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「陰」を窮める (連載「パックス・ジャポニカへの道」

 

週末になり久方ぶりに東京で僅かばかりの休息の時間が出来たので、書店に足を向けてみた。インターネットなどというものが無かった学生の頃、足繁く通った書店だ。初夏を迎え、緑萌えるといった感じの「大学通り」にいつものとおり、その書店は佇んでいた。

しかしその中に入ってみて正直愕然とした。「本が無い」のである。かつて私は某社のオンライン・コラムを担当していた際、そのことを端的に指摘したことがある。すると、出版もしている同社の編集部からものすごい勢いで抗議の連絡があった。「本が無いとは何事か」というのである。だが、外務省を自主退職してから早いもので10年余、その間、「経営者」として曲りなりにもやらせて頂いてきた眼をごまかすことなど出来ないのである。事態はその時よりも遥かに悪くなっているように感じた。この書店に通い始めたのが懐かしいもので30年程前のことになる。その頃、時に激しい左翼系雑誌も含め、この書店には本が山のように積まれていたことを今、懐かしく思い出している。

その代りに今、目立つものといえば、特定の「著者」による、しかも「対談本」なのである。つまり「少しでも売れた」となると、その著者に寄ってたかって出版社たちが群がるため、「著者」たちには時間が無くなるのである。しかも最近、少々年齢と方向性の違う「著者」たちの「対談本」が一部で売れたということもあり、出版社たちはこぞって「それでは先生、時間も無いでしょうから、先生たち同士で自由に話して頂き、それをゴースト・ライターがまとめますので、最後の原稿だけチェック頂けますか」という提案をすることになる。「著者」たちからすれば「はじめに」か「あとがき」を適当に書くだけで、後は好きなように話せば良いというのであるから、これほどまでに嬉しい提案はない。二つ返事で応じる結果、一つ、そしてまた一つと「対談本」企画が山積みになっていく。しかし、書店に“実踏”してみて、まさかここまで事態が深刻なほどにまで悪化しているとは思いもよらなかった。

そしてそうした「書店の惨状」を見るにつけ、あらためて思ったのである。「こういう中だからこそ“陰”を窮めることには意味がある」と。

人にはどうしても虚栄心というものがある。マズローの欲求5段階説ではないが、「誰かに認められたい」という承認欲求は生まれながらのものだからだ。衣食足りて礼節を知る、というのが我が国の伝統であったはずが、逆に衣食足りて、他人様を押しのけるというのがこの30年余りのトレンドになってきた。

「平成バブル」というトンネルを抜けて出た先にあったものは、少子高齢化、すなわち端的にいうと我が国国内マーケットの漸次的な縮小なのであった。つまりこれまでは求めるとすぐに得られたはずの「パイ」がもはや得にくくなったというわけなのである。その結果、少ないパイを巡って隣人を叩きあい、罵り合い、何となれば潰す、というのが日常光景になった。我が国におけるリーダーシップは何かをゼロから創り出すものではなく、むしろ既にあるものを如何にして劇場政治の中で見せしめに破壊し、少なくなるパイを得ることが出来ず憤懣やるかたなき大衆の喝采を得るというのがパターンになった。「視聴率」「売上部数」を上げたいマスメディアはそうした新しい否定的リーダーシップを盛んに持ち上げ、それが流行らなくなるとさらにもっと「濃く激しい破壊」を行う者たちを盛り上げる様になった。

その窮みとなったのが先の民主党政権である。振り返ってみると「政治主導」とは名ばかりであり、それまで戦後続けられてきた「利権の時代」においておこぼれにあずかることの無かった者たちが一連の「利権構造」を壊しただけだったのである。彼・彼女らは結局、上述の意味での否定的リーダーシップの典型でしかなかった上に、そもそも国内外情勢が新たなる「利権」の創出を許しはしなかったのである。その結果、民主党政権は人心を失い、同党はそもそも「政党」としての実態すら失うに至ったというわけなのである。

これに代わって登場した安倍晋三政権はある意味、オーソドックスな創造的リーダーシップを志したものであるとは言える。第1次政権時代に対する深い反省から始まった第2次政権で安倍晋三総理大臣は異能の実務家・菅義偉官房長官が支える中、徹底したマスメディア・コントロールをまずは行った。ここでいう否定的リーダーシップを抑え込むためである。当初は抵抗していたマスメディアの側であったが、「株価」という分かりやすい指標を錦の御旗に掲げた安倍晋三総理大臣に対する支持率は衰えることがなく、結局は「視聴率」「売上部数」という商業主義的な配慮から、その軍門に下ることになる。そして「誰もいなくなった」というわけなのである。つまり「正・反・合」という民主主義にあるべきプロセスが現行の安倍晋三政権の下における我が国においては事実上消失してしまい、当の安倍晋三総理大臣については「2015年8月後半以降、何をやるべきか、アジェンダを探して彷徨っている」とまで密かに政治ジャーナリストたちが語り合うにまで至ってしまっているのだ。

つまりこういうことだ。―――1980年代以降、我が国のマスメディアはそれまでの正統派「エスタブリッシュメント」に対抗する否定的リーダーシップを育て過ぎた。しかも本来ならば正統派「エスタブリッシュメント」が“陽”だとすれば、これに対抗するリーダーシップは徹底した“陰”であるべきなのに、マスメディアたちはそうはしなかったのである。つまり“陰”には陰として徹底すべき流儀があるというのにもかかわらず、それをあえて表舞台に引き摺り出し、新たに“陽”にしてしまうという行為を次々に繰り返して来たのだ。その結果、本来ならば”陰“として磨かれるべき人財までもが枯渇し始め、私たちの国・日本では”陽“”陰“共に真のリーダーシップが存在しなくなってしまったというわけなのである。

我が国のみならず、国際社会とは実によく出来たもので、本当は3つの構造から成り立っている。まずはマスメディアが喧伝し、誰もが日常生活の中で知ら締められていく「表の世界」である。たいていの人々はこのレヴェルで流布される「真実」に満足し、それ以上を知ろうとはしない。

もっともこれだけでは決して納得しない手合いの者たちがいる。そうした者たちのために用意されているのが「裏の世界」だ。そこでは実にもっともらしい論理と仮想敵が設定されており、善悪がはっきりとした構造の中でこれまた多くの人々が納得してしまうことになる。

だが、真相は決してこれら2つのレヴェルにはないのである。いわば「闇の世界」とでもいうべき階層にそれはある。これに到達出来る者はほんの一握りである中、逆に本当にこのレヴェルにまで到達することが出来れば、そこで見えるのは本当の意味での「全体」であり、表や裏で語られている二項対立(創造的リーダーシップと否定的リーダーシップ、あるいは善と悪など)がこれを凝固させないために人為的に創られた構造に過ぎないことを悟るのである。

抽象的に述べてもなかなか分かりづらいと思うので、もっと具体的に言うとこういうことだ。まず「表の世界」で我が国の“神道”というと云々されるのが「靖国神社」である。だが歴史書を見るとすぐさま分かるとおり、そもそも「靖国神社」などというものは明治維新より前に存在しなかったのである。神道を国家として整備した事実上最初の試みである延喜式にはその片鱗だに無いのである。だが多く人々がこれにこだわり、毎年のように論争が繰り広げられている。つまり「国家神道」というレヴェルの議論であり、「表の世界」の話である。

これに対し、多少なりとも気づいた者たちが辿りつくのが「伊勢VS出雲」という絵柄である。明らかに違うこれら二つの「神社」の構造を前に私たちは戸惑い、そこに歴史解釈を求めるようになる。その結果、「支配民族と被支配民族の抗争」と言う分かりやすい絵柄を与えられると、これをすんなりと受け入れてしまうというわけなのだ。そして多少なりとも知的な満足を得て、真実の探求をやめてしまう。

だが、本当はそのレヴェルで全てを知ったことにはならないのである。現在の私たちの「神道理解」は大元を辿ると江戸時代の本居宣長があくまでも文献解釈学として確立させた「国学」の伝統に基づいている。紙幅の都合上、ここでは詳細を割愛するが、フィールドワークを一切することのなかった書斎の人・本居宣長は実のところ、「古事記」や「日本書記」といった基本文献ですら、自己の解釈にとって都合の悪い記述があるとこれをあえて歪曲して理解しようとし、その結果、後世を生きる私たちの神道、いや古代日本の理解に対して著しくネガティヴな影響を与え続けてきたのだ。

神道、そして古代日本について真の理解に到達し、いわばその「闇の世界」にまで行き得た者たちは須らくフィールドワークを行っている。古くは弘法大師・空海、そして徳川幕府などがこれにあたる。そしてその結果、古代王朝が決して単純な二元論ではなく、本来は一元論であり、しかも「古事記」や「日本書記」といった基本文献に描かれている「高天原」といった場所が空想の産物ではなく、リアルに在る場所であることを知るに至るのである。

同じことはグローバル・マクロ(国際的な資金循環)とそれを取り巻く国内外情勢についてもあてはまる。「表の世界」とは要するに国内外の金融機関で活躍するアナリスト諸兄たちが日々語る世界である。あるいは「売れている」経済評論家たちが綴る世界といっても良い。曰く、「経済は数値分析が可能なものである」「金利といった定量データを分析すべきであり、所詮見る者のバイアスから逃れることのできない定性分析は不要だ」といったものだ。

だがそれでは飽き足らない御仁たちが必ずいる。そしてインターネットの世界から文献の世界へと入り込み、ついには“真相”に至るのである。

「世界は国際金融資本によって牛耳られている。意のままに操る彼らは根っからの悪であり、大勢の人々の不幸から巨万の富を築き上げてきた、実に忌むべき存在だ」

ここで機能しているのもまた、勧善懲悪、「善と悪」という二元論だ。かつてであれば「悪の帝国=ソ連」、あるいは現在で言うならば「拡張主義の中国」といった“敵”づくりもこれにあたる。多少なりとも知的な読者はまずもってこのレヴェルで満足するため、こうした議論を延々と書き連ねる著者たちが後を絶たない。

もっともこうした「表の世界」「裏の世界」ではなく、「闇の世界」はというと全くもって異なるのである。例えば「表の世界」「裏の世界」ではとかく露呈しがちな株式への出資という形で企業、そして経済を牛耳ろうとしているというストーリーが語られがちだ。だが、実のところ経済の実態を織り成しているのは“融資”の世界、つまり第三者にはそれとして見えない債権債務関係なのである。債務の世界で全てはつながり、大元から創造されているということを私たちは全く知らない。究極の意味において「陰」というべきこの世界では、かえって一元論なのである。だがその係累にある者たちは決してそのことを表向き語ろうとはせず、ひたすら「表の世界」と「裏の世界」を静かに構築し続けるのである。一元論の境地にまで至ったことのある「闇の世界」の住人たちだけが中庸を知り、本当の「全体像」を体得している。

それではこうした窮極の地位にまでどのようにすれば選ばれることがあるのかといえば、徹底して”陰“を窮めること、としか言いようがない。この時、”陽“とは善悪といってレヴェルではなく、また先ほど述べた目立つリーダーシップという意味での”陽”でもない。むしろ自然(じねん)そのものである。人間社会という意味での世間様も含め、森羅万象すべてといっても良いだろう。それらとの関係において徹底して”陰“というわけなのである。「???」と思われた方は次の言葉を振り返ればよい:

「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして己を尽くし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」(西郷隆盛『南洲翁遺訓』)

はっきり申し上げることにしたい。私が世界中を飛び回り、見聞きし、あるいは我が国の内奥に入り込んで見聞を広めてきた限りにおいて言うならば、世界を“陰”という一元論に基づき統べっているのは実にこのレヴェルの人士である。そして「2020年までには世界が変わる」云々と言われていることの本質は、このレヴェルの人士から見た場合、“陰”の論理に照らすと余りにも違う現実を「表の世界」「裏の世界」の住人たちが創りすぎてしまったため、これを即座に正さなければならないという点にあるのだ。そしてその時、“陰”を窮めた彼・彼女らが用いるものは「債務」である。これを通じて世界を根底から覆すことにより、「表の世界」「裏の世界」に暮らす人類社会としてはマジョリティ(多数派)である者たちに大いなる自省を促すというわけなのだ。つまりこれから起きることは実にその程度の規模のものということになってくる。「ゲームのルールが変わった」などというレヴェルの出来事ではない。すさまじいの一言に尽きる。

「闇の世界」における“陰”の原理の伝達は全て口伝によって行われている。紙になど残さないのである。いかに「表の世界」「裏の世界」がはびこっていて、地球全体を覆っているかのように見えても、その実、必ずその間隙を縫って這い上がって来るものたちがいるのである。これが実に人間社会の不思議なところなのであるが、「闇の世界」に辿りつくにはそれしか方法がないのである。そして「闇の世界」において“陰”を窮めた先達たちはそのようにして這い上がってきた者たちに試練を与え、暗に「表の世界」「裏の世界」へと戻るように仕向けるのである。それでもなお「いや、良いのです、“陰”の世界を窮めるのです」と述べた者たちだけに門は静かに開かれ、そこにはえもいえぬ荘厳な世界が広がっているというわけなのだ。

私が想うに、今現在、我が国を襲っている危機とはこのレヴェルでの「闇の世界」に在って、“陰”の論理を窮め、世界を統べる者たちが事実上絶え始めているということに他ならない。しかしそこでもまた「復元力の原理(ルシャトリエの原理)」が働くのであって、絶滅の危機になりそうだからこそ、実は他ならぬ「日本人」の中から今度はこの階層が続々と湧き出て来るのではないかと感じている次第だ。人類社会とは、実によく出来ている。

青年期から馴染みの書店、「本が無い本屋」を廻る中でそうではあってもそこで溢れる「表の世界」「裏の世界」をあらためて見たからこそ、想うのである。「夜明けの時は近い。今は暁鐘が打ち鳴らされる時である」と。そしてまた、そうであるからこそ、私自身も”陰“をより一層窮めなければならない。そう、強く想う。

2015年5月31日 東京・国立にて

原田 武夫記す

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