界」は違う。法律の主務官庁が監督する中、その法律を守っている限りにおいてはそのビジネスは保護されるのである。これが合法性(legalitaet(独))の我が国における意味合いである。

問題はここからである。法律で守られる以上、業界によるビジネスには純粋な市場経済の原則がもはや作用しない。すなわち需給バランスによって価格が調整されるということがそのマーケットではありえなくなるというわけなのだ。とりわけ法律が「業界」に対して補助金を与えるか、そもそも需要を創出しているのが官公庁である官需の場合には特にそうである。その結果、硬直的で一般的には高めの価格が維持されることになる。

一方、法律はそれを守る者と同時にその網の目をかいくぐろうとする者も生み出す。それがアウトロー(outlaw)である。法律によって確定された業界のビジネスには市場原理が働かないため、徐々にマーケットの実態から遊離していく。簡単にいえば「もっと安くする方法はないのか」と言う声が自ずから聞こえて来るのである。そこで登場するのが彼ら(あるいは彼女ら)アウトローなのである。

アウトローはそうしたマーケットにおける本当の需要(民需)を踏まえ行動する。端的にいうと安くビジネスを行うのである。当然それは脱法あるいは違法行為であるのでトレースされないように重層構造を織り成しながら動いていく。そのたびに上位の者は下位の者よりその取引額の一部を搾取していく。いわゆる「ピンハネ」である。

アウトローが最終的にどのように儲けるのかといえば、民需より引き受けたものを表向き官需でビジネスしているかのように振舞っている業界に押し込むからだ。先ほど述べたとおり、業界は法律によって守られており価格が高めに設定されている。これに対して民需とアウトローの世界は価格が往々にしてマーケットより安めで推移しているのである。この価格差がアウトロー、そしてこれに最後は協力する(表向きはキレイな)業界の取り分ということになってくる。

この価格差として捻出される資金はそのものがアウトローなものである。したがってアウトローである担い手たちはこれを税金として国庫に納めることがない。無論、これは彼・彼女らの食い扶持ともなり、遊興費あるいは重層的な組織を維持するために用いられるけれども、ただ大半がそもそもこの利権を巡るストーリーの出発点にあって法律を創ってくれた先生、すなわち国会議員へと支払われるのである。無論、現金(キャッシュ)で支払われるので官憲がこれを知るには至らない。それなりに成功した政治家たちがなぜ、あれほどまでに豪邸に住むことが出来るのかといえば要するにそういうことなのである。

もっともこのカネの出どころはといえば、国庫なのである。法律によって値を吊り上げ、民需としての取引額の差額分を補てんしているのは要するに私たち国民が支払った税金であるというわけなのだ。増税論議になると必ず「財務省極悪論」を語る雄弁なジャーナリストたちがいるが、私の眼から見ると全くもって見当違いだ。なぜならば後に述べるとおり、究極においては外務省以外の全ての官公庁(「霞が関」における国内省庁)が事実上行っている立法行為(これら省庁が起案したは閣法としてほぼ100パーセント成立する)はこうした利権の創出行為に他ならないのである。つまり財務省だけを「極悪だ」などと批判しても何ら意味はないというわけなのだ(ちなみに自称「構造改革派」の国会議員や言論人たち、あるいは経済人たちは利権を整理する役割という新しい利権を手にしようと躍起になっているに過ぎない。そもそも利権は後述するとおり我が国が自律的にデフォルト処理を行う中で全て消えてしまうことを彼・彼女らは認識出来ていない)。

私たち国民が税金を徴収され、それが業界とアウトローたちの利益になっている。そんな仕組みがどうしてこれまで続いてきのか。---その理由は簡単である。私たちも多かれ少なかれ、そこで捻出される利益を享受してきたからである。もちろん様々な業界に自らが属し、直接的に利益を得てきた場合もあるだろう。「アウトロー」である場合は少ないにせよ、である。「自分は金銭的な利益を全く得ていない」と胸を張る読者であっても、犯罪行為に巻き込まれ、しかも民事不介入のタテマエの下、警察が手を出さないがどうしてもこれに報復したいと考える時、アウトローの力を借りるしかないということを私たち日本人は誰しもが知っている。そして少なからずその意味で「お世話」になっていることがあるというわけなのだ。

話を最初に触れた賢人である先達の言葉に戻す。---今なぜ、以上述べた来た意味での「利権」が崩れるのかというと、そもそもこの仕組みを構造的に支えてきた国庫、すなわち国家財政が我が国において破綻するからである。デフォルト(国家債務不履行)である。今年(2015年)に入ってから散発的であるが我が国国債の金利が急騰する局面があったことはそれが静かに迫りつつあることの証左に他ならない。そしてデフォルト(国家債務不履行)が発生する最大の理由は我が国の人口動態にある。日本人が少なくなれば国内マーケットでの消費者は低減し、需要が減るのでそこで行われる取引(ビジネス)から徴収するマネーから表向きは成り立つ国庫は目減りする一方なのである。そしてこれだけでも長期的に見るとデフォルト(国家債務不履行)は不可避である以上、まず切って落とすべきアウトローたちの取り分であるということになってくる。これを行っているのが「構造改革」なのだ。

無論、破綻を回避する道はある。それは戦後、米国が曲りなりにも「アメリカン・デモクラシー」が機能することの代償として(人々は「利権」を創りたいので投票し、”先生(国会議員)”を選ぶゲームに参加するのだ)黙認してきたこうした国内利権の連鎖ではなく、実はもう一つの錬金術を我が国経済の担い手たちは営んで来たことの延長線上にある道だ。端的にいうとグローバル化からの利益享受である。

かつては「自由貿易」「資本の自由化」等と言われたこのグローバル化を通じて我が国は国内で造った大量の製品を国外で売りさばき、利益を得てきた。「明白なる運命(manifest destiny)」としてグローバル化を盲目的に推し進める米国の後ろについてその応援団をしているだけで、我が国は大量の富を世界から国内へと移転することが出来たのである。何と好都合な仕組みであろうか。

そしてこの意味でのグローバル化を推し進めてきたのが我が国の「霞が関」においては唯一、外務省だったというわけなのである。つまり外務省は戦後、一貫してこの役割を担って来たのであって「対米追従」「奴隷外交」「売国奴」等と彼・彼女らを謗ったところで何ら意味はないのだ。なぜならばグローバル化から国家として我が国が極力安価で(=戦争経済に加担するというリスクは冒さずに)最大限の利益を引き出すことに外務省はただひたすら専心して来ただけだからだ。

だが残念ながらこの意味での「逃げ道」も程なくして封じ込まれることになる。なぜならばグローバル化による利益享受の大前提となってきたインフレ拡大期は徐々に終わりつつあるからだ。グローバル社会においては太陽活動の異変、そして気候変動の中(とりわけ北半球における寒冷化)、デフレ縮小化が不可逆的に進んでいる。それが如何にすさまじい勢いなのかは、日米欧がこぞって歴史的な規模での量的緩和を行っても、デフレーションを止めることが出来ないことから明らかなのだ。そしてデフレが全世界的に深刻なものとなる時、人々は越境移動が当然なカネの世界ではなく、物理的な存在としてそこに在り、当然のように動くものではない(ましてや国境を超えて動くことのない)モノの世界に回帰するのである。

当然、これを回避しようとグローバル化を推し進めてきた担い手たち(グローバリスト)たちは躍起になる。モノからカネを切り離し、しかもカネを瞬間取引可能なITによってやりとりするという仕組みへと移行し、さらにはこれまで搾取の対象であったはずの途上国の人々にも「エマージング・マーケット」という称号を与え、たとえ少額ではあってもマーケットに参画するよう追い立てているのはそのせいである。しかしその結果、世界秩序は混とんとし、万能なAI(人工知能)が仕切る金融マーケットでの高速取引についていけなくなった多くの人々はやる気を失い、若者たちは未来に絶望し、狂気の集団である「ISIS」などに自ら参加し、命を失うようにまでなっている。

それでも無常なまでにデフレ縮小化はグローバル社会において止まらない。そこで米欧の統治エリートたちはある段階で「PLAN B」へと移行するのである。これまでとは全く違い、デフレ縮小化に対応した世界秩序への移行である。そしてそこではグローバル化に追従していれば富を得られるなどと言う戦後日本における2番目の「定石」は一斉無効なのである。それでは何が決め手となるのかというと、正に今、そのこと自体をグローバル社会では轟然と議論しているというわけなのだ。私がメンバーとして参加しているB20での議論はその典型だ。

いずれにせよ、グローバル化への盲従という「抜け道」が封じ込まれる以上、我が国はデフォルト(国家債務不履行)を余儀なくされる。いや、他律的にそうなるというのであれば自分でスケジュールを組んで仕組んだ方が良いのだ。そこで事実上のデフォルト処理を推し進めるべしということになってくるのである。我が国の「本当の権力の中心」が考えていることはそれ以上でも、それ以下でもない。

我が国では未だに「このままの利権構造が続く」と考えている向きが多い。それによって糊口を拭って来た地方経済の担い手たちがもはや疲弊しているのは、「地方創生」がかつてのような1億円の金の延べ棒(!)をばらまく「ふるさと創生事業」ではなく、要するに利権無しでも適宜自活するようにという一方的な申し渡しになっていることによる。これだけでも利権の時代が終焉したのは明らかだが、次は都市部に暮らす住民、さらには大企業、そしてついには官公庁と立法府(国会)もその渦に巻き込まれるのである。利権の原資が無く、利権を創ることが出来ない”先生(国会議員)”を誰が投票するだろうか。民主党所属議員たちがまたぞろ落選したのはそのせいであり、結局は利権創出に原資不足で失敗している自民党所属議員たちも同じ運命を辿ることになる。利権によって保ってきた日本版アメリカン・デモクラシーの終わりだ。

だが全ての状況において必ず次へと至る抜け道はあるはずだ。そして質的に全く異なる新しい「利権」が今、国内外で創られつつある。全く新しいルール設定の下において、である。そのことを誰よりも早く理解し、行動したものだけが今後、生き残ることになる。それが現在進行形である”今”、本当に起きていることなのだ。

2015年3月29日 東京・国立にて

原田 武夫記す

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