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続・福島第一原発からトリチウム汚染水が消える日 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

 

昨夜(7日夜)遅く、私の下に一通のメールが舞い込んで来た。送り主は馴染みのベンチャー企業経営者氏だ。今月(2月)6日、資源エネルギー庁から委託を受けた廃炉・汚染水対策事業事務局において「『汚染水処理対策技術検証事業(トリチウム分離技術検証試験事業)』に係る補助事業者の追加公募」に関するヒアリングが実施された。同経営者氏のベンチャー企業(ここでは仮にA社としておく)もその対象であり、その時の模様を伝えてきてくれたというわけなのである。

三菱総研が資源エネルギー庁より委託を受けこの事務局を務めている。何をやっているのかといえば、要するに2011年3月11日の東日本大震災により被災した東京電力・福島第一原子力発電所から今でも日量400トンもの規模で排出され続けているトリチウム汚染水の分離処理が可能かどうか、そのための技術を我が国政府として集めているというわけなのである。

私はかねてからA社による技術開発に着目してきた。念のため申し上げておくが、私はA社とはいかなる形であれ、契約関係に立つものではなく、ましてや資本関係に立つものではない。いわば「勝手連」のようなものであり、その類稀な技術開発が単に汚染水からのトリチウム分離という荒業を成し遂げるという観点を越えて、明らかに閉塞状況に陥っている「アベノミクス」の我が国にブレイクスルーをもたらす可能性が大いにあると考え、側面支援してきているのである。

ベンチャー企業による技術開発で難しいのはその開発状況に関する対外説明である。余りに多くを語りすぎてしまうとそれを真似する者が出て来、開発者として当然受けるべき利益を失ってしまう。先般もエボラ熱に対するワクチンを開発した我が国有名企業が、公開情報だけで見様見真似で類似品を中国企業によって造られかけたばかりである。

その一方で何も語らないことにもリスクがある。なぜならばベンチャー企業は資本が乏しい。開発の円滑な遂行のためにはマネーがいくらあっても足りないというのが実情だ。したがって目利きの出来る投資家たちが次から次にやってきて、事実上の企業買収を試みる。対外広報の能力がないベンチャー企業は下手をすると札束で買いたたかれ、「その技術を表に出さないこと」を目的とした買収の脅威にさらされることすらあるのだ。だが当該技術が公益性を持っている場合、こうした事態があってはならないことは言うまでもない。そこでその技術が「それの登場によって不利益を被る者たち」によって闇に葬られないようにすべく、まずはその存在そのものを世間に知らしめるべしということになってくる。

私は以上の観点からA社による取組みについて、一昨年(2013年)の年末よりギリギリのラインでインターネット上での説明を試みてきた。「福島第一原発がすさまじい量を放出し続けているトリチウム汚染水が無事に処理されるのであれば、それは我が国のカントリー・リスクを大幅に低減させることにつながる。それはひいては我が国の本当の復興・復活につながるのだ」という強い信念に基づく取り組みであった。

ところが一昨年の年末からこの取組みを私が初めて以来、すさまじいバッシングが私と私の研究所を襲った。まず自称「科学者」の方々から「トリチウムは分離出来ない。化学の教科書に書いてあるイロハのイだ」とする非難の声を受けた。他方、そもそもこの技術の存在を広く知らしめたのが我が国を代表する経済メディアのインターネット媒体上であったため、そうしたすさまじい非難は同社編集部にも向けられることになる。

私はこの編集部とも密にやりとりをし、当該コラムを掲載してもらったのであるが、余りの騒ぎに同編集部は恐怖に打ち震え、最終的には「この記事は一部誤りがあった」等と言う訳の分からない説明と共に、執筆者である私との関係を一方的に断ち切った。無論、その際、一切の裏付け取材を彼らがしなかったことは言うまでもない。経済ジャーナリズムの基本中の基本であるが、同社のドル箱の一つであるインターネット上のジャーナル媒体が攻撃対象となることは流行りの「デジタル・マーケティング」の維持という観点からはあり得ず、とにもかくにも災禍の源と彼らがみなした私との関係を断ち切ったというわけなのであろう。経済ジャーナリズムなるものがもはや我が国では死に体であることを裏付ける出来事であった。

更にこれに便乗するかのように自称「ブロガー」なる実に無責任極まりない輩がインターネット上で騒ぎ始めた。彼らは発言の「裏付け」としてインターネット上の出来事しか調べない。要するに「騒ぎになっていること」に便乗し、言葉巧みに自らのコラムでそのことについて言及することによって、インターネット検索上、有利な立場に立とうとしている輩なのである。誠に無責任窮まりないわけであるが、私と私の研究所を知らぬ方々は遠隔地において事の真相を知らないまま、ジャッジすることになりかねないという意味で、実に由々しき事態なのである。

しかし、である。私はこうした事態に直面しているからこそ、己が為すべきことは何なのかを今一度冷静に考えた。その上で自らは全く新しい「綜合文化人」を目指すとし、次のような取組みを行っていくとインターネット上で宣言したのである。

・「イノベーション」「ゼロから創造」「そのための社会統合(インテグレーション)」を行うのが自らの役割であると最初から決意していること。誰かから与えられた枠組みを批判的に云々するのが役割ではなく、救国のための「新たな価値・枠組みの創造」が自らに課せられた使命であることを知っていること

・米欧が主導してきた秩序が行き着いた先である「金融資本主義化」「グローバル化」「フラット化」のいずれについても、その構造的な問題点を熟知しているのみならず、「その次」に向けた具体的な提案力・構想力を持ち合わせていること。もはや「誰かのせいにする」という態度は許されないと腹をくくっていること。他人に責任をなすりつけるという意味での「他責」ではなく、あくまでも全てを最後に負うという「自責」へと常に立ち返るための修練を日々行っているという意味で「経営者」としての経験があることが望ましい

・問題意識と志を均しくし、同時に我が国に真の刷新をもたらす動きの最先端にあってこれをリードしている仲間たちを糾合し、もってイノベーションをもたらす「メディチ効果」を発揮するための”場”づくりを行うためのリーダーシップをとることが出来ること。そこでは各人が持ち寄る能力に対して「いいね!」と率直に語り、互いに高め合うのが基本となる。これは、マスコミの番組に”場”をもらってそこに相手を誘い込み、テレビ・カメラの前で完膚なきまであげつらうといった「マスコミ文化人」の行動パターンと真逆の行為である

・「事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理」を行うまでに追い詰められた我が国に、再び富をもたらし、同時にそのこを通じて国際社会に対し、”インフレ拡大経済”という意味でのこれまでの金融資本主義の「次」となる範を示すため、我が国の持つ次の長所について深い造詣を持ち、専門家たちと議論することが可能であること:

―世界有数の技術力

―争いではなく、あくまでも「平和」を根本とする社会の在り方

―自然の破壊ではなく、それとの調和を基本とする文化(「XX道」と呼ばれるものの根幹にあるもの)

―「対称性」「造作」を前提とする米欧の芸術に対し、「非対称性」「自然(じねん)」を基本とする我が国の芸術

―これらを可能とする日本人に特有の右脳優位の脳システム(及びこれを持ち合わせない米欧に対して与える右脳優位の「人工知能」)

A社に対する支援は正にこうした全く新しい「綜合文化人」になるべく、行って来たものである。そしてその道のりは正直、決して楽なものではなかったということを吐露しておきたい。

まず「教科書で否定されていることだからトリチウムの分離など不可能」という既存の”科学“の知識が少々ある一般の方々の無理解がある。多くの人たちはそうした「学のある人たち」の言うことを信ずるので結果、ゼロから1を生み出すという意味で「非常識」なイノベーションは徹底して潰されてしまう。事実、A社の技術はこれまで徹底した無理解にぶちあたり、何度となく葬られそうになってきた。

大変興味深いのは大学教授など「専門家」たちの対応だ。実は彼らは「教科書外の現象」があり得るということを薄々知っている。しかしそれを表に出すと自分を取り立ててくれた師匠、さらにはその大元である「学界」全体がそうした「教科書」を公定していることと真正面からぶつかってしまうことになる。結果、保身を選んだ「専門家」たちは「話は聞くが、自分は一切関わらない」という態度をとり続ける。そのため、我が国では政府から高等研究教育機関に対して莫大な金額の「イノベーション助成」がなされているにもかかわらず、破壊的なイノベーションは出てこないということになってくるわけだ。そして市井の研究者たちがなけなしのカネでかろうじて成果の端緒をつかみかけた技術はこれら「専門家」たちの手による検証実験を経ていないという理由だけで闇に葬られていくことになる。

それでは大手の民間企業はというと、もっと事態はひどいのが実態だ。経営トップ層は関心を持つことがあるものの、彼らとて単独で判断しないのが通例だ。要するに目利きの能力がないのである。そのため「技術部長を呼んでくれ」ということになるわけだが、この技術部長氏が市井から持ち込まれたイノベーションを芽吹かせるよう尽力することはまずないのである。いきおい「この技術はこういった点について疑義がある」などという訳の分からない鑑定書を示して事を済ませようとする。彼らには直感的に分かっているのである、「破壊的なイノベーション」はややもすると失業しか生まないということを。ましてや自分自身が開発したわけではない技術が世にはびこってしまっては、技術開発にあたっているはずの自分の身が危ないのである。そこで勢い「この技術はノー」ということになってくる。そしてその声を聴いた経営トップも社内融和の観点から、「政府当局がお墨付きを与えてくれるならば協力も考えましょう」などという玉虫色の解決で事を済ませるというわけなのである。

そこで話は「親方日の丸」ということになってくるのだが、ここで霞が関の構造的な問題が露呈する。霞が関、すなわち我が国の中央省庁は「文官」優位で構成されており、しかも特定分野の最新技術となると、正直なところ知見を持ち合わせていないのである。公的な実験・検証機関はあるものの、結局そこを占めているのは先ほど記したアカデミズムの弟子たちに過ぎない。母校にいる恩師とその背後にある学界のことを想いながら、新しいことに対しては後ろ向きとなる。万が一「画期的な現象」がその技術によってもたらされたとしても、せいぜいのところ「脚注」で触れる程度である。そして文官である主務官庁に報告をあげ、後は見て見ぬふりをする。その文官はというと、余程のことが無い限り、これを上司に上げようとはしない。仮に上げたとしても上司にも判断能力はないのだ。その結果、関連書類は霞が関の階段を一つ一つ上がっていき、最後は「大臣」、さらには「総理官邸」に辿りつくことになる。

だが、最終的には総理大臣の面前で、革新的な技術の真髄を語る勇気を持つ者は誰もいないのである。「万が一、この技術による実験が失敗してしまっては自分の首が飛ぶ」そう恐れることにより、絶対に総理大臣へ報告されることはないのだ。その結果、「アベノミクス」でいえば三本の矢は永遠に飛ばないということになってくる。経つのはただ時間のみ、なのである。

以上はこの1年余りにわたってA社の「破壊的イノベーション」が一つ、そしてまた一つと我が国のこの意味での構造を打ち破っていくことをお手伝いする現場で、私自身が肌で感じたことである。無論、そこで立ちはだかった壁に打ちひしがれることなく、一つそしてまた一つとクリアーしていったからこそ今があるのだ。

「これまで何がA社のこの技術を巡って起きてきたのか」

救国のイノベーションに関するこのことについて、私は然るべき段階でかかわった全てについて実名で公表する考えである。読者はそれを読むことにより、「技術立国」であったはずの我が国がいかに深刻なまでに蝕まれているか、そしてそれと同時に、そうした惨状の中にあっても「変革」を信じ、支援の手を差し伸べてくれるほんのわずかなリーダーや協力者たちがいることを知ることになる。

まずはA社に対する当局の「沙汰」を待つのみである。当局からの連絡は「2015年2月12日」に行われる予定である。これまで起きてきた様々な出来事、そしてそこで出会った多くの方々を思い起こしながら、今はただ、静かにその時を待つこととしたい。

2015年2月8日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

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