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月読神社で月を見ながら考えたこと。 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

一昨日(22日)から京都に来ている。子曰く、「京都は物事を始める時に訪れるべき地」である。ここに来てやや手詰まり感があったが、やはりこの地に来る前後に物事が一気に動き始めた。祇園祭に沸く街中の喧騒を避けながら、一年に一度だけその大地が持つ力がピークに達するこの地でそれを十分に堪能させて頂いている。

そうした中、いくつかの大変気になる報道が世界では乱れ飛んでいる。一つは私がかつて留学した先でもあるドイツで遂に銃乱射事件が発生したということ。1972年の夏季五輪におけるテロ事件を別とすれば爾来、大変平和なことで知られていたミュンヘンのショッピング・センターで複数の死者を出す事件が発生した。

そしてもう一つが何といってもポケモンGOを巡る騒動である。ネットとリアル(現実)の区別がもはやつかなくなった者たちが続出しており、我が国のみならず、世界中で騒動が起きている。政府当局の「警告」が出れば出るほど「いったい何が起きているのか」と野次馬が増え、さらにその中から騒動を引き起こす者が続出する始末であり、収拾がつかなくなりつつある。

さて、一見すると全く無関係のように見えるこれら2つの出来事であるが、私の目から見るとこれらの間にはある共通の点がある。それは、いずれも当事者たちが己を律することがもはや出来なくなっているということだ。そしてその原因が少なくとも表面的には、前者については「宗教的確信」であり、対する後者については「ネットゲームの面白さ」の様に見える。だがこれらについてはさらに深い考察が必要だと私は考えている。

私たちの知覚において「視覚」は圧倒的な割合を持つため、どうしても「目に見えるもの」だけに私たちは判断の根拠を求めがちだ。しかしその実、「目に見えないもの」はいくらでも私たちに影響を与えているのであって、かつその影響は深く、底知れないものであることをあらためて認識すべきなのである。

こう考えた時、私の頭の中に真っ先に思い浮かぶのが「太陽活動の激変」という現在進行形の現実である。なぜ太陽活動、さらには陽光が重要なのかといえば、これだけは私たち全員に対して等しく降り注いでいるからである。もっともその影響の出方には個体差がある。様々な要因によって差が出来る中で、別の因子が作用を及ぼすことにより、結果として私たちの意識そのものが変質することは当然在り得るのである。科学者たちはこの、ある意味全くもって当たり前の事実について多くを語らないが、それもそのはず、磁力線を中心とした太陽の地球への影響、さらには人体への影響は全くと言って分かっていないのである。だから彼らはこの重大事について語らない。ただそれだけなのである。

そして今年(2016年)の年初に入る前から私が強く警告してきたとおり、太陽は今年の後半、劇的にその黒点数を減らしていくのである。そうした中でそこから発され、地球に照り付ける全てのものの影響が従前とは全く変わっていく。当然のことながら、それらを「受信」する側の私たちの中にはこうした変化に耐えきれないものが出て来る。そしてついには自律神経のバランスを崩し、これを戻そうともがく中で、ある者は狂信的な過激宗教にはまり、またある者はガイダンスを求めてデジタル信号に心を寄せるようになるのだ。その結果、冷静に見ると「奇行」としてとらえようのない動きを見せるものが続出するというわけなのである。

さらに厄介なのは「こうなること」を事前に察知している一部の者たちが、そうした混乱を助長し、拡大させることにより、自己に有利な状態を作り出そうとしているという点である。そしてそうした者たちは「ハーメルンの笛吹男」よろしく、ネットを用いて迷える子羊たちに対するガイダンスを喧伝する。その際のツールとして用いられるのが「インターネット・ゲーム」であったりするので受け取る側は全くもって“そのようなもの”としての認識を持たぬまま、摂取してしまうのである。その結果、混乱は無意識のままに生じ、かつ拡散していくことになる。

「現在起きている混乱の究極の原因は分かった。それではどうすれば良いのか」

読者の皆さんは必ずやそう思われていることであろう。私の答えは「己の意識そのものである“自律神経”を自分自身の手に取り戻すこと」である。そしてそのためには「時間の整理」と「空間の整理」が不可欠であり、何物をも差し置いてまずはこれに専心せよと言いたいのだ。なぜならばこの世に“在る”ものは究極において「時間」と「空間」でしかないからだ。ところがこれらの片方、あるいはひどい場合には両方が歪んでしまうと、全くもってバランスが崩れてしまうのである。その結果、自律神経が失調し、端的に言うと「己を見失ってしまう」のである。

古来、我が国の文明だけがこうした状況に対抗するための手段を営々と維持してきた。「陰陽」の教えが正にそれである。失調するということはイコール、何かが突出してしまっていることを意味するが、これをたたきのめそうと力を加えるのが米欧勢のやり方だ。これに対して「陰陽」においては突出するものがあるということは、どこかで必ず過度に陥没しているものがあると考えるのである。そしてこれら両方を見ながら、バランスを整えていくことを旨とした行動を促すのである。

さらに言うならば月に満ち欠けがあり、それが満ち潮・引き潮を生み出すことで風が生まれ、大地における気候が育まれることに気づくならば、気候変動一つ語るにしても、「結果」としての気候について云々するのではなく、むしろその根源である月の満ち欠けへ己をいかに適合させるのかに集中すべきなのである。なぜならばそれが「原因」だからである。原因を把握し、対処しないことには結果が山積するだけであり、やがて私たちは対処不能になるだけなのだ。

そしてここから「極意」が始まるのである。―――出生とは胎内から胎外へと赤ん坊が出て来ることを意味するが、それが地球上の重力バランスの変化によって生じていることを私たちは経験的に知っているのだ。これもまた月の満ち欠けがなせるわざなのであるが、そうであれば私たちは一人ひとり固有に「月との関係性」を刻印されているというべきなのである。これがいわゆる「月齢」である。そしてこの固有の「月齢」を起点にして胎外に出てきた以上、私たちの人体はそれを同じく起点にして動いていると見るべきなのであって、これがまず人体そのものを整え、自律神経を己にするための第一歩となるべきなのである。これに対して俗に「月」を語る者たちはやれ新月だ、満月だと騒ぎ立てている。「目に見える世界」にまたしてもとらわれているからなのであるが、そのこと自体は何ら意味を持たないのである。そうではなくて、少し頭を働かせ、記憶を辿れば分かるはずの己に固有の「月齢」を知り、それを起点としながら「月」の動きに正に適合的な形で生活を律していくこと。これによってまずは自律神経のバランスを取り戻す第一歩とするべきなのだ。

この様に述べることが、読者にとって余りにも奇異に聞こえてしまうのであれば、それは読者ご自身が元来の「在るべき姿」からかけ離れてしまっていることを意味している。だが、この世の根源的な階層である「王族たち」はいずれもこのことを知っているのである。なぜそれを言わないのかといえば、正に奥義だからであり、最後の最後に天変地異という人智を超えた、「民主主義」とは無関係な事態が生じた際に“統べる”ための手段を自らだけが確保しているという状況を創りだすためなのだ。そのことを忘れてはならない。

以上が今朝、4時に起きて車を走らせ、松尾大社のすぐ脇にある月読神社を参拝して考えたことである。ふと見上げると夜明けの月が煌々と私のことを照らし出していた。「そう、そのとおりだ」と言ってくれているかのようであった。そこで私が感じた充足感、それこそが人生において誰しもが必要としているmindfulnessに他ならない。そう強く想った次第である。

2015724日 京都・蹴上にて

原田 武夫記す

 

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