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日本人が知らない「ダボス会議の時代の終わり」 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

 

4月15日より米ワシントンDC入りし、16日から17日まで同地で開催された「B20」にメンバーとして出席した。B20の分科会(タスクフォース)は2月から3月にかけて議長国トルコが音頭を取る中、次々にイスタンブールで開催されたが、その後、3月後半に電話会議を実施。そして世界銀行(World Bank)総会の機会をとらえ、G20財務大臣・中央銀行総裁会合が行われるのと合わせ、「B20」も実施されたというわけなのである。

この様に書くと、「B20とは、そもそも何なのか?」と読者は必ずや思われるはずだ。それもそのはず、このB20について、いやさらに言えばG20そのものについて正しい意義付けが我が国で報じられてはいないからである。正直言うならばかくいう私も、B20のメンバーとなってフル・コミットメントでこのプロセスに参画するまで、「なぜこの様なプロセスが行われているのか」について全く理解してはいなかった。そこで今回はまずはこの点から書いて行きたいと思う。

まずはG20について。―――G20はそもそも、リーマン・ショック(2008年)に象徴される今次金融メルトダウンに対処するにあたり、「もはや先進8か国(G8)だけでは無理だ」という認識の下、エマージング・マーケットの雄たちをも巻き込む形で始められたものである。そのため、いわゆる先進国だけではなく、サウジアラビアやトルコ、そしてロシアや中国に南アフリカ、さらにはアルゼンチンといった地域大国がまたぞろこれに加わっている。

しかし事態を少々ややこしくしているのは、このG20がこうした成り立ちであることから参加各国において「財務省マター」として認識されているという事情があるからだ。金融メルトダウンに対して「何とかしなければならない」と動くのは、我が国の霞が関でいうと当然のことながら財務省・日銀ということになる。したがってG20は「金融問題について話し合う場所だ」という風に考えられるようになるわけで、このことが我が国では外務省が真正面から所管している「G8サミット」とは大きく異なっているのである。

更に事態を複雑にさせているのは、このG20会合には民間セクターを巻き込むために、数多くの補助プロセスがあるという点である。これまた我が国ではほとんど聞かれることがないが、グローバル・ビジネス・リーダーたちが寄り集う「B20」を筆頭に、30代以下の若者たちを集めた「Y20」、女性リーダーたちの集まりである「W20」、労組リーダーたちの会議体である「L20」といった会合が次々に立ち上げられ、活発な活動を行っている。

大変重要なのは、これらの会合が単に“おまけ”として政府間会合であるG20に関与しているわけではないということにある。それぞれの会合はむしろG20に「先立つ」形で、しかも「通年」で開催されている。そしてまず、その年にG20で話し合うべき内容についてトーン・セッティングを行い、具体的にG20の首脳レヴェルで決議すべき政策メニューを話し合うのは「B20」を筆頭としたこれら民間レヴェル会合の方なのである。すなわち「政官が民を指導する」のではなく、「民が政官を誘導する」という仕組みがそこでは創り上げられているというわけなのだ。

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それではこうした会議プロセスは自然発生的に始められたものなのであろうか。―――答えは「否」である。とりわけB20がG20を先導し、後に述べるとおり、政府サイド(G20)がきっちりとそこでの決議内容を履行しているかどうかを監督するプロセス(advocacy)を民間サイド(B20)が廻していくことを決めたのは2010年に開催された世界経済フォーラム(WEF)なのである。そう、あの「ダボス会議」である。

なぜ「ダボス会議」がこうした決定を行い、徐々に「B20」という形で政府(G20)を凌駕する立場を築き上げようとしているのかといえば、それは本家本元である「ダボス会議」が完全に“社交の場”になってしまっているという事情による。確かに毎年1月に実施されるこの「ダボス会議」には各国の政治家やグローバル・ビジネス・リーダーたちが参加している。我が国からも気まぐれであるかのように総理大臣を筆頭に政治家たちが出席してみたり、あるいはメディアで有名になりかけた若いセレブリティたち(勝間和代、橋下徹など)がそこに招待されたりしてきた経緯がある。だがいかんせん、それは「民間レヴェルでの会合」に過ぎないわけである。

これに対して「B20」は通年のプロセスであり、G20という政府レヴェルでのプロセスに密接に関与している。このことの「意味」に気付いた個人・組織・企業から順番に、積極的にその場で活動を行い始めている。何せ、形骸化した「ダボス会議」に代わって、今度はまずもって国際社会全体をリードするフレームワークを「B20」などの補助プロセスがまずは提示し、それを政府レヴェル(G20)が政治的に決定・採択し、実施する。しかもその状況を再び民間レヴェル(B20)が監督していくというプロセスが始まっているのである。正にグローバル利権の獲得競争の場なのであって、そこに絡まないという選択を真のグローバル・ビジネス・リーダーであればしないわけがないのである。事実、こうした重みをもっていることから、今回のB20会合にもラガルド国際通貨基金(IMF)専務理事といった政治リーダーたちも出席をしていたというわけなのである。

大変興味深いのは、例えばこのB20に出席するために「カネを払えば良い」のかというと、全くそうではないという点である。ちなみにB20の参加費はゼロ円である。高額なフィーを求められるダボス会議とは大きく異なっている。しかしその分、シビアに判断が下されていることも事実なのだ。なぜならばそこで問われるのは、このプロセスで議論を行い、しかもそこでの決議内容を現実にしていく(implementation)にあたり、出席を希望する者が果たして意味がある存在なのかだからだ。つまり社会的にインパクトがあると議長国の側から見て判断されなければ出席を認められることはないのである。無論、グローバルな意味での(日本国内だけで通用するというのとは全く違う)プロフィールも必須だ。しかも「そうした実績を持っていること」をきっちりと表現できなければ果たして何者であるのか、認識されることすらあり得ないのである。その意味で審査プロセスは厳しいものであると言える。(ちなみに渡航費は完全に「自腹」である。それでもプロセス全体に出席するだけの意思と財政面も含め能力が求められているのだ)

さて、この様に行われているG20プロセスを誘導する「B20」であるが、今回のワシントンDCでの会合においてどの様なテーマで議論が行われていたのかを簡単に書いておくことにしたい。結論を言うならば、そこでの主たるテーマは「包含性(inclusiveness)」「中小企業(SME)」「インフラ投資」であった。

我が国ではいわゆるLGBT、すなわち性的な差別を受けてきた者たちの権利擁護を求める論調が俄かに高まってきているが、そのことだけをとらえて云々することは実は間違っている。「国際社会が直面している事態はもはやそれどころではない、だから、これまで排除してきた多くの人的集団をあえて巻き込むことによって、そこにある知恵をも取り込み、かつ彼らを仲間=消費者とすることにより、マーケットを少しでも活性化させたい」という狙いが根底にはあるのだ。つまりデフレ縮小化に進む中で一人でも多くマーケットに参加させることにより、徐々に失われ、崩落していくその流れを少しでも食い止めようという議論、それが「包含性(inclusiveness)」の議論なのである。我が国ではそうした大局的な観点から論じられることが皆無であるため、単にこれまで世の中で阻害されてきた集団をハイライトすることだけが自己目的化してしまっているように思えてならないのである。女性の社会進出を促進せよという議論についても全く同じである。

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そしてこの延長線上にあるのが「中小企業(SME)」を巡る議論なのだ。今回、ワシントンDC会合に出て非常に驚いたのは、そこでの議論に大企業の陰が全く見られないという点であった。無論一部に米欧の有名大企業の幹部たちも混ざってはいたものの、それがメインというプロセスではないのである。その代りにむしろ中心としてとらえられ、「世界の救世主」とでも言わんばかりの扱いを受けたいのがSmall and middle sized enterprise, すなわちSMEであった。

日本語で「中小企業」というと今やある種の悲哀すら感じられてしまうのが実態だ。だが、米欧を中心とした国際社会の最前線では大企業によって押しやられてきたこれらのSMEこそ、今後、様々な優遇措置を講じることによって「世界を救う存在」になることを期待されているというわけなのだ。クラウドファンディングや、ネット上でSMEが客観的な企業情報(スコアリング)に基づいて自らの情報を開示するシステムが今やつくられようとしていることなどは、全てこうした基本的な情勢認識に端を発しているのである。ところが我が国では相も変わらず、例えば円安誘導をすることによって「輸出系大企業」に対する露骨な利益の供与が続けられていたりもする。だが米欧の統治エリートたちはというと、もはや身動きがとれなくなった大企業には未来を託さず、SMEにこそ、今後は賭けたいと公言しているというわけなのだ。ここに明らかに「グローバル」と「我が国」とをくっきりと分ける大きな隔たりがある。

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もっとも大企業、そして国家がやるべきことが無いのかというとそうではない。今回の会合で支配的な論調はというと、「インフラ投資の推進」だった。当然そうした規模での投資は中小企業(SME)の出番ではない。国家レヴェル、そして大企業が行うべきものということになってくる。とにかくデフレ縮小化を前提とすれば、ありったけの資源を総動員しなければその動きを食い止めることは出来ないのだ。「どこまでもインフラを整備し、もって経済の崩落を食い止めるべき」という至上命題の下、もはや背に腹は代えられないとばかりに、これまでならば絶対に認められなかったことも認めるという流れが既に出来上がっている。実はこの文脈でアジアインフラ投資銀行についても語られ、ラガルド国際通貨基金(IMF)専務理事、そしてジム・ヨム・キム世銀総裁共々「アジアインフラ投資銀行とは協力関係を構築していきたい」と公言して憚らなかったのである。このこと一つだけとっても、いかに我が国という「コップ」の中で揺れている議論が狭小であり、無意味なものであるかが分かるはずだ。

今回のワシントンDC会合で大きくトーン・セッティングされた「B20」のアジェンダは、次に5月の電話会議を経て、6月に今度は欧州勢との調整を行うべく、経済開発協力機構(OECD)との調整の場に挙げられることになる。そして最終的には11月のB20サミット=G20サミットまでこの一連のプロセスは続くと言うわけなのである。

私たち日本人がイメージしてきた「ダボス会議」はもはや終わったのだ。そうではなくて、全く違う発想の下、世界統治のための新しい枠組みが今、目の前で創られようとしている。例によって同胞=日本人が皆無である会議場を見渡しながら、今回もこう思わざるを得なかったのである。――――「何とかしなければ」と。

2015年4月18日 米ワシントンD.C.にて

原田 武夫記す

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