1. HOME
  2. ブログ
  3. サラリーマンのマクベス~「演劇の扉を叩いてみる」第二回~

サラリーマンのマクベス~「演劇の扉を叩いてみる」第二回~

特別コラムニストのふらぬーるです。

日曜日は、最高気温は23℃と五月中旬並みの暖かさでした。午前中は家に籠っていた私ですが、雨が上がり、マンションの窓を開けると、ベランダが内側までぐっしょり。屋根が防雨の役割をここまで果たさなかったのは五年の一人暮らしの中でもはじめてです。

ヤフーニュースの「春一番が吹いている」という書き込みを「あぁ、そうなの」と呑気に流していた(あとで14日の原田先生のコラム(https://haradatakeo.com/?p=61850)を拝見し、怒られそうで目が痛くなりました(笑))私ですが、昨日から再び気温が下がりました。病院ではインフルエンザが大流行しています。皆さまもお体には十分お気を付けくださいね。

 

さて、前々回のコラムで安倍公房原作・俳優座主催の演劇『城塞』を取り上げましたが、「演劇をテーマに何度かコラムを書いてみたら?」というお声がありました。そこで、何回続けられるか分かりませんが、暫く演劇のことを綴らせていただきたいと思います。

今回取り上げますのは、演出家に『城塞』と同じ真鍋卓嗣を迎えた、こんにゃく座の『Operaclub Macbeth』です。こんにゃく座の音楽監督を1975年から務められた、亡き林光さんが作曲されました。こんにゃく座は、小編成のアンサンブルの演奏のみで(今回はピアノ、フルート、パーカッションの3人編成)、全て日本語で歌う劇団で、「内容の伝わる歌唱表現」活動を続けています。

 

この「内容が伝わる」を目標とするオペラというのは、まだまだ薄学な私が楽しむための重要ポイントでした(笑)

オペラは、五年ほど前にニューヨークのメトロポリタン歌劇場とウィーンのオペラ座で二度鑑賞しましたが、今となっては、英語字幕と舞台に忙しく目を動かすのに疲れたことと、きらびやかにおしゃれした地元の裕福層の社交の様子しか覚えていません。音楽や衣装を素直に楽しめたらよかったのでしょうが、頑張って「ことば」を理解しようと必死になりすぎたのかもしれません。

そんな苦いオペラ体験しかない私ですが、こんにゃく座のオペラは今までのオペラのイメージを拂拭する、まさしく日本人のための、日本語によるオペラでした。

脚本は、シェイクスピアの『マクベス』の筋書きを利用しながらも、「マクベスの時代と現代」、「現実と妄想」が入り乱れる構成になっており、シェイクスピアへのオマージュと共に現代社会を風刺、問題提起する、モダンで刺激的な作品でした。

 

簡単にあらすじを説明しますと・・・

幕が開いて出てきたのは一人の酔っ払ったサラリーマンの男。「クラブマクベス」のウェイターに誘われるがまま店内に入ると、そこでは芝居「マクベス」が上演されている。サラリーマンとウェイターは、その芝居について議論したりするが、観客のはずのサラリーマンがいつしか芝居の中に入っており、マクベスが国王となるときはマクベス役となってしまっている。しかし、その後も店の客に戻るときもある。まさに男のセリフにある通り「これは現実なのか、あるいは妄想なのか。」の状態に。マクベスとなったサラリーマンは、芝居の中で死んでしまうが、現実でももはや生きていない。マクベス夫人は、現実の世界でも男の妻だが、芝居でマクベス夫人が自殺するのと時を同じくして、男の妻も自宅でガス自殺をしていた。

 

よく練りこまれた構成と展開の速さに感心させられた劇でしたが、観劇後も耳を離れないのが、劇中で三人の魔女たちが、軽快な音楽にのせて何度も口ずさむ「いいは悪いね、悪いはいいね」というフレーズ。魔女がマクベスに対して運命的な予言をするときに、彼女たちはそのことばを口にします。原作では「Fair is foul, and foul is fair」とあります。この語の解釈を巡って、英国を中心に昔から様々な議論がなされているようですが、そこまで解釈が困難を極める理由は、一見矛盾することばの並列だからというのみでなく、やはり欧州の思想背景にはキリスト教の善悪二元論が強いからでしょう。魔女という、キリスト教文化以前から存在したシャーマニズムに繋がる存在は、マクベスが初上演された16世紀の観客にとっても、そして今なお、解釈に苦しむことばということなのです。しかし、アニミズムや中庸に慣れ親しんだ日本人からすると、なんとなくこのことばを言う魔女の気持ちが分かるのではないでしょうか。いいと悪いの境界がいかに曖昧で、また人為的であるという理解に慣れ、そして社会構造が変わればひっくり返る可能性まで案じてしまう私たちですから。「自分がいいと思ったことが他のひとにとっていいこととは限らない」「うーん、よくもあるし悪くもある・・・」なんてことばを何度聞いたことでしょうか。

 

気になるセリフをもうひとつ。「王になりたい」という願望を抑圧することができず、殺人を犯してしまったマクベスの「もう眠りはない。マクベスが眠りを殺してしまった。(Sleep no more! Macbeth does murder sleep.)」。フロイトのことばを借りれば、超自我が声となって現れており、自身が犯した罪に対する強い否定と解釈できましょうか。この時点では、まだ超自我の声を聞くだけの意識はあり、故人の亡霊に悩まされるマクベスでした。しかしその後、マクベス夫人に喝を入れられ、「我が身のためなら大義も名分も知ることか。ここまで踏み込んだのだ、今更引き返せない。思い切って渡ってしまうのだ。」と、進んで破局に突入していくことになります。

 

マクベスの自己破壊劇を、現代世界で家に何日も帰っていない酔っ払いサラリーマンの破滅と重ね合わせた今回の演劇。無意識と意識(現実と芝居マクベスの中)を揺れ動いたのち、無意識の願望を爆発させ、自我が完全に崩れ、現実世界で死んでしまった一人の男の存在が、古典『マクベス』の世界に現代に生きる私たちをぐっと近づけました。犯罪心理、社会への不適応、自死という観点からも、五世紀以上昔に書かれた戯曲『マクベス』にさらなる興味を持つきっかけとなりそうです。

 

画像:The first complete edition of Shakespeare’s plays(1623); BBC famous people index

【執筆者プロフィール】
flaneur (ふらぬーる)
略歴 奈良県出身、1991年生まれ。都内医学部に在籍中。こころを巡るあれこれを考えながら、医療の『うち』と『そと』をそぞろ歩く日々。好きなことば : Living well is the best revenge.

 

関連記事